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主催講座6「三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇~」

第2回「三船殉難事件」

2021/12/10

 12月2日(木)主催講座6「三船殉難事件」の第2回「三船殉難事件」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、第1回と同じく、映像プロデュ―サーの中尾則幸さん。受講者は32人でした。

 中尾さんは、昭和48年「留萌沖三船殉難事件」を放送記者として取材のため、はじめて現地(小平町鬼鹿)に入ったとき驚きと憤りを感じたと云います。それは、この事件を多くの村人が目撃しているにも拘らず「沈没地点不明」と書かれていたからです。その後12年間追い続け、戦後76年経た現在も追跡調査に取り組んでおられます。この事件に関わった方々の声を集め綴った「海わたる聲」を一昨年著わしています。
 今回は、中尾さんが調査で得た、生存者の証言をもとに、三船殉難事件の真実に迫ります。以下、概要を紹介します。
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三船殉難事件とは
終戦から1週間経った、昭和20年8月22日、留萌沖で引上げ船が相次いでソ連潜水艦の攻撃を受け、2隻が撃沈、1隻が大破、推定で1,708人の引揚げ者が命を奪われた。北海道最大の犠牲者を出した事件である。
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1)小笠原丸(1,397t) 海底ケーブル布設船
8月22日 午前4時22分、増毛町別苅沖で撃沈。
死者640人、生存者62人(引揚げ者20人、乗組員42人)。
◇小笠原丸遺骨収集 増毛町村上高徳(雑貨店経営)
村上さんは、昭和26年から2年間がかりで小笠原丸の沈んだ海底50Mから314体の遺骨を引き上げた。
戦後、物のない時代に全財産をはたく。そんな村上さんの尊い行動に、売名行為だと誹謗中傷する声もあったと云う。
私が村上さんにはじめて会ったのは45年前の昭和51年の夏。
生前語った村上さんの思い 
「立派な身なりの人が遠方から線香やローソクを買いに来る。遭難した肉親の遺骨や遺品を探しに‥‥しかし、見つからない。海辺の石ころを拾って大事そうにハンカチに包んで持って帰るそうです。私は、遺骨を冷たい海から引き上げて肉親の元へ帰してあげたい一念でした。そして、もう戦争は終わったと教えてやりたいんです」
◇民間人が心を込めての慰霊
村上さんは、増毛に慰霊碑を建てた。納骨堂に納める時は、1人ひとり氏名を書いた。身元の判った遺族には遺骨を渡し、氏名不詳の遺骨は、遺族の希望で分骨して上げたそうだ。
74歳の生涯を閉じるまでそのことに専念してきた人で、頭が下がる思いである。
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2)第二新興丸(2,500t) 海軍特設砲艦
8月22日 午前5時30分頃、小平町鬼鹿沖にて大破。
自力にてようやく留萌港に避難(約3,600人乗船)。
死者約400人、生存者約3,200人。
◇中村栄子さん(当時8歳)の証言
二番船倉にいて奇跡的に助かった、中村栄子さんから、一昨年電話を戴いた。当時の惨状を語ってくれた。
「突然耳をつんざく爆音がして、爆風で投げ飛ばされた。二番船倉には多くの死体が浮いていた。みそ樽の中に子どもが浮いている。私の髪の毛は血だらけで肉の塊がついていた。海水が津波のように押し寄せ、悲鳴と助けを求める声が地獄絵のようでした。私は母の首にしがみついた。その時天井からロープのようなものが垂れ下がっているのを見つけ、母と私は必死でよじ登った。その時誰かが私の足をつかんだ。『いやだよ』と叫び振り払った。その人は血に染まった海水の中に落ちて行った。私と母は甲板の水兵に引き上げられ奇跡的に助かった。あの時の地獄のような光景は、75年経った今も瞼に焼き付いていて忘れることが出来ない。今私は83歳。戦争ってどうしてこんなにも人を苦しめるのでしょうか」と、切々と語られた。
第二新興丸は、小型の大砲と機銃を積んでいたため、浮上した潜水艦と応戦し、何とか留萌港にたどり着いた。もし、沈没していたら3,600人のうち何人助かっただろうか。
◇小平町鬼鹿(旧鬼鹿村)の海岸
事件の現場となった浜には、第二新興丸と泰東丸で犠牲になった遺体が1か月にわたって打ち上げられた。その数およそ60体。身元の判った遺体は荼毘に付され肉親に引き取られていった。20数体は無縁仏となって、いまだにそのままである。
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◇30年ぶりに姉の遺骨と対面した、菅原次男
事件から30年経た昭和50年8月、第二新興丸で亡くなった女性の身元が判った。私がたまたま見つけた、ぼろぼろの書類の中に菅原千枝子(当時19歳)の名前があった。私は探した。母親と兄弟姉妹9人で乗っていて、ただ一人助かった弟が札幌に住んでいたことが分かった。菅原次男さん当時13歳。お姉さんの遺骨と30年ぶりに対面した。
これが、全国にテレビ等で報道され、鬼鹿村の漁民や住民が動いた。俺たちはなぜ今まで何にもしなかったんだろう。それで泰東丸の沈没地点を見つけようと立ち上った。
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3)泰東丸(887t)貨物船
8月22日午前9時50分頃、小平町鬼鹿沖にて撃沈。
約780人乗船 死者約670人 生存者113人。
あの時、鬼鹿沖で何があったか。第二新興丸と同じ地点でソ連潜水艦が待ち伏せていた。犠牲者が一番多い。
◇泰東丸で奇跡的に助かった人の証言(概略)
オホーツク湧別町 村上幸次郎(当時49歳)
「私は泰東丸の甲板からソ連の兵隊が大砲の弾を詰めるのをこの目ではっきり見た。年老いた両親と妻、子ども達の家族9人で乗っていた。魚雷が船を突き抜けた時、鼓膜が破れるほどの轟音だった。マストが吹っ飛び、血だらけの足や腕や首...、地獄でした。子どもの頭に弾が当たった。『もう少しだ、我慢してくれ』船が傾き、私は妻と子ども達と海に飛び込んだ。海面に浮上したのは22歳の長女時子と1番下の千恵子だけ。時子は背中に4歳の千恵子を背負っていた。『時ちゃん、子どもを離しなさい』誰かが叫んだ。時子は首を横に振って聞き入れず、千恵子を背負ったまま波に呑まれてしまった。夕方、近くを日本の海軍船が通りかかり、私一人が助かった。家族8人全員を死なせてしまった。生きる希望も全て失った」
浦河町 川島喜恵(当時34歳)
母と子どもの家族9人で乗船。奇跡的に助かったのは、喜恵さんと次女の孝子さんだけ。母と6人の子どもを亡くした。
「船がずんずん傾いていく。私は大きなお腹をしていた。一緒に死のうと、持っていた帯で母と7人の子ども達全員を縛った。母は『万が一助かる子どもがあるかもしれない、ほどいてやってくれ』と云う。私はあわてて帯をほどいた。母は長女と長男を連れて海に飛び込んだ。私たちは、ホーキで掃かれたように全員海に落とされた。母達は渦に巻かれて見えなくなった。私は母達の名を叫び続け、もがき苦しんだ」
喜恵さんと孝子さんだけが浮かびあがって、流されてきた板切れにしがみついたそうだ。夕方、日本海軍の船に助けられた。
「私は助かったが、死のうと何回思ったか。早くみんなの所へ行かせてくださいと。でも、お腹の子どもが心配で3,4日動かなかった。お腹の中で死んでいたら私も一緒に死ななければ。そしたら、4日過ぎからピクピク動き出した。生きていたんだ。死ぬわけにはいかないと思った」
喜恵さんは2か月後無事男の子を出産した。
樺太に残ったご主人の只蔵さんは、家族が心配で樺太から漁船で逃げ帰って、浦河の妻の喜恵さんと再会する。
平成6年に会ってきた。川島喜恵さん最後の言葉。
「あの時、国の戦争政策になんで反対しなかったんだろう、自分が情けない」
川島喜恵さんの話をなぜするか
戦争を語り継がなければ又起こる。この悲劇を語り継ぐ役割が私達にはあるという事を解って欲しいから。
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⒉三船殉難事件は調査されなかったのはなぜか
私は、昭和48年にこの事件を取り上げた。泰東丸については事件後30年経っても調査されず、沈没地点さえ判らなかった。それは何故か。
・緊急引き揚げだったため、乗船名簿がなかった
当時は遺族会もなく、調査を求めても大きな声にならない。
・北方領土の返還交渉
一番大きな理由は、戦後76年経って、この事件を持ち出してソ連(現在のロシア)を刺激したくないという配慮。
ただ、今のロシアを見てどう思うか。日本は弱腰です。この事件の捜査もできない様な日本はなめられている、と私は思う。
◇泰東丸の10歳の少年と7歳の少女の話
昭和48年から12年間で、泰東丸の生存者113人のうち約40人から話を聞くことが出来た。
泰東丸生存者、新得町 林 久枝(当時13歳)
「私の母は砲弾を脇腹にうけて死んだ。私は海に投げ出され、大きな木の板に掴った。知り合いの鎌田さん家族も一緒だった。大きな波が来るたびに、小さな子どもがおぼれるように死んでいく。鎌田さんのお兄ちゃん10歳の邦敏君が『みんなで君が代を歌おう』みんなを励ますつもりだったのでしょう。何人かで歌った。そして『今度は海ゆかばを歌おう』みんなで泣きながら歌った。そして最後に、どこかの小さな子どもを抱きかかえるように死んでいった。思い出すと今でも涙が出ます」
泰東丸生存者、星 絹代(当時15歳)
家族10人で乗っていた。助かったのは、姉の誠子さんと弟の正さんの3人だけだった。
「9歳になる弟の義一は機関銃で撃たれ額に大けがをしていた。波で洗われるたびに傷口から血が噴き出す。その弟を7歳の妹キヨが支えるように抱きかかえて、樽の様なものに掴っている。私は『義一、キヨ、生きろ』と叫び続けた。そして、力尽きて二人とも海の中へ消えて行った」
この証言を聞くと、胸が詰まる思いがする。
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⒊三船殉難事件の背景 
◇このような惨いことがなぜ起こったのか
この三船殉難事件は、独裁者と言われたソ連の首相スターリンの、北海道分割占領計画が背景にあったと思う。
ターリンの命令
事件があった8月22日、ソ連太平洋艦隊の潜水艦2隻を留萌沖に展開させる。その時、こういう命令を受けたという。「日本の船は総て撃沈せよ」。3隻は次々と襲われた。
北海道分割占領計画
・ソ連の国防省戦史研究所で見つかった資料
スターリンは、翌日(23日)にも、留萌上陸作戦を進めていたことが明らかになった。
これより先の8月16日、スターリンは、アメリカのトルーマン大統領に対して「北海道の留萌と釧路を直線で結ぶ北半分をソ連の領土と認めて欲しい」と、秘密書簡を出す。
・トルーマン拒否
これに対しトルーマンは怒る。「ソ連は北海道北半分を乗っ取ろうとしている。そんな野望は断じて許すことは出来ない」と要求を突っぱねた。
◇残る疑問
①アメリカに拒否されたにもかかわらず、なぜ民間人を狙ったのか。どうして、留萌上陸作戦を撤回しなかったのか
②ソ連が3隻を襲った8月22日の午後、「日ソ停戦協定」が結ばれる。それなのに、北方領土から北千島まで攻撃し、9月3日まで続く。この疑問はいまだに判らない
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◇真相を究明しなかった日本政府
ロシアのウラジオストックにある戦史研究所の記録から、ソ連の潜水艦だと判っている。にもかかわらず日本政府は、国籍不明の潜水艦と云いつづけてきた。なぜか。
・北方領土の問題
返還交渉の妨げにしたくない。
・シベリア抑留日本人の帰還問題
シベリア抑留では56万人以上の日本人が、満州や樺太から、軍人や一般人が極寒のシベリアへ拉致された。6万~7万人が死んだといわれるが、それ以上10万とも20万とも云われている。このシベリア抑留の日本人を返して欲しい。
終戦直後ならば理解できるが、76年経た今も続いている。
私は平成6年、参議院議員時代に国会でこの問題を取り上げ、「事件の真相究明とロシアに謝罪要求」を迫った。解決には至っていない。事件の真相はうやむやなままである。
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戦後30年、地元住民が立ち上がる
国から見放された留萌沖三船殉難事件。地元の鬼鹿の人達が、昭和50年立ち上がった。泰東丸は、いまだに沈んでいる場所が判っていなかった。
◇三船遭難之碑
旧鬼鹿村の人達がお金を出し合って昭和50年に建てた。
碑文には、ソ連軍の潜水艦と記してある。地元の人たちは判っていた。
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◇泰東丸沈没地点を突きとめる
どこに沈んでいるかわからない中で、8年がかりで探す。
昭和58年、地元の人達と樺太連盟とで、海底60Mから泰東丸の遺品を見つけた。
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◇昭和59年、厚生省がようやく動く
・ダイバーを入れて遺骨を探すが何も見つからず
事件当時、夏8月だから殆ど甲板にいた。船倉にはコメやみそが積んであった。多くは甲板から海に投げ出された。
・船体の半分は泥に埋まっていた
戦後40年近くも経つと、見つかるものも見つからなくなる。
4)30年目で身元判明
昭和50年、鬼鹿の人達の調査で、苫前町力昼のお寺の過去帳に3人の名前をみつけた。3人とも泰東丸に乗っていた。
遺族が遺骨を引き取りに来た。
◇当時54歳だったお母さんの遺骨を四国に住む息子さんが、引き取りに来た
◇13歳だったお兄ちゃんの遺骨は、すぐ下の弟が引き取った。この方は増毛町に住んでいた。母と兄弟10人で泰東丸に乗り、たった1人助かった。近くにいて・・・と泣いていた
◇名古屋から74歳の老人。当時17歳の長女の遺骨を引き取った。奥さんと5人の子どもを全員亡くしていた
この遺骨収集を含めて、留萌沖三船殉難事件、いかに放置されてきたか。北海道の地元で起こった事件を、なぜもっと真相を伝える事が出来なかったのか悔しい想いである。
60年間無縁仏を供養してきた老婦人に学ぶ 
戦後76年経って、泰東丸の遺骨収集に尽くした多くの人は亡くなった。現地でも忘れられてしまった。
そうした中で60年間三船の無縁仏を供養してきた87歳の老婦人が鬼鹿住んでいる。私がおばあちゃんの存在を知ったのは、2年半前です。
この人は、福谷初子さん。初子さんが鬼鹿村豊浜に嫁いだのは事件から15年後の事。当時豊浜地区の浜に、泰東丸か第二新興丸の犠牲者6人の遺体が打ち上げられていた。
胸の名札などから3人の子どもの遺体は遺族に引き取られたが、残る3人は身元が判らず、地元の墓地の側に埋葬された。3歳から5歳程の女の子だった。
嫁ぎ先の舅から引き継ぐ形で旦那さん(3年前に他界)と60年間供養してきた。お盆や彼岸には花やお菓子、手作りの団子を供えてきた。小さな卒塔婆を立てた。
去年の9月、75年目にしてようやく町役場が遺骨を収容し、初子さんは、遺族に代わって三船殉難者の合同墓に納めた。
私も立ち会ってきた。
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◇小平町鬼鹿豊浜 福谷初子さんの証言 
「私は、先代から引き継ぎ、今は亡き夫と供養を続けてきました。75年経ってようやく役場の手で掘り起こされ、3人の遺骨は三船の合同墓に葬られます。戦争さえなければ、この子たちにもどんなにか楽しい人生が待っていたことでしょう。晴着を着る事もなく、最後まで親や兄弟たちとも会う事もできず、幼い命を奪われました。あまりにも不憫です。今日の見送りは辛くてなりません。これでお母さんにも逢えるね。ばばは寂しくなるけど、ここでお別れします。あなた達のことは、いつまでも忘れません」
この初子さんの姿を見て、心を打たれましたし、いろいろ教えられました。
私達日本人は、戦後76年、あの敗戦の廃墟から立ち上がって、懸命に働いて、物質的には豊かな国を作り上げてきた。
しかし、あの戦争で無念の死を遂げた人達を弔う心を、どこかに置いてきてしまったのではないかと思う。
三船殉難事件の犠牲者名簿
私は、2年がかりで再調査し、新たに名簿を作成した。
昭和42年に北海道庁が作っが、型通りの調査に終わっていた。過去の取材テープや取材ノート、当時の資料を突き合わせて、連絡のつく方に電話をして、いろいろ追跡調査した。そして、新たに100名以上の名前を探した。
推定犠牲者1,708名ですが、今1,596人まで判った。まだ、100数十名判らない。市役所に電話しても教えてくれない。しかもコロナです。参りました。
一昨年、留萌の合同慰霊祭に出て名簿を納めさせて戴いた。
私の仲間の協力を得てワープロで作った名簿を遺族にお送りした。受け取った人は喜んでくれる。
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その中の1人の証言を最後に聞いてください。
◇第二新興丸生存者 上砂川町 麻場静子(91歳)
「私は、第二新興丸で、母と5人の兄弟、祖父の7人を亡くした。奇跡的に助かったのは、当時16歳だった私と4歳だった妹の歌子だけです。ソ連潜水艦の攻撃を受けた時、私は妹のトイレの付き添いで甲板に出ていて九死に一生を得た。母たちは二番船倉にいたため助からなかった。
留萌港の岸壁に何百という遺体から7人の遺体を探した。1週間泣きながら探したが誰一人見つけることは出来なかった。
私達姉妹は何度死のうと思ったことか。せめて、生きていた証でもと、道庁の名簿を探したが、誰一人名前が載っていない。こんな扱いを受けたのは樺太からの引揚者だからでしょうか。今思うとやりきれない気持ちで一杯です。
今年初めて母や兄弟たち7人の名前が載った。75年ぶりにみんなと再会できたのです。私は名簿を仏壇に供え妹の歌子と2人で心から供養をした。涙が出るほどうれしいです。
私と妹は、7人の生まれ変わりだと心に云い聞かせ、歯を食いしばって生きていきます。二度とこのような悲劇をくり返すことの無いように祈っています」電話口で聞いて涙がこぼれた。
◇語り継ぐことが抑止力
もう少し早く名簿を作ればよかったと、反省もしている。
これからもいろんな形で情報を収集したら、電話を掛け、場合によってはお会いして、名前を探してあげたい。それが残された私たちの責任ではないかと思っている。
これからも若い人達に、留萌沖の悲劇を語り継いでいこうと思う。語り伝えることが戦争の抑止力になると思っている。

 最後に中尾さんは、「ここにいる皆さんが、もし機会があったら、北海道でこんなことがあったんだよと、お子さんや知り合いに伝え、広めていただけたらありがたいと思います」と、お話を終えられました。
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受講者から戴いた感想の幾つかを、要約して紹介します。
「私も昭和22年に樺太から家族7人で函館に引き揚げてきました(当時5歳)。父から、三船殉難のことは少し聞いていました。先生のお話をうかがって、詳しくわかり、戦争のむごたらしいこと、表現できないほどの気持ちになりました。もう少し早く私たちが船に乗っていたら...と思うと。いま、生き残っている家族は私一人になりました」
「中尾様の永年の努力には驚きです。貴重な事実をこの先どう生かせる状態で継続させれるか、私どもの責任であると受け止めています。右寄りの政治家が元気づいている世の中の動きに心配でなりません。誰が悪いでは前進できない、やはり気づいた者が動くことが大切なのでしょう」
「三船の真実を知ることが出来て、とても良かった。涙が出ました。ご冥福を祈ります。先生の長い間の取材にも感動しました。一人でも多くの国民に知ってもらいたいです」
「事件や殉難者の調査・究明のご苦労に敬意を表します。いまも、世界各地で紛争や戦争が起きていて、多くの一般市民が犠牲になっています。平和な世界になってほしいと思います」
「なぜこれ程の事件が広く国民に知らされないのか。国もマスコミも隠ぺいしている現実をつくづく感じました。戦争の恐ろしさ、悲惨さが身に染みます。遺骨収集された村上さんの行動。講師中尾氏のライフワークのような調査発表。その熱い思いが伝わってきました」
「三船殉難の体験者からの聞き語り、体験貴重なお話でした。三船が沈められたのはソ連がした事と明らかなのに、国家間の利害が絡むと、事件も闇に葬られるのですね。何か、空恐ろしい気がします」




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