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主催講座6「三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇~」

第1回「樺太の戦争」

2021/11/30

 11月18日(木)主催講座6「三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇~」の第1回「樺太の戦争」を石狩市花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、映像プロデュ―サーの中尾則幸さん。受講者は32人でした。
 中尾さんは、講座のテーマについて、「これまであまり語られることのなかった『樺太の戦争』を中心に『満州の悲劇』を学ぶことによって、我々はこれからどうすべきかを考える道標となってもらいたいと思います」と、熱く語り始めました。
今日の講座は、前半は中尾さんのお話。後半は、受講者の疑問に答える質疑応答形式で構成されています。
以下、概要を紹介します。
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〇はじめに
◇戦争を語り継ぐことの大切さを訴える
戦後76年の今、昭和20年以前に生まれた人の人口比率は14%~15%。その内、戦争の記憶を持っている85歳以上の人口は5%である(先の世界大戦で犠牲になった日本人は310万人)。
・昭和20年の日本人の平均寿命:男性23.7歳、女性32.3歳
この数字から、いかに多くの若者が戦争(戦死、空襲など)の犠牲となったか、いかに戦争は惨いものであるかがわかる。
・戦争の惨禍を語り継ぐことは極めて難しくなってきた
あの戦争の悲惨さ理不尽さを、今語り継がなければ、「いつか来た道」になる。それは過去の歴史が教えてくれている。
◇戦争を語り継ぐことが抑止力に 
中尾さんは、昭和21年生まれで戦争体験はないが、ご両親が常々語っていた、「お前が今生きているのは日本国憲法があったからだ」という言葉、傷痍軍人の物乞い姿、小学生の頃原爆展で見た被爆親子の写真の記憶から、二度と戦争は起こって欲しくないと強く思うようになった。
・戦争の記録を綴り、朗読劇を実践している。それは、戦争の悲劇を語り継ぐことが戦争の抑止力となると考えるから
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〇戦争末期の北海道と状況の変化
昭和19年~20年にかけて敗戦の色濃くなった頃、日本本土は米軍の空襲にさらされた。
・昭和20年3月10日:東京大空襲→約10万人が亡くなる
・昭和20年7月14日~15日:北海道空襲
製鉄所室蘭525人、青函連絡船430人、ほか記録に残っているだけで2900人の死者。
・連日空襲に見舞われた本土だったが、悲劇が少なかったのは、樺太と満州(中国東北部)→日ソ中立条約が結ばれていた
〇ソ連の参戦
昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して、樺太と満州に攻め込み、事情は一変する。
◇満州の悲劇
当時、ソ連のリーダーは、ナチスドイツのヒトラーと並ぶ殺人鬼と云われたスターリン。当時ドイツと戦争していたがヒトラーは戦意喪失。
・20年5月、ドイツに勝った後、次は日本だと領土拡大を狙って準備していたという
・昭和20年8月9日、ソ連は突然、南樺太、満州へ侵攻して来た。なぜか
・8月6日、広島に原爆投下。日本が降伏する前に潰そう
◇ヤルタ会談
昭和20年2月11日、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの3人が、クリミア半島ウクライナのヤルタで会談し、秘密協定を結んでいた。
◇秘密協定の内容
・アメリカの大統領がソ連に対日参戦を仕掛ける
・見返りに日本の領土である、南樺太、千島列島を手にすることを、終戦の6カ月前に取引が出来ていた
◇アメリカが取引した理由
・日本に上陸すれば血みどろの戦いになり米兵の被害が大きい
・早く降参させようと、ソ連に条件を出した
・原爆を完成させていなかった→完成は7月
もし完成していたらソ連と手は結ばなかった。歴史というものは、恐ろしく皮肉なものだ。
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〇満州の状況
満州には多くの日本人が開拓民として入植していた。
・関東軍の軍人と合わせておよそ200万人 
・その内100万人の軍人は、戦況悪化した南方に派遣
・8月9日、日ソ中立条約を破ってソ連軍侵攻時には、日本の兵力は3割程の30万人しかいない。ソ連軍は157万人
・日本の参謀本部は「満州国防衛の任務は放棄してよい」→結末は火を見るより明らか
・怒涛のソ連軍の侵攻を受け、虐殺、強姦、暴行、集団自決が相次ぐ→樺太も同じ運命をたどる
・佐渡開拓団の集団自決で生き残った方の手記
『涙でぐしょぐしょな顔で私は銃の引き金を引きました。妻や子どもを、そして親や知人も。もうこれ以上...中略』。生き残ったこの方は、どんな思いで戦後を生きて来たか言葉を絶する。
◇この時、開拓民は
・満州だけで18万人が命を亡くした
・悲惨な状況を知って、関東軍の上級幹部や将校は、家族ともども列車を仕立てて逃げる
・軍の下級将校が幹部に詰め寄ると答えは、「我らは命を懸けて本土防衛に向かうのだ」
・敗戦を覚悟した時国家は、非戦闘員の安全を守るのが万国共通の考え方。日本軍は民衆を捨てた→スターリンの思うつぼ
・8月15日の無条件降伏には、ソ連は直接関わっていない
・日本軍が満州の日本人を見捨てた→ソ連兵の残虐行為は正当化された。これらの行為はスターリンが指示
これは、樺太の戦争や留萌沖の引き上げ船の民間人1700人を皆殺しにする攻撃に繋がっている。
◇圧倒的なソ連の軍隊と闘った部隊もあった
・二葉百合子の「岸壁の母」
戦後、舞鶴港の岸壁で引き上げ船を6年間も待ち続けた母は実在の人物、端野いせさん。一人息子の端野新二さんは満州でソ連軍と戦って玉砕した一人。こういう日本兵もいたことは、救いである。
〇樺太の戦争
昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻が始まった当時、樺太には、およそ40万人の日本人が住んでいた。
・1905(明治38)年、日露戦争で勝利し、樺太の南半分北緯50度以南が日本の領土になる
・昭和20年8月9日以降、満州と同様にソ連軍の猛攻撃が始まり、それまで平穏だった島は血に染まる
・北緯50度の国境線を超えて陸上から。空からは機銃掃射
・樺太の住民は逃げ惑うように、稚内へ逃れるために大泊港に殺到。その数2万人~3万人
・国境沿いの街から大泊までは、札幌から函館以上の距離
・8月13日、全島に緊急疎開命令だされる
汽車は限られ、馬車やリヤカー、徒歩で逃げる。トラックに乗れるのはごく少数。大変な逃避行である。
・8月15日、終戦を告げる天皇陛下の玉音放送が流れる
街や村のあちこちで火の手が上がる。樺太には第88師団という軍隊が常駐していたが、兵力は削がれ戦闘機も対空砲火もなく逃げるしかない。
◇緊急疎開船
稚内の宗谷海峡を航行している作業船や貨物船は、大泊や真岡に集められる。しかし、40万人の住民を運ぶことは出来ない。
・樺太庁は、引上げ船に乗る条件をつけた
男は65歳以上の老人と14歳以下の子ども。女は40歳以下と子ども。
・幼児や女子ども、お年寄りをいち早く北海道へ避難させ、働き盛りの男は島に残ってソ連と戦えということ
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◇生き残った人の証言
逃げ惑う避難民に対する攻撃で、道路は血に染まり、死者で埋った。まさに地獄絵図である。
「道端に赤ん坊の死体があります。母親に捨てられ、その子は泣いて泣いて死んでいったのでしょう。瞼を腫らし、体にかけれた布を小さな右手で握っていました。また、ふり絞る様な声で、泣く孫と二人で『足手間問いになると捨てられました』と、老婆は弱々しい声で泣きながら私に言いました」。
・逃げきれず、手榴弾で一家集団自決が相次いだという
◇若い看護婦たちの集団自決事件
・8月17日、西海岸の恵須取町にあった太平炭鉱病院の看護婦23人が集団自決を図り、23人のうち6人が死亡、17人が一命をとりとめた悲惨な事件
「持参していた睡眠薬の量は全員の致死量に足りず、手術用のメスで手首の血管を切った人もおります。幸いにも近くにいた人に発見され、6名絶命しましたが、生き残った看護婦が保護されました」。
・生き残った人たちの手記を読むと辛い。「私はなぜ生きの残ったのか」と自分を責め、死ぬまで思いを背負っている人ばかり
・死んだ人も、生き残った人も辛かった。これが戦争です
・6人の慰霊碑は札幌の護国神社に建てられた
◇樺太の戦い
当時の満州では、軍部の幹部は逃げたが、樺太では違う。
・8月15日、東京の大本営は、「全島放棄」を宣言する
・樺太軍を指揮する札幌の第5方面本部は、「自営の戦闘は継続せよ」と、大本営とは反対の命令を出した
・なぜそうしたか
戦後、第5方面軍の司令官は語っている。「ソ連の侵攻をそのまま認めたら、ソ連軍は樺太だけでなく、必ず北海道に上陸してくる。その判断があったから戦った」。
もう一つは、千島列島の最北端のシュムシュ島に日本軍1万人いた。ここでも身を挺して戦った。
・これがなかったら北海道は占領されていたと思う
・樺太に残った一部の住民たちは、国民義勇軍として日本軍と一緒に戦う
犠牲者は民間人5千人、軍人1700人と言われているが、資料を読むとこれ以上はるかに多い。
◇当時の日本は、なぜ、唯々諾々とソ連軍に侵攻を許したか
・ソ連とは日ソ中立条約があるから安心して、全く無警戒
・ソ連は6カ月前に、参戦して日本の千島も南樺太も取ってしまうと決めている。そんなことは全く判っていなかった
・ソ連に仲介役を頼もうとしていた
・悪い情報は一切無視し、いい情報しかとり上げない
 この姿勢が日本の被害を大きくした。
◇真岡の9人の乙女の話
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港湾都市真岡は、ソ連軍による虐殺、強姦など、最大の被害をだした。
・8月20日早朝、真岡の港におよそ10隻の軍艦が入った
艦砲射撃で街は火の海になった。その後、5000人もの武装兵が一気になだれ込み、無差別に目につく住民を全部銃撃した。
・第88師団の真岡連隊が残っていたが、武器は拳銃一丁と手榴弾1個。これでは戦えない
・無条件降伏したのだから抵抗しなければ大丈夫だ。しかし、すべてやられた
真岡郵便局の電話交換手9人の乙女たちの集団自決について、これまでに残された証言から当時の状況を話す。
・8月20日の早朝5時40分頃、真岡郵便局の局長から電話交換室のリーダー高石ミキに緊急の電話が入る。「ソ連の軍艦が真岡に向かっている」切羽詰まった声だった
・その後、海岸に近い郵便局も襲撃する。郵便局にいた職員が次々に射殺され19人が死んだ
・無抵抗の民間人を無差別に射殺する。これは国際法違反であり、虐殺である
・当時電話交換手は12人、別館2階にいて孤立無援の状態
高石ミキ班長以下全員が青酸カリ自決の道を選ぶ。生き残ったのは僅か3人のみ。
・真岡郵便局の交換手と最後の会話をしたのは、豊原郵便局の交換手栗田やち子さん当時16歳
栗田さんは、豊原郵便局の交換台にいた。そこに真岡郵便局の同僚から緊急の電話が入った。
◇最後のやりとり
「豊原局、豊原局、こちら真岡郵便局です。今艦砲射撃を受けています。目の前にソ連がきています。艦砲射撃を受けています」電話口からドカーンという音がし、「苦しい」という声も聞こえてきます。この時栗田さんは、青酸カリを飲んだと直感的に思ったそうです。
・栗田さんは絶叫したという
「お願い、飲まないで、青酸カリを飲まないで、助かるから死なないで逃げて」と私は声をふり絞りました。電話口から、女性のうめき声が聞こえてきます。ドーンという大砲の音が聞こえてきました。そうしたら、電話の人が「私も行くからね」と言って「あーロスケが見えます。もうだめです。豊原さん、さようなら」そして、「苦しい」という声がしました。私は、「真岡さん,真岡さん」と必死で叫んだのですがもう声はしませんでした。「苦しい」「豊原さんさようなら」という声は、今も私の耳に残っています。
・これが、当時16歳の栗田やち子さんの証言です。言葉もありません
・慰霊碑が稚内公園に建っている
ソ連軍の真岡侵攻による無差別攻撃で殺された住人は、1000人を数えるといわれるが、これ以上はるかに多い。
留萌沖の緊急引上げ船の悲劇は、こうした背景の中で起きた。
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〇三船殉難事件の概要
8月13日、緊急疎開命令が出され、引上げ船が出る大泊港には、2万人から3万人の避難民があふれた。乗船の条件が付けられているので、幼い子ども連れの女性とお年寄のみが乗船を許される。
◇小笠原丸事件
海底ケーブル施設船1397トンが1514人の帰還者を乗せて混乱の大泊港を出港したのは8月20日の夜中11時過ぎ。翌21日午前11時頃、稚内港へ入る。
・稚内港で約半分の887人を降ろす。そこから汽車に乗り替えて道東などへ行く。それが生死を分ける
・降りた人の中に、あの横綱大鵬(納谷幸喜;当時5歳)がいた。この少年は家族と稚内で降りて助かった
・半分の663人は小樽へ向かった
・8月22日早朝5時18分、小笠原丸は留萌を過ぎて増毛の別苅沖で、ソ連潜水艦による魚雷攻撃を受け、瞬く間に撃沈する
亡くなった人640人。生存者は僅か62人。船員を除いた引上げ者で生き残ったのは僅か20人だった。まだ夜明け前の攻撃で、一気に船もろともに沈んだ。
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◇第二新興丸
海軍の特設砲艦2500トン。3600人の引揚者を乗せて大泊港を8月21日午前9時出港。当初稚内港で一部を降ろそうとしたが、混乱を避けて小樽へ向かう。
・8月22日の午前5時半頃、鬼鹿沖で轟音と共に魚雷が二番船倉に命中
およそ400人が命を奪われた。そこに海水が滝のように流れ込んだ。爆発。血の海そのもの。
・この船は海軍の特設砲艦で、小型大砲を摘んでいた。浮上し
てきた潜水艦と打ち合いになった。横倒しになりながら応戦し
たので、潜水艦は逃げた
・自力で留萌港に入った
それがなかったら何千人もの犠牲者が出たと云われる。
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◇泰東丸
留萌沖の三船事件で一番犠牲者を出したのは、泰東丸。
貨物船887トン。8月21日大泊港を出港して小樽港へ向かう。
・第二新興丸が攻撃を受けてから4時間後、潜水艦が又2隻待ち伏せていた。魚雷攻撃と艦砲射撃で激戦する
・推定で670人の犠牲者を出す。助かったのは僅か113人
子どもたちが「海ゆかば」、を歌って死んでいく姿、他人の子どもをかばって亡くなった人、本当に戦争は惨いなあと思う。
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◇三船殉難事件は、どんなものを私たちに教えてくれるのか
・本当は、北海道は米ソによる分断占領の一環だったのだ
・アメリカは強引に止めず
・シュムシュ島でも樺太でも日本兵は戦って時間稼ぎをした
それがなかったら北海道は、留萌から釧路にかけて北半分はソ連軍のものになっていた。そういう中に、我々も道民もいるのだという事です。
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〇質疑応答
Q1①アメリカがソ連に参戦を促した理由はなんだったのか
②引き上げ時に軍関係者が早く逃げるという事は可能だったのか
A:①アメリカは日本との戦争を早く終結したい。本土決戦だけは嫌だった。日本の玉砕精神が怖かった
②調査したことはないが、山田司令長官がいち早く避難したことは事実。あとで非難されるが、飛行機で引き上げたのは間違いない
Q2:樺太からの引揚者は何人ぐらいだったか。三船殉難事件以前に引き上げた人、事件後危険だからあきらめてしまったのかどうか。
A:ソ連が侵攻した8月9日から22日まで約2週間で11万人が北海道に帰っている。
内訳:真岡と敷香と大泊から8万人。2万~3万人は密航で漁船を仕立てて稚内へ向かった。併せて11万人。
・22日の三船殉難事件後は、渡航禁止令が出され、約28万人が樺太に止めおかれた
・樺太で戦った人はシベリア送りになり強制労働させられた
日本人57万人をシベリアに拉致した。多かったのは満州。
Q3:スターリン語録を読むと、留萌を取ると公言している。もしそれが実現していたら北海道が分断している。
A:ヤルタでは、ルーズベルトは健在だったが、4月に亡くなってトルーマンに代わる。ソ連は8月18日に書簡を送っているが、トルーマンは拒否した。
Q4:27万の人が戦後樺太に残った、その人たちの引上げ状況は、いつ頃どんな方法で戻ったのか。
A:帰還運動がある。帰還第1船が、昭和21年12月5日、雲仙丸が函館に来る。それから徐々に進む。
・択捉島で拉致された17歳の少女のその後を3年間調査したことがある
拉致されてサハリンで結婚。ようやく国(青森)の母親に50数年ぶりに会う。日本人妻。北朝鮮、韓国の人と結婚している人など随分いる。樺太残留日本人の会もある。
・北方4島の人は、昭和23年全員日本に移った
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 受講者のコメントを幾つか紹介します。
「最近、近現代史を全く不勉強で今日まで生活してきたことに気付き、放送大学、ユーチューブ、テレビ等で少しずつ判ろうと努力中です。本日の講座は、それらの一部であるが不勉強の部分を判りやすく聞かせて頂きました」
「三船殉難事件について詳しくは知らなかったが、今回の講義でかなり知ることができてよかった。国家間の戦争で結局は一般市民、国民が一番大きな被害を受けるのはいつの時代も同じ、戦争は絶対してはならないと思う」
「戦争が終結しているにもかかわらず、攻め込まれたり、三船が殉難したり・・・。国際法違反とも言える行為が語られずに知らない人が多いのも、政府が、相手国がソ連だと認めていないせいなのか。戦争とは一体、誰のために行われるものなのか・・・決して今後あってはならない事と強く再認識した講座でした」
「大変聞きごたえのある、胸に響く歴史の真実、戦争の悲惨さすごさをお話しいただき、忘れられようとしている今、大変貴重なことと実感しました。受講して良かった。憲法改正問題がそろそろ表面化しそうな気配、不穏な空気を感じます。悲劇をくり返さないために声を上げ続けなければならないと思います」
「戦争を知らない世代としては、悲惨な状況を体験者の手記を通してリアルな話で大変恐ろしさ考えさせられました。過去の悲惨な戦争が今の平和な時代を作っていると思いますが、犠牲の代償は大きく、二度と戦争があってはならないことを痛感しました」
「どんな戦争でも必ず犠牲者が出ます。日本は敗戦後も天皇制を残し、最近は中国や北朝鮮の軍事行動を理由に憲法を変えて再び戦争をするための準備をしています。もしまた戦争が起きれば政府は国民よりも天皇を守るかも知れません。それを防ぐには再び利用されないようにしなければならないと思います」
「新たな真実を知り勉強になりました。次回が楽しみです」




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