7月9日(水)、主催講座7「太平洋戦争、日本降伏を巡る米ソの暗闘」の第1回「太平洋戦争終結の鍵を握ったソ連の参戦」を石狩市花川北コミュニティセンタ―で開催しました。講師は、北海道史研究家でノンフィクション作家の森山 祐吾さん、受講者は50名でした。藤女子大学の学生さん4人が聴講に来てくれました。

本日のお話の内容(要約)
1.太平洋戦争終結の鍵を握ったソ連参戦
◇はじめに
・太平洋戦争での日本の降伏から80年が経過した。しかしそれがどのように終結したのかの明確な史実が一般的に共有されていないようだ。終結時に主要な役割を果たした米国・日本・ソ連は、いずれも自国に関心のある史実のみに焦点を当てることが多く、太平洋戦争終結の全体像がよく見えない。研究書のほとんどが「米国は原爆の投下、日本は天皇を巡る政治と指導者の役割、ソ連は極東における軍部の役割」にそれぞれ重きを置いて、これらを包括した研究書は少ないようだ。ほとんどの研究が日米関係に偏重し、ソ連がどのような役割を果たしたかは二義的扱いされているが、終結の大きな鍵を握っていたのはむしろソ連の参戦で、それが原爆投下と密接に関連していた。
・太平洋戦争における米ソは、同盟国でありながら不信感が強く、お互いに相手がヤルタ会談の密約を破るのではないか、という疑心暗鬼に捉われていた。その不信感がポツダム会談以降、戦後処理の利権をめぐる熾烈な攻防に変わり覇権争いまでに発展した。この時から東西冷戦がはじまったのである。
◇激しい攻防に至ったその原点と経緯を次の3点から検証する。
①ソ連が参戦を決めることになったヤルタ会談とその密約協定はどのようなものであったか。
②スターリンは、日ソ中立条約を破棄してまで対日参戦し、なぜ北海道と千島列島の占領にこだわったのか。これにトルーマンはどのように対応したのか。
③日本のポツダム宣言拒否の後、太平洋戦争は一般的に2回の原爆投下で終結したと考えられているが、8月15日の終戦以降もソ連軍の違法侵攻は北方領土各島で続いた。
2.日ソ中立条約調印とスターリンの腹の中
始めに太平洋戦争勃発の誘因となった満州事変のお話から始めます。
・1914(大正3)年7月に第1次世界大戦が勃発。日本は欧州交戦国への輸出増進で好景気に沸いた。しかし、1918(大正7)年11月の大戦終結で不景気に見舞われ、米騒動や関東大震災(大正12年)の影響もあって、経済は一気に冷え込んだ。さらに1929(昭和4)年の世界経済恐慌で打撃を受け、物価や株価は下落して失業者が溢れた。
・国民の不安が募る中、軍部が台頭した。中国関東州と南満州鉄道(満鉄)の警備のため駐留していた日本陸軍部隊の関東軍が、1931(昭和6)年9月、中国東北地方の満州に奇襲をかけ占領(満州事変)。翌年には清朝最後の皇帝溥儀を皇帝に据えて傀儡国家・満州国を建設した。
国際連盟はそれを認めず、関東軍の満州撤退を勧告。日本は、これに従わず国際連盟を脱退した。このため日本は国際社会から孤立し、陸軍の暴走のもと、軍国主義への道を突き進んでいった。
・こうした日本の満州への侵略と併合は、隣国ソ連に大きな脅威を与えた。以来、日ソ両国はソ連国境において相対峙し、膠着状態が続いた。その後1938(昭和13)年のソ連国境近くの張鼓峰(ハサン湖)で軍事衝突が起き、さらに翌5月に外蒙古と満州国の国境沿いで起きたノモンハン事件など、日ソ両国は機械化軍団を繰り出して衝突し、あわや全面戦争という危機的状況が出現していた。
・1939(昭和14)年9月1日、ナチス・ドイツ軍がポーランドに進攻して第2次世界大戦が勃発すると、日ソ両国は国際情勢への対応のため、自己の戦略的利益確保のための国境紛争にばかり注力していられなくなった。ソ連はこの年8月に締結した独ソ不可侵条約を盾にして、東欧、バルト海にまで領土獲得に狂奔した。
・一方ソ連の対日展望は、「ソ連最大の目標は、太平洋への出口確保のため満州、朝鮮、南樺太、クリール(千島)諸島を支配下に置くこと。これらの戦略的要地から他国(日本)を排除することが不可欠の条件である」(1941年、ロゾフスキー報告)というものであった。スターリンもこれらの領土の獲得は武力による占拠が唯一の手段だと確信していたが、対日参戦の機が熟すまで腹の内を明かさないことに決めていた。
・東南アジア方面への南進政策を進めるため北方からの脅威をなくしたい日本と不可侵条約を結んでもなおナチスの圧力を感じていたソ連との思惑が一致し、1941(昭和16)年4月13日、モスクワで日ソ中立条約が調印され、同時に満州国と外蒙古の領土保全並びに不可侵を尊重する両政府の声明が発表された。
◇日ソ中立条約(第4条省略)
①両締約国は、両国間に平和及び友好の関係を維持し、且つ相互に他方締約国の領土の保全及び不可侵を尊重すべきことを約す。
②締約国の一方が、1または2以上の第3国より軍事的行動の対象となる場合には、他方締約国は該紛争の全期間中、中立を守ること。
③本契約は、両締約国においてその批准を了した日より実施し、且つ5年間効力を有する。但し、両締約国のいずれの一方も右期間満了の1年前に本契約の廃棄を通告しないときは、本契約は次の5年間を自動的に延長することを認める。
・しかし条約締約後も、日ソ相互の信頼性は盤石ではなかった。
ソ連は、米国の対ソ援助物資が増加しつつあり、ソ連軍の極東配備が目立ち始めるなど、日本は無関心ではいられず、日米開戦前後でもたびたび中立条約の義務を確認し合い、特にソ連がソ連領域内で米国への基地貸与をしないよう話し合うなど、相互不信と警戒心を抱えていた。
・半面この中立条約により、日本の東南アジア南進政策にとって北の脅威が和らぎ、ソ連にとっても日本からの圧力が減少して極東兵力を西側に移して独ソ戦に投入し、同年6月のナチス侵攻によるモスクワ危機を救うことが出来た。
◇ABCD同盟(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)
日本のアジア侵略を阻み中国の日本への抵抗を支持して、4か国の同盟が形成された。
◇太平洋戦争
・南方からの日本の即時撤退を要求する米国とそれを拒否する日本の交渉が決裂、1941(昭和16)年12月8日、日本の真珠湾攻撃をもって太平洋戦争が勃発、日本と連合国(参加16か国)との4年におよぶ戦争が開始された。この時日本は、対独戦用に計画された原爆開発が日本に向けられることになることは知るよしもなかった。
・開戦の日、米国国務長官ハルは、駐米ソ連大使リトビノフに対日戦への協力を要請したが、同大使は「ソ連はドイツと交戦中であり背後から日本の攻撃を受けるような危険は冒せない」と一端は断った。
しかし、スターリンは、同12月12日の中華民国総統蒋介石の対日共同戦線樹立要請に対して「日本は必ず無条件に中立条約を破るだろうから、ソビエトは日本と戦わなければならない。我々は準備をしているが、準備には時間が必要だ」と述べている。
さらにスターリンは、翌1942年8月、米国ハリマン特使に対して「日本はロシアの歴史的敵国であり、その究極的撃破がソ連の国益にとって重要である。今は対ドイツ情勢から対日参戦はできないがいずれ参戦するであろう」と伝えている。
・このことは、中立条約順守は当面の方便であって情勢によって対日戦に参加することは、最初からスターリンの腹にあったことを意味している。
◇転換点
・翌1943(昭和18)年7月、ソ連はクルスクにおいてドイツとの史上最大規模の戦車戦に勝利、このときからドイツを追撃することになった。一方、日本軍は前年のミッドウエイ海戦の大敗やガナルカナル島の玉砕(8月)などが相次ぎ、次第に敗北の坂を転がり始めた。
・一方米国はこの頃、前年に原爆開発の研究が始動したばかりで、原爆が新兵器となるかどうかは未知数だった。大統領ルーズベルトは、もし実験が成功しても実際には投下せずあくまで威力を示す「外交武器」と位置付けていた。こうした事情で、日本本土決戦となれば米兵力の甚大な死傷が予想され、ソ連の北方からの支援は決定的に重要であった。
◇カサブランカ会談(米英首脳)
米国ルーズベルトは、ソ連がドイツに勝利した後対日戦に加わる密約を得ることが望ましいとした。これに対してスターリンは、翌2月モスクワを訪問した米国ハル特使に、ドイツを撃破したら対日に加わり米国を援助するつもり、と伝えた。
◇モスクワ会談(米英ソ外相)
会談に先立ち、ルーズベルトは国務省スタッフに「千島列島はソ連に引き渡されるべき」との見解を示した。さらにスターリンが千島列島領有を希望していることを掴んでいた。
会談で、米国ハルはソ連外相モロトフに、南樺太と千島列島をソ連領とする見返りに対日参戦を求めた。会談最終日にスターリンは「連合国がドイツを打ち負かしたらソ連は日本との戦争に参加する」と極秘にハルに伝えた。この時スターリンは、すでに対日参戦の腹を決めワシレフスキー元帥を極東戦線の総司令官に任命して、密かに内命を伝えていた。
3.カイロ会談(米英中首脳)―対日戦後処理について
ソ連の参戦意思を知った米国は、対日共同作戦計画の策定を急ぐとともに、共同戦線の拡大を中国の国民政府軍にも求め、その参戦条件として日本敗北後の中国の取得分を明確にしておく必要があった。
同1943年11月22日、ルーズベルトの主催でカイロ会談が開催された。この会合にスターリンを招いていないのは、中ソの関係がかなり冷却していたためである。国民党政府の蒋介石は、中国共産党主義者の背後のソ連を背徳者と考えていた。
ルーズベルト、英国首相チャーチル、中国総統蒋介石の三首脳は、対日戦の軍事面での協力と終戦後の領土処理問題について話し合い、27日、カイロ宣言を発表した。
〈要約、一部抜粋〉
三大同盟国は、日本国の侵略を阻止し、且つこれを罰するため、今次の戦争を行っている。同盟国は、自国のために何らの利益を欲求するものではなく、また領土拡張の何らの念をも有するものではない。
同盟国の目的は
第1項 米英中の三国は、最後まで対日戦争を継続する。
第2項 日本の降伏は、無条件降伏とする。
第3項 1914年、第一次世界大戦の開始以降において、日本国が奪取し、また占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪する。
第4項 満州、台湾及び澎湖島のように、日本国が清国人より盗取した一切の地域を、中華民国に返還する。
第5項 朝鮮国の人々は奴隷状態に置かれているので、朝鮮国に自由と独立をもたらす。
第6項 日本国が、武力及び貪欲をもって略取した他の一切の地域より日本を駆逐する。
◇宣言の留意点
・この宣言では日本とソ連との間の領土問題については、何ら言及していない。ここで注目されるのは第3項の「1914年、第一次世界大戦の開始以降において・・」である。この条項を解釈すると、1914年以前においては、1875(明治8)年の樺太・千島交換条約で千島列島が、また1904(明治37)年の日露戦争では南樺太が、それぞれ日本の領土であることを認めていて、もし日本が敗戦しても剥奪されることはないことになる。
・そもそもカイロ宣言は文字通り宣言であって、それ自体が国際法上、効力を有しているものではない。「自国のために何らの利益も欲求せず、領土拡張の何らの念を有せず」としながら、日本の領土処理を掲げるというまったく矛盾したもので、いかようにも解釈される極めて曖昧な表現を含んでいた。そのため、日本が敗戦した場合、その解釈は戦勝国が思うように拡大し得るものであった。
・この宣言の取りまとめの中心的役割をしたルーズベルトは、南樺太と千島列島をソ連領とする見返りに、日ソ中立条約を無視してソ連に対日参戦を求めたことから、南樺太・千島列島の帰属を表面に明示せず、曖昧な表現にしておくことが必要だった。
・この曖昧な宣言は、ソ連に南樺太はもちろん、千島列島をも手にする根拠を与え、将来の対日戦に向かって、スターリンを喜ばすことにつながった。しかも領土に関する取り決めは、1945(昭和20)年8月のポツダム宣言に受け継がれたのである。
・カイロ宣言の内容は、5日後に日本の新聞でも一面トップで「カイロ会談・敵傲慢の決議 戦局破綻を糊塗 蒋を躍らせ躍起の謀略」(朝日新聞1943年12月2日夕刊)と取り上げられた。
4.テヘラン会談(米英ソ首脳)と参戦表明
・1943年11月28日から12月1日まで、イランのテヘランで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三国首脳会談が行われた。会談の主な議題は、連合軍の戦争遂行決意表明、ドイツ降伏後の処理、フランス上陸作戦、ソ連の対日参戦、戦後の世界平和維持機構の枠組み(後の国際連合)などについての構想が詰められた。
・会談の最大の成果は、ノルマンディー上陸作戦を翌年5月に決行することが了解されたことである。
・この会談の中で、スターリンは、ソ連がドイツ降伏後、対日共同戦線に加わることを正式に表明し、その後の会議において対日参戦の代償を要求した。スターリンは、米英とともに軍事共同作戦を担い、ソ連自身が軍事占領を行った国を戦勝国の分け前として獲得し、戦後は、その占領国に対する実権を排他的に掌握しようとした。
・しかしこれらの重要な会談内容の公式記録や報告のようなものは残されていない。
・ルーズベルトが帰国後に報告したスターリンの代償要求は「極東に不凍港を望み、大連の自由港化に好意を寄せ、満州諸鉄道を中国の所有にすることに賛成し、南樺太と千島列島全部をほしがっている」というものであった。ソ連にととって、満州の諸権利とともに南樺太と千島列島の獲得は、太平洋の出入り口と安全保障上の足がかりを確保しようとするもので、スターリンの悲願であった。
・テヘラン会談でのスターリンの対日参戦表明については、日ソ中立条約の手前、厳重に秘密とするため、一切ソ連の名は出されなかった。日本はそれを知らず、ソ連を米英から引き離し日独側に引き入れようとするはかない工作を続けた。
・翌1944(昭和19)年夏、ソ連は対日参戦準備に着手、極東ソ連軍を防勢から攻撃準備に切り替え、スターリンは「条件が整えばドイツ敗北後3か月で対日参戦する」と初めて正式に米英に参戦時期を明らかにした。
・12月14日、スターリンはハリマン米国大使に対日参戦の代償要求を明確に伝えた。「極東におけるソ連の地位は、1905(明治38)年の日露戦争以前にあったように確立されるべきである。南樺太やソ連の太平洋への出口を防護する千島列島は返還されるべきである。大連及び旅順を租借し旧東清(北満)鉄道及び南満州鉄道の租借権も望む。中国の満州に対する主権は妨げないが、外蒙古の現状承認を求める」
・この時日本が、ソ連の翻意を知っていたなら、その後の対米英工作や対ソ戦略も違っていたと思われる。
5.ヤルタ会談(米英ソ首脳)と秘密協定
・1944年6月6日の米英軍のノルマンディー上陸作戦と同23日のソ連軍ドイツ総攻撃開始により、ドイツは一挙に劣勢に追い込まれた。翌年の年が明けると同時にソ連軍は厳寒の中東ヨーロッパに一斉に攻撃をかけた。ポーランドでは1月17日にワルシャワを占領、チェコスロバキア、ハンガリーをも占拠するなど破竹の勢いだった。米英仏軍もパリを開放。初戦に優勢を誇ったドイツは東西から挟み撃ちにあい風前の灯となっていた。
・一方、太平洋では、3月に硫黄島の玉砕が迫り、日本本土では米軍機による空襲が本格化し、次第に敗戦の色を濃くしつつあった。
・このような状況下、ルーズベルトの再三の提唱で、1945年2月4日から11日まで、ソ連領クリミア半島のヤルタで、米英ソの三首脳会談が開催された。この会議で主導権をにぎっていたのは、スターリンだった。米英は、一方でソ連の戦力を必要としつつ、他方では欧州諸国をソ連の支配から守ろうとする二律背反のために、主要な議題に対するソ連の主張に少なからぬ妥協を強いられることになった。
・ここで注目すべきは、会談前、アメリカ国務省では「知日派」の学者を交えた研究会で、千島列島の北はソ連、南の北方四島は日本に帰属させることが提案されていた。千島列島は、日露戦争の30年も前の1875(明治8)年に結ばれた樺太千島交換条約で正式に日本領土になったもので、日露戦争とは無関係だったからである。そして、千島列島が日本の領土になった歴史的経緯を記した資料を用意していた。
・会談が始まり、米英仏ソ四国によるドイツの占領管理、戦争犯罪人の処罰、非武装化を中心に、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議の招集などが話し合われた。領土問題は唯一極東に関してだけだった。2月8日の極東の領土問題は、チャーチルは出席せず、米ソ首脳だけの会談で行われた。
・スターリンはルーズベルトに対して「ハリマン大使に示した対日参戦の代償要求が認められない場合、対日参戦を国民に説明するのが困難で、対日参戦に踏み込めない。私は日本が我が国から奪った物を返してもらう事だけを願っている。千島列島は日本が我が国から奪った領土であるからだ」と千島列島が平和裏に日本領になった歴史を無視して嘘をついた。
ルーズベルトは「同盟国ソ連の要求はもっともだと思える。ソ連は自分たちが奪われた物を取り返したいだけだ」と同調し、スターリンは「私は日本から何の賠償も欲しくない」とまで語った。
・この会談の結果、ルーズベルトは、南樺太と千島列島をソ連に返還することは問題なしと返答した。中国については、極東における不凍港旅順を守る海軍基地の全面管理及びソ連と大連を結ぶ満州諸鉄道の租借権を確保することにも同意を示した。この時、ルーズベルトはソ連の参戦なしで米軍が単独で日本本土を上陸攻撃(九州、関東2段階作戦)すれば、対日戦争は1947年まで続き、米軍部隊の被害は100万人に達するのは避けられない、という報告が重くのしかかっていた。また、対日戦争計画の他に、欧州の戦後処理問題や、国際連合の設立準備などの懸案事項を抱えていた。
・ルーズベルトは、国内世論の長引く戦争へのいらだちや自身の死期(慢性高血圧と心不全)が近づいている中で、戦争の早期終結のために、ソ連をいかにして早く参戦させるか、その案を練るのに精いっぱいだった。このため国務省作成の文書によく目を通さずに独断で、スターリンの根拠なき主張ばかりでなく要求までも無批判に受け入れてしまった。千島列島に固有の領土が含まれていることなどは眼中になかった。
・さらに、カイロ会談で蒋介石に対して満州を完全に変換すると約束しておきながら、蒋介石に何の相談もなくスターリンの要求を受け入れたが、これは中国の主権を侵すものである。ルーズベルトは、「彼らに話すとすぐに世界中に知れ渡る」と言い、スターリンは「まだ中国に話す必要はない」と言って、大国のおごりと人種偏見を含む権力外交の立場からこのような措置がとられたものである。
・ヤルタの密約は米ソ両首脳だけのもので、中国の主権や日本の領土である樺太南部と千島列島を犠牲にしたものである。ましてソ連の参戦が日ソ中立条約に違反することになることは、意に介さなかった。ルーズベルトの対ソ外交は、両国間の緊張緩和を図りながらスターリンと緊密な連帯意識を持ち、ソ連を最大のパートナーとして共同路線を作り、戦争終結を目指すものであった。
・米英のソ連へのこの譲歩こそ、後に東欧全体をソ連の影響下に置いただけでなく、極東においても支配の手を伸ばさせる機会を与え、後の冷戦構造の根源となったのである。敵国とはいえ、その領土を同盟国間で勝手に「山分け」することは国際法違反であり、その中心人物はルーズベルトとスターリンだと言わざるを得ない。
・1945(昭和20)年2月11日、ソ連の参戦条件と交換で、南樺太、千島列島と満州を犠牲にして作られたヤルタ協定は、現に戦っている同盟国中国の主権を侵し、有効期限のある日ソ中立条約を破る理不尽さをもっていた。それどころか、この秘密協定こそが、その後の原爆投下と終戦後のソ連侵攻を許し、悲劇を積み重ねることに連なる元凶となった。
・ルーズベルトは、ヤルタ会談から2か月後の4月12日に急死するが、この秘密協定の文書は、ホワイトハウス地下の大統領私用金庫に秘蔵されたまま、3か月眠り続けた。この最高機密が米ソ両国から公式に発表されたのは、戦争終了後の1946(昭和21)年2月11日のことで、ソ連が北方領土問題に絡む千島列島の領有をめぐり、ヤルタでの秘密協定に言及したのがきっかけとなった。
・英国チャーチルは、直接利害関係を持つ米国の立場を尊重して領土問題の密議には意識的に加わらず、米ソ間で合意した後に異議なく署名、米英ソ三国の協定となった。
◇ヤルタ協定・密約の全文
三大国即ちソビィエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し、且つヨーロッパにおける戦争が終結した後、ソビィエト連邦が2か月または3か月を経て、次の条件によって連合国に対し、日本に対する戦争に参加することについて協定した。
①外蒙古(蒙古人民共和国)は自治共和国として中国の版図外とする。
②1904年の日本の背信的攻撃(*日露戦争)により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復する。
・樺太の南部及びこれに隣接する一切の島嶼は、ソビエト連邦に返還する。
・大連商港におけるソビエト連邦の優先的利益はこれを擁護し、同港を国際化する。またソビエト連邦の海軍基地としての旅順港の租借権は回復する。
・東清鉄道及び大連に出口を供与する南満州鉄道は、中ソ合弁会社の設立により共同に運営される。ただし、ソビエト連邦の優先的利益は保証され、また中華民国は満州における完全な主権を保有する。
③千島列島はソビエト連邦に引き渡しする。外蒙古並びに前記の港湾及び鉄道に関する協定は、蒋介石総統の同意を必要とする。大統領はスターリン元帥からの通知により、この同意を得るための措置をとる。
三大国首脳は、ソビエト連邦の上記の要求は、日本国の敗北した後に確実に実行されることに合意した。
ソビエト連邦側は、中華民国を日本国のくびきより開放するために、自己の軍隊によって支援すべく、ソビエト社会主義共和国連邦と中華民国間の友好同盟条約を、中華民国と締結する用意があることを表明する。
1945年2月11日
ヨシフ・V・スターリン
フランクリン・D・ルーズベルト
ウインストン・S・チャーチル
・ここで注目すべきことは、樺太南部は返還、千島列島は引き渡しと明確に区別されており、両地域の領土権の性質の相違についての認識があったことを示していること。米英は、日清、日露戦争を日本の正当な行為とし、その両講和条約で獲得した両地域の領土を日本のものと認めていた。しかし、米英はカイロ宣言では、ロシアの対日参戦を促すため、両地域の帰属を意識的に曖昧にした。
・さらにヤルタ協定における南樺太については「日本の背信的攻撃(日露戦争)により侵害せられたるロシア国の旧権利である」から返還すべしとし、また千島列島は1875年の樺太・千島交換条約で日本の領土となっているが、日本が敗戦した場合、ロシアの戦利品として引き渡すべしとして、米英は掌を返したようにロシアの意向に合わせて認識を大きく変えている。これは日本の正当な権利を剥奪することで、論理的に正当とは言い得ないものである。
・ソ連は、ヤルタ協定によって、将来の領土としての権益獲得については米英の同意を得たが、軍事占領すべき地域が明確に確定したわけではなかった。そこでソ連は、将来の排他的実行支配権を米英に保障させるためには、あくまで軍事占領しかないと考え、占領遂行のための作戦構想に着手した。
・条約締結の翌12日、佐藤尚武駐ソ大使がヤルタ会談を終えて帰国したモロトフ外相と会見し、会談の中で極東の問題が討議されたかを尋ねると、モロトフは「日ソ関係は、日本と米英との関係とは根本的に異なる性格のものである。米英は日本と戦争状態にあるが、ソ連は日本と中立条約を結んでおり、日ソの関係は日ソ2国間の問題である。これまでもそうであったし、これからもそうであろう」と述べ、佐藤大使を信じ込ませた。また佐藤がモロトフに「日本政府は中立条約をさらに5年間延長する方針であるが、ソ連はどう対応しようと考えているのか」と質問すると、モロトフは日本政府の方針を聞いて大いに満足の体で、これをソ連政府に伝えることを約束すると述べただけでお茶を濁した。
・スターリンがヤルタ会談で対日参戦の条件として米英から領土の分け前の約束をとりつけていたことを極秘にし、ソ連の参戦準備の時間稼ぎのため、条約は満期になるまで有効であると日本に信じ込ませたモロトフは完璧な外交官であった。
・ソ連の意向について佐藤から報告を受けた日本政府の判断は「ソ連はいずれ中立条約を破棄すると思われるが、当面対日中立関係を維持するであろう」というものであった。さらに3月の時点では「ソ連は極力戦争を長期化させて米英の戦力を消耗させ、最後に自己の発言によって終戦に導入しようとする公算が大であり、その場合、戦後の主導権をめぐって米英ソの競争激化が確実で、日本は対ソ交渉に一脈の光明を見だし得る」と未だ楽観的な判断をしていた。
・その頃スターリンは、中立条約をいかにうまく破り、いつの時点で参戦すればよいか、タイミングを練っている最中であった。
・日本政府は、ソ連のそのような意思を知らずに、希望的観測に基づく思考で最後までソ連に対して期待をつなぐことになった。

以上が本日の講座内容ですが、英米ソのしたたかさが良くわかるお話でした。また、ソ連が一方的に北方領土に侵攻した裏には、米英の暗黙の承認があったこともよくわかりました。
最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「中学生ぶりに聞くような単語が多く出てきました。学校の授業だけでは知ることができなかったお話を学ぶことができて、とても貴重な時間になったと感じています。また、歴史を学び直してみたいと思うきっかけになりました。ありがとうございました」
「参加している年齢層の人は、戦時中の時は幼少時代または両親が伝承しなければ知らないと考える。思い出し教育であり、現代教育に合わせた講義だと思う。戦後80年の日本ではあるが、世界各国では未だに緊張はある。これが緩和されていく国際社会になることを願いたい。主な資料と副資料の解説があり関連性を結びつけて学習できた。
Q.戦争で北海道に被った影響はどのくらいありましたか?『農業被害、観光地や流通など』」
「判りやすい『関係資料』を添付しての解説は、多少ともバラバラの頭の中のものが、よく整理できるものとなる気がします。改めて配布の『解説書』を熟読し、少しでも理解を深める機会にしていきたい、と思っている。ありがとうございました」
「太平洋戦争の連合国のカラクリがよくわかりました。今回の資料を大切に読み直したいと思います」
「わかりやすい資料、聞き易い一連の戦争、事変、世界の動きがコンパクトにお話しされて理解が深まりました。戦争をしたがる人間、罪悪は今に続いているとつくづく感じます。いずれにしても苦しむのは、すべての国の弱い国民であると胸が痛みます」
「戦後80年を機会にこのような講座を企画・実施された市民カレッジに敬意を表したいと思います。ソ連に焦点を当てた森山先生の今回のお話は大変興味深かった。スターリンが昭和17年の時点で対日参戦を考えていたことなど、改めて認識することができました」
「熱中した講義に、すっかり呑み込まれてしまいました。資料にある写真の話もぜひ聞きたいので触れてほしいと思います」
「太平洋戦争の時代背景を含め初歩から分かりやすく解説していただき、よく理解できました」
「父は昭和15年に召集されシベリアに抑留。終戦後、数年経った最終帰還船で日本に戻ってきました。故郷を離れ10年の歳月を経た体験を家族にも一切語らぬまま、70年の生涯を閉じた父でした。その苦悩を、計り知れない背景の中に探し求められたらとの拙い願いで受講致しております」