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主催講座7「太平洋戦争、日本降伏を巡る米ソの暗闘」第2回「原爆実験成功とポツダム宣言」

2025/07/19

 7月16日(水)、主催講座7「太平洋戦争、日本降伏を巡る米ソの暗闘」の第2回「原爆実験成功とポツダム宣言」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、北海道史研究家でノンフィクション作家の森山 祐吾さん、受講者は41名でした。
 講師は、最初にアンケートで寄せられた質問に答えられてから、前回の「5.ヤルタ会談と秘密協定」に続く「6.握りつぶされた最大級の秘密情報」から話し始められました。
以下はそのお話の要約です。
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6.握りつぶされた最大級の秘密情報
ヤルタ会談での秘密協定の情報を密かに入手し、機密電報で日本の参謀本部へ打電した人物が二人いたことは、ほとんど知られていない。
・一人は、帝国陸軍のブルガリア駐在武官秘書として主にソ連関係の情報収集を行っていた吉川光(あきら)。吉川は、46年後の1991(平成3)年の手記で、「ソ連ハドイツ降伏後、3ヵ月以内ニ対日参戦スル」と大本営に打電したが、何ら返電はなかったことを明らかにした。
・もう一人は、帝国陸軍ストックホルム駐在武官小野寺信(まこと)少将。小野寺は、欧州における情報収集の責任者で、スエーデン駐在武官のポーランド人ブルジェスクウィンスキーから、英国のポーランド亡命政府の情報として、「ソ連ハドイツノ降伏後三ヵ月ヲ準備期間トシテ対日参戦スルトイウ密約ガデキタ」という情報を手にした。すぐに大本営参謀本部次長秦彦三郎中将あてに暗号電報を打ったが返電はなく、政策決定者である参謀総長や首相らの上層部へは報告されず、国策にも生かされた形跡はない。
・しかし、二人の情報通りに、ドイツが全面降伏した1945(昭和20)年5月8日から3ヵ月後の8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、翌9日未明、満州の国境を越えて進攻した。
・この国運を決する最大級の秘密電報は、大本営に届いていたのかどうか?
届いていたならなぜ無回答だったのか?この謎解きに挑戦した阿部伸(のぼる)の優れた著書「消えたヤルタ密約緊急電」から引用する。
 小野寺の電報を確実に目にする立場にあったのが、参謀本部第二部ロシア課長林三郎で、彼は戦後、陸軍出身の経済人で構成する経済懇話会で講演し、「私は確かに参謀本部で見た。見たがその頃の陸軍中央部では、このソ連の密約説を半信半疑に受け取っていた。今でこそ真実と言えるが、当時はあまり信用していなかった」と語った。
・また、大本営の情報参謀だった堀栄三は、1989(平成元)年に上梓した「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」の中で、「小野寺駐在武官の情報は、どうも大本営作戦課で握りつぶされていたようだ」と述べているように、小野寺の最高機密電報は間違いなく軍中枢部に届いていた。だが、電報の内容があまりにも衝撃過ぎるということで、国家の命運がかかっているその時に、上層部に伝達されずに途中で誰かが握りつぶしたことになる。

◇当時の参謀本部作戦室作戦課(担当参謀・瀬島龍三)は、陸軍大学校出身の秀才参謀20数人で構成されていた。しかし実戦経験のない彼らは、徹底した秘密主義をとったことから「奥の院」と呼ばれていた。その彼らが国防方針に基づき作戦計画を立案し、大戦中4百万の軍隊を動かしていた。「奥の院」の誰もが、小野寺らの情報を知っていた。しかし彼らは都合のいい情報しか採用しない。机上で立てた作戦(主観的願望)に沿った情報しか集めず、戦争の趨勢や軍の士気に重大な影響を与えるものは、情報部にも見せず、彼らだけで握りつぶしていた。
・小野寺らのソ連対日参戦情報は、権力の中枢で立案した一大プロジェクト=まったく勝算のない無意味な終戦工作「日ソ中立条約」を崩壊させてしまう恐れがあり、本土決戦を控えた兵士の士気に大きく影響する軍事秘密と断定し、この情報を生かすことなく抹殺したのであろう。まさに信じられない背信行為と言わざるを得ない。
・ソ連が間もなく中立条約を破って参戦してくるという情報を、上層部が正当に受け取り、やがて砲火を交えることが分かれば、その相手のソ連に和平の仲介工作を依頼し続けることなどあっただろうか。中立のソ連が敵となるなら、米英に直接和平を申し入れ、終戦を早める可能性の方が大きかったはずである。
・小野寺らの情報価値の重要性を生かさず、ソ連参戦の意思を政府首脳が見抜けなかったために、終戦の時期が遅れ、結果的にアメリカによって広島、長崎に原爆が投下された。そして、ソ連の参戦で、シベリア抑留問題や中国残留日本人孤児の悲劇、北方領土問題を招いてしまったのである。
・大本営は、敗戦時に証拠隠滅のため、戦争研究の上で極めて貴重な小野寺らの資料など、あらゆる資料を焼却処分にした。

7.ソ連の本格的参戦準備と日本の対応
・1945(昭和20)年4月5日、モロトフは佐藤を招き、翌年4月25日に期限満了となる中立条約を延長しない、と通告した。佐藤はあれだけ条約の延長を期待させていたモロトフのやり方に唖然としたが、通告の陰に対日参戦の意思を感じ取り、すぐに東京へ報告した。
・この報告を受け、最高戦争指導会議が開かれた。席上、ソ連に対してなお条約継続を求めるため、次のような大胆な代償が提案された。
①対ソ交渉に関して、対日参戦の防止、好意的中立の獲得、戦争終結に関して日本に有利な仲介をさせること。
②そのためのソ連に与える代償は、南樺太の返還、ソ連沿岸の漁業権の解消、津軽海峡の解放、北満鉄道の譲渡、内蒙におけるソ連の勢力範囲、旅順・大連の租借、場合によっては千島北半を譲渡。
しかし、当面の対ソ交渉では、参戦防止と好意的中立獲得に目標を限定した。
・一方、独ソ戦で勝利し、ルーズベルトからヤルタ条約を遵守する約束を取り付けて勢いに乗るスターリンは、5月下旬に訪ソした米国特使ホプキンスに「ソ連陸軍は満州の作戦開始地域に展開する。また、日本を占領する作戦への参加に期待し、占領地域について米英と合意したい」と述べた。スターリンの欲望はヤルタ協定時よりさらに踏み込んだものだった。
・スターリンは、参戦表明と同時に、戦争準備を急いだ。当初日本本土への直接進攻を検討したが、それは連合軍に委ね、ソ連は満州の関東軍を撃滅する作戦に変更した。
・極東ソ連軍が満州方面への兵力・資材輸送を本格的に開始したのは、ドイツ降伏後の同年5月から。150万人を超える兵員など戦力をおよそ9千㎞離れた所から4ヵ月で満州に送り込んだ。80個師団(1個師団はおよそ2万人)を準備したソ連に対して関東軍は、16師団を日本本土へ移したため、残ったのは満州の71万3千人と朝鮮、樺太、千島に配置された28万人だけであった。
・ソ連軍は6月27日には、満州に進攻して関東軍を撃滅する対日基本構想が出来上がり、攻撃開始は8月20~27日と予定していた。北海道上陸作戦も提案されたが、一部の賛成者があったものの多くは反対したため、スターリンは結論を出さなかった。

8.原爆実験成功とポツダム宣言
・4月に入ると、列強の首脳が一気に激変した。22日にルーズベルトが死去してハリー・S・トルーマンが大統領に就任。28日、ムッソリーニ銃殺、30日ヒットラー自殺。5月7日、ベルリンが陥落してドイツが無条件降伏。7月には、チャーチルが選挙で敗退、アトリーに代わった。
・一方、日本の戦況は、米軍のサイパン、テニアン、グアム基地から発進したB29爆撃機による3月10日と5月25日の東京大空襲以降、無差別空襲が繰り返されて焦土と化し、沖縄は6月23日に陥落。日本軍は、最後の本土決戦を想定して、九州の海岸線を中心に防備を固める程度で、敗戦が目前に迫っていた。
・この頃、日本の内部では終戦工作の議論が始まっていた。
和平派の東郷茂徳外相は、ソ連は仲介に動く可能性はなく、天皇制を維持するためには、直接米国と和平交渉を行うべきと主張。
対して、継戦派の阿南陸相は、米国との直接交渉は敵に腹を見せるものだとし、国体を維持するために、本土決戦を遂行すべきと主張。
結局、ソ連に終戦の仲介を求めることになったが、6月3日のマリク駐日ソ連大使との交渉も、7月13日のモスクワにおける仲介要請も不調に終わった。
・ソ連側は、初めから講和仲介の意思はまったくなかった。終戦後の領土拡大のために対日参戦のチャンスを狙い、わざと回答を遅らせて日本に気を持たせた。ヤルタ密約で約束された見返りを確保するためには、日本が早期に終戦に応じてしまっては困るからである。
・そのようなソ連の腹の内を知らない日本は、ソ連仲介に望みを捨てず、ひたすら再交渉の機会を待っていた。
・ベルリンにおけるポツダム会談に臨む、トルーマンの対日戦についての基本的考え方(トルーマンの『回顧録(1)』より)は、「我が軍が太平洋を進撃する時、ソ連の参戦を早めれば、幾十万幾百万の米国人の人命を救うことになる。中国に兵を入れて日本軍を追い払うよりも充分なソ連兵力を満州に入れ、日本軍を追い出すことが、この際唯一の道である。中国における米国の戦争指導方針は、中国人民を結集して対日戦を続行させることである」というものだった。

◇ポツダム会談は、太平洋戦争が最終段階に入り、これをいつ、どのような形で終結するかを巡って、米英ソ3国の終戦構想が激しく激突した。ドイツの戦後処理が主な議題であったが、同時に日本の降伏条件とソ連の参戦についても話し合われた。首脳会談は大揺れになり、米英とソ連の間に大きな亀裂が生じはじめた。その原因は、次の3つである。
①戦後ヨーロッパの再建のあり方を巡る東西激突。
民族自決と民主主義の原則をかざす米英と、ドイツ打倒の勢いを駆って社会主義勢力圏の東欧、中欧への拡大を進めたいソ連の利害が対立、調整不可能に陥った。その上、強いカリスマ性を持ち、国際社会のリーダーでソ連を含めた戦後世界の再構築を進めてきたルーズベルトが4月に急死したことも重なった。
②米英は、これまでの首脳会談のたびに、ソ連を連合国に引き入れる構想を進めてきた。ポツダムでも、ソ連の対日参戦の約束を確認して、米英ソ3国の署名をもって日本に「最後通告」を突き付けて早期無条件降伏を実現するはずだった。
しかし、トルーマンは、会談を重ねる度に、スターリンらソ連代表が東欧のみならず極東地域においても、常に領土を拡張しようとする強気な態度を見せるのを快く思わなかった。そのようなソ連に、日本の戦後管理に参画させてはならないとの決意を固め、いずれソ連とは敵対関係になると感じていた。
③半年前のヤルタ3首脳会談の頃は、まだ未知数であった史上最大の武器「原子爆弾」が、ポツダム会談とほぼ同時に登場した。というより、トルーマンが原爆実験の時期に合わせてポツダム会談の開幕時期を決定した。

■原爆実験成功によるトルーマンの対ソ外交の変化
・ここまでのトルーマンの対ソ外交は、ルーズベルト路線と同じであった。しかし、この考えは、原爆実験成功によって一変した。トルーマンの腹は、原爆実験が成功すればソ連をはずし、不成功なら予定通りソ連を対日参戦させるというもので、「原爆カードとソ連カード」の両天秤を画策していたが、会談の途中で原爆実験が成功したばかりか実践使用の見通しもつくという劇的な展開となった。
・原爆を手にしたトルーマンは、ソ連が参戦して極東各地での領土や権益の拡張に乗り出すのをけん制するため、すかさず日本に原爆を投下する作戦に出た。ソ連の参戦と原爆の投下との時間的競争がクライマックスに達した。
この間の経過は以下の通りである。
・トルーマン、チャーチル両首脳は、ポツダム会談は独ソ戦に勝利したスターリンのペースで進められるのではないかと心配していたが、会談の始まる前日、ニューメキシコ州アラモ・ゴルドでの原爆実験成功のニュース(「今朝手術終了。診断いまだ未完了だが、結果は良好な様子。すでに予想された以上である」)がもたらされた。この一報で米英両首脳の態度は一変した。トルーマンは、実験の成功のことも、7月4日にチャーチルから日本への原爆投下の同意を得たこともスターリンには秘密にすることにした。
・トルーマンら米国指導者の間には、もはやソ連の対日参戦の要請は不要との確信が出来上がっていた。トルーマンの頭の中には、終戦後東アジアでソ連より優位にたち、世界をリードするために原爆の威力を見せつけて、ソ連参戦の前に日本を降伏に追い込む必要があるとのシナリオが出来上がった。
しかし、シナリオの決行は続いて行われる実用実験の成功を待ってから、と慎重に判断した。

◇一方、スターリンは、米国が1942年8月から20億ドル(現価約2兆円)の資金を投入したマンハッタン計画(原爆開発計画・最高責任者スティムソン陸軍長官)を直後から察知し、原爆実験成功のこともスパイ情報でいち早く入手していた。
・米国の原爆投下が近づいていることを感じたスターリンは、ポツダムに着くなり、極東総司令官ワシレフスキーに対日作戦を10日ほど早められないか問い合わせたが、軍隊の移動と必需品の集積に時間がかかるため難しいとの返事だった。
・会談初日の17日午後5時、米ソ首脳は初めて顔を合わせて挨拶を交わした。その夜、実用原爆実験成功(「小さな男の子(投下用)は大きな兄(実験用)と同じように元気だ。男の子の目の色は、ここから認識することが出来、泣き声はここからでも聞こえる」)の第2報が届いた。
・翌日、チャーチルは、トルーマンから衝撃的な電文を見せられて、これで日本を最終攻撃するのにソ連の助けは必要なくなったと受け止めた。
・会談が最終段階に入った頃の米英の最大関心事は、ソ連がいつ対日参戦するかであった。ソ連は、24日の3国軍事会議の冒頭、「ソ連地上軍は8月20~25日に作戦を開始する用意ができるであろう」と述べた。
・同日の会談中、トルーマンに「原爆投下は8月3日から数日中に可能」との3報目の入電があった。その日の会談終了後の午後7時半、トルーマンはスターリンに「米国は非常に大きな破壊力を持った新しい兵器を手に入れた」と簡単に伝えたが、すでに情報を入手していたスターリンは何の感情も表さなかった。しかし、内心は米国の原爆投下が迫っていることを察し、何としてもその前に参戦しなければと焦った。同時にスターリンは、密かに進めていた自国の原爆開発を急加速させる決意を固めた。この時が、米ソ首脳が火花を散らした最初の瞬間だった。

■トルーマンのソ連はずし
・実用原爆の実験成功で意を強くしたトルーマンの行動は素早かった。
ポツダム宣言発表2日前の24日から、占領統治からソ連を排除するため、会談の裏側で秘密裏に宣言国の参加署名工作が進められた。当初署名予定の米英ソ3国からソ連を外して、代わりにカイロ宣言の参加国である中国を含めることにし、重慶にいる蒋介石の同意を取り付けた。また、英総選挙敗北で急遽帰国することになったチャーチルからも事前了解を得た。
・25日、ソ連の対日参戦前に原爆投下が必要と判断、準備が完了して天候に支障がなければ、「広島、小倉、長崎、新潟のいずれか」への投下を命じた。
・会談休会日の7月26日夜9時20分(日本時間27日午前4時20分)、トルーマンは突然米国代表宿舎に記者団を集め、あらかじめチャーチルと蒋介石の代筆署名をしたポツダム宣言を米英中3か国の名で発表し、記者会見も行った。
・カイロ会談以来、アメリカから政治的代償と引き換えに何度も対日参戦を要請されて急ぎ戦争準備を進めてきたソ連は、日本への最後通牒であるポツダム宣言2日前になって、署名参加国から外された。同時にソ連の対日参戦自体も米国から敬遠され、宣言内容の事前通告も受けなかった。
・出し抜かれたソ連外相モロトフは、事前通告がなかったと厳重に抗議したが、後の祭りであった。それどころか、スターリンは、2時間以上後になって記者団から宣言内容を知らされるという、屈辱を受けることになった。
トルーマンから受けたスターリンの屈辱は、この後、強烈な巻き返しとなって、日本にさらなる悲劇をもたらすことになる。

■ポツダム宣言の内容
ポツダム宣言の内容は、冒頭で「日本に戦争を終結する機会を与える」とあるが、「終結の機会」とは「降伏する機会」という意味で「和平の提案」というような生やさしいものではなく、日本本土を完全に破壊するほどの軍事力を集結している、と述べている。
そして降伏後の日本に対して次のような措置を取ることを通告した(要約、一部抜粋)。
⑥日本を世界征服に導いた勢力を一掃する。
⑦日本国領域の諸地点の占領。
⑧カイロ宣言の条項は履行され、また、日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに我々が決定する諸小島に局限する(講師注、樺太と千島、沖縄と小笠原などの諸島には言及していない)。
⑩日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではない。
⑫平和的責任ある政府の樹立が確認された後、占領軍は速やかな撤退をする。
⑬日本国政府が軍の無条件降伏を宣言し、政府の誠意について充分な補償を提供する。
最後に「右以外の日本国の選択は、これを受け入れない場合はドイツと同様に、迅速且つ十分な壊滅あるのみ」とし、これらの条件を無条件で受け入れることを要求した。
・これに対して、日本政府は降伏するどころか、宣言にスターリンの名がないことから、ソ連との仲介で停戦に持ち込めば、ポツダム宣言よりも有利な条件で講和できるかもしれないという意見が支配的であった。その結果、政府としては目下進行中の対ソ仲介交渉に力を注ぎ、ソ連の回答を待ってから宣言の諾否を検討することにして、当面は事態の推移を見守る方針を決めた。
佐藤がモスクワから繰り返し、ソ連は仲介に応じる可能性はないと打電し続けるが、日本政府はあくまでも自国中心的で、楽観的な見方を捨て切れなかった。
・宣言の通告2日後、鈴木貫太郎首相は記者会見で、「政府としてはポツダム宣言を黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」と戦争継続を主張した。「黙殺」はロイタ―とAP通信ではReject「拒否」と訳されて報道された。米国は「黙殺」を「拒否」とみなして原爆投下の口実にし、ソ連は対日参戦のチャンスを得ることになった。

◇28日夜遅くなってから再開された3国首脳会談の冒頭、スターリンは、議事に入る前に発表したいことがあると発言し、佐藤からのモロトフ外相あての外交文書のコピーを読み上げた。それは、日本政府が天皇の要望により、近衛公をモスクワに派遣し、ソ連政府に現在の戦争を終結に導く仲介の労をとって欲しいとの要望文であった。
スターリンは、読み上げた後、この要望に対する返事は「ニエット(ノー)」であると言ったので、トルーマンらはスターリンに拍手を送った。だが、その拍手は両者の別々の思惑が隠されていた。スターリンにとっては、日本に仲介を信じさせて戦争を長引かせ、自分たちが戦争の準備を完成した暁に、警戒していない日本に対して、満州に突如奇襲攻撃をかける腹であった。トルーマンにとっては、日本にソ連との交渉によって戦争が終結することができると信じ込ませることで、ソ連が戦争を開始する前に原爆を投下し、日本にショックを与えるつもりであった。
続いてスターリンは宣言署名から外したことについて発言を求め、公然と不満を表明した。これに対して、10年後に書かれたトルーマンの「回顧録(1)」では、ソ連は当時、日本との中立条約が有効であり、ポツダム宣言の参加国になることが出来なかった、と記している。この回顧録通りとすると、日ソ中立条約は1946年4月まで依然有効であり、トルーマンはそれを承知の上でソ連に政治的な「甘い代償」を約束し、これと引き換えに対日参戦を要請し続けたことを、どう説明したのであろうか。
・怒ったスターリンは、ソ連抜きにポツダム宣言を発表したことは、トルーマンとチャーチルの裏切りであり、侮辱的な行動とみなした。これは原爆に関して本当のことをトルーマンが隠していた以上にショックであった。スターリンの計画は完全に頓挫してしまった。
・もっとも重要なことは、スターリンが、ソ連参戦の前に日本の降伏を勝ち取ろうとするトルーマンの意図を見抜いたことである。スターリンはトルーマンの目的達成を必死で阻むために、一刻も早く戦争に参加しなければならないと腹に決め、8月8日に署名して共同宣言国になった。ここに、米ソの熾烈な競争が本格的に始まったのである。

9.終戦をめぐる米ソの駆け引きとソ連軍の侵攻
・ポツダム会談の結果に大いに不満を持ったスターリンは、モスクワへ帰るや直ちにワシレフスキーと対日参戦について話し合った結果、当初より半月早い8月9日の朝とすることで最終計画を決定し直ちに臨戦態勢に入った。ソ連最高司令部は、7月28日、満州正面には攻撃任務、樺太正面には南樺太攻撃準備、カムチャッカ地区部隊及び太平洋艦隊には防御任務など具体的任務を与えたが、この時点では攻撃開始日時は極秘とされた。
・翌29日、モロトフは、ソ連が対日戦争に入る一番よい方法は、米英その他極東の戦争に参加している国々からソ連に対して対日参戦要請の公式文書を出してもらうことである、として参戦名目を正式に要求した。しかし、トルーマンは、この提案はソ連の参戦が連合軍に勝利をもたらすための決定的な要素であるかのようにみせかける駆け引きであり、後々、これが足かせになると見て快く思わなかった。トルーマンはこの時の心境を、自著「回顧録(1)」の中で、快くというより頭にきたというような表現で次のように語っている。「この提案は、一つの重要な理由から気に入らなかった。提案は、この時点でのソ連の参戦が(太平洋戦争での)勝利をもたらした決定的要素だと人々の目に映るようにする冷笑的な外交行動、と私は考えたのである。我が国の軍部首脳たちは、中国本土にいる大規模な日本軍を無力化し、これによって何千人という米国及び連合国の兵士の声明を救うため、ソ連を参戦させるべきだ、と強く要望してきた。しかし、長く苦しく勇敢な(ソ連以外の連合国の)努力の成果を、これにまったく関与しなかったソ連に刈り取らせるつもりはない」
しかし、ヤルタにおける約束の手前もあり31日、トルーマンからスターリンあてに渋々書簡を送り、国連憲章は国際法より優位に立つと述べ、日ソ中立協定に基づく義務よりも対日参戦の義務の方が優先する、と保証した。
しかし、この説明は法的根拠に欠ける。モスクワ宣言は米英ソ中の4カ国だけが署名した宣言であり、その法的な義務がこれに参加していない国に及ぶとは考えられない。トルーマンがスターリンに与えた書簡は、ソ連に対日参戦の大義名分を与えたものである。ソ連はともかくこの書簡によって、ポツダム宣言後の駆け込み参戦が可能になったのである。
日本はこうしたソ連の翻意を知らず、最後の瞬間までソ連の好意を当てにし、対米英和平仲介に望みをかけていたことは、喜劇的な悲劇というべきものであった。

■原爆投下
・日本時間8月6日午前8時15分、米国は、世界初の原爆第1号(リトルボーイ・重量4トン)を広島に投下し、同年12月末までに約14万人の生命を奪った。翌日トルーマンは、ラジオ放送で次のような声明を発表して全世界を驚嘆させた。「我々はいまや、どんな都市であろうと日本人が地上で行っているあらゆる生産活動を、これまでよりももっと早く、もっと完全に抹殺できることになった。ここにはっきりさせておきたい。我々は日本の戦争能力を完全に潰してしまうつもりである。去る7月26日、ポツダムから最後通告を発したのは、日本国民を徹底的な破壊から救おうという意図からであった」
この声明は、米国民に対して原爆投下の目的を、表面上は米軍の損傷を軽減し、同時に「日本国民を徹底的破壊から救おう」と述べているが、声明の裏には3つの理由が隠されていた。
①ポツダム宣言が拒否されたために原爆の投下を決定したと一般的に信じられているが、真実はその逆で、投下の決定はすでに同宣言が出される1日前(7月25日)に発せられており、むしろ同宣言は原爆投下を正当化するために出されたのである。
②原爆開発に20億ドルもの膨大な国家予算をつぎ込んできたことに対する国会での非難をかわすため、早期に結果を出す必要に迫られていた。
③もはやソ連の助力の必要がなくなった以上、ソ連を牽制して、米国がいち早く戦後世界の覇権を握ることにあった。
・原爆投下情報を即刻入手したソ連最高司令部は、日本の降伏が近いと判断し、直前に予定を繰り上げて翌7日午後4時30分、極東ソ連軍に対し、8月9日零時をもって作戦行動の開始命令を下した。
・8日午後5時、モロトフは佐藤をクレムリンに呼び、和平交渉の仲介の回答があるものと期待した佐藤に、「ソ連は日本がポツダム宣言を拒否したので、日本政府が極東での戦争について、ソ連政府に終結斡旋を依頼していたことのすべてが根拠を失った。連合国はソ連政府に対して、戦争終結までの時間を短縮し、犠牲者の数を少なくし、全世界の速やかなる平和の確立に貢献するために、ソ連が日本の侵略に対する戦争に参加するよう申し入れてきた」と述べ、連合国に対する義務を忠実に果たすために、ソ連政府はポツダム宣言に参加したと説明し、宣戦布告文を手渡した。
・対日参戦の理由は、連合国の要請によるものであるとしているが、参戦要請という虚構によって、中立条約への違反は赦免されるということを暗示したもので、1時間後に始まる戦争を正当化するためのこじつけ理由が必要であったことを意味している。日本に対するソ連の宣戦布告は、同時に米国に対する挑戦でもあった。

◇この時のモスクワ時間午後5時は、現地(日本、満州)時間午後11時で、ソ連軍の攻撃開始1時間前であった。驚いた佐藤は日本に公電を打ったが、攻撃開始前に東京には届かなかった。
・すでに満州、朝鮮半島北部、南樺太の3正面に送り込まれていた158万の極東ソ連軍の一部は、9日午前零時を期し、外蒙古と沿海州の2方面から一斉に国境を突破して、満州に侵攻を開始した。これはいまだ有効な中立条約締結の相手国日本に向かっての完全無警告の奇襲攻撃で、米英中への事前通告も一切なく、ソ連の一方的な行動であった。ソ連の中立を頼みとし、準備も装備もしていなかった関東軍や大本営は、ソ連の期待を裏切った突如の侵攻で混乱し、防戦に出たのは6時間後のことである。
・一方、日本本土では、ソ連侵攻と時を同じくして、9日午前11時02分、米国は2発目の原爆を長崎に投下、同年12月末までに約4万3千人の命が失われた。北部においては、樺太国境からの最初の攻撃開始は11日で、千島列島北端の占守島が奇襲上陸を受けたのは18日であった。
・この頃の日本の中央首脳部は、ポツダム宣言受諾をめぐる戦争終結問題にかかりきりで、ソ連軍に抗戦する日本の第5方面軍の第88師団(樺太)と題91師団(千島)は、中央の指揮・支援もほとんどない中で、必死に戦わなければならなかった。

◇この状況下でトルーマンの対処は素早かった。8月12日、英中の同意を得て、マッカーサー元帥を日本占領軍の連合最高司令官にすることを決定。同日中にスターリンに電報を打った。「私は、この書簡に照応して日本武装兵力の全面降伏を受理し、調整し、実行するため、連合国を代表する最高司令官として、ダグラス・マッカーサー大将を任命するよう提案します」同日、マッカーサーの最高司令官任命を、不承不承ながら認めたスターリンの返電。
「貴提案に同意します。ソ連極東総司令官に対する日本軍の無条件降伏についても、マッカーサー将軍が日本帝国大本営に指示を与えることを予想している手続きにも同意します。ソ連軍総司令部代表にテレビヤンコ中将を任命し、彼に一切の必要な訓令も与えています」
・14日夜、日本政府がポツダム宣言の最終的受諾通告を発電して終戦が確定し、翌15日正午、天皇はラジオ放送で宣言の受諾と戦争の終結を国民に発表した。
・すぐにトルーマンからスターリンへ発した電文は、「8月14日に日本政府は降伏に関する連合国政府の要求を受諾したので、貴官は、貴官の地域にある連合国武装兵力の安全に合致する限り、日本陸海武装兵力に対する攻撃作戦を中止する権限を、この書状によって与えられます」
・15日午前、トルーマンは、マニラにいる連合国最高司令官と日本軍による連合国への降伏受諾の全権に任命したばかりのマッカーサーに対して、「指令第1号」を送った。その指令第1号の4項で、次のように指示している。
「日本軍からの全面降伏を受領した貴下は、日本の大本営に対し、全般的な(停戦)命令を出すよう要求されたい。この大本営の命令は、日本軍の司令官がどこにいようとも、降伏の手順や降伏を実施するための細目を指示するものとする。外地にある日本軍が、関係国の司令官に降伏する件に関しては、貴下は日本の大本営との間で、その取り決めに関し必要な調整を実施されたい」
・マッカーサー元帥は、日本政府が降伏を表明した15日正午、直ちに太平洋の全前線で展開中の連合国である英中ソその他に、戦闘停止命令を伝達した。ソ連を除く西側同盟国に異論はなく、米英中と日本との一切の戦闘活動は、この時点で終了した。
・マッカーサーは、同時にトルーマンの指示補助に基づき、外地にある日本軍の降伏の細目を次のように日本側に伝達した。
「一般命令第1号・第1項」(要約、一部抜粋)
①中国、台湾及び北緯16度線以北のインドネシアでは、蒋介石に降伏すること。 
②満州、北緯38度線以北の朝鮮半島及び樺太にある日本国の先任指揮官並びに一切の陸上、海上、航空及び補助部隊は、ソ連極東軍総司令官に降伏すること。
③東南アジアでは、北緯16度線以南のインドネシアから南にあり、ビルマからソロモン諸島までの地域では、降伏を受領する連合軍の代表は、英国のマウントバッテン卿(司令官)か、オーストラリア軍の司令官のいずれかとする。
⑤日本本土、北緯38度線以南の朝鮮及びフィリッピンでは、マッカーサー元帥が降伏を受領する。
⑥太平洋のその他の地域では、ニミッツ米海軍元帥が降伏を受ける。
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 以上が本日のお話の要約ですが、第1回と同じように米国のトルーマンとソ連のスターリンとの駆け引きの激しさがよく分かりました。それに比べて日本の軍部は都合の悪い情報を握りつぶしてしまうなど、いかに現実を無視した勝手な考え方をしていたかということが、よく理解できました。
  
 最後に受講者から寄せられたコメントをご紹介します。
「ポツダム宣言前後の米、英、ソの動き考え方を詳しく知ることができ、勉強になりました」
「ソ連との関係等、学校でも学ばなかった事を学べて勉強になった」
「日本降伏を巡る状況が大変解り易く理解できた。ポツダム宣言の受諾で最終署名(調印)したのは日本のどの方ですか」
「戦争法というものがこの時代にあったのなら、一般市民の無差別空爆や原爆投下は違反にはならないのだろうか? それとも戦争が始まれば法律など無視しても罪には問われないのでしょうか? 現在でもロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザやイランへの攻撃も戦争になれば国際法無視は許されるのでしょうか?」 
「終戦に向けて対戦国である米英ソの熾烈なかけひきがよくわかりました。日本の組織機能不全のこともはじめて知り、大変有意義なお話でした」




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