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主催講座5「北を藩士たち~蝦夷地の幕末~」

2025/06/17

 6月12日(木)主催講座5「北を護った藩士たち~蝦夷地の幕末~」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講座の進行を荘内藩陣屋研究会理事の川村佳広さんが務められ、荘内藩ハママシケ陣屋については荘内藩陣屋研究会会長の佐藤睦さんが、仙台藩白老元陣屋については元仙台藩白老元陣屋資料館館長の武永真さんが講師を務められました。受講者は、56人でした。
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1.北を護った藩士たち 講師 荘内藩陣屋研究会会長 佐藤睦さん
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◇幕府による第一次蝦夷地経営
・1779(寛政11)年、北辺の国際的緊張等を背景に、松前藩に任せていた蝦夷地を幕府が直接経営することとなった(幕府による第一次蝦夷地経営)。
既にロシアは南下して根室周辺に渡来するようになり、1792(寛政4)年には、ロシア大使ラックスマンが来航して通商を求めたが幕府は拒絶した。しかし、各国の艦隊が沿岸に接近を繰り返して問題となっていた。幕府の蝦夷地経営は、このような状況の中で始まった。
・幕府は
①撫育の充実でアイヌのロシア接近を抑えること
②武備を整えて対外緊張に対応すること
③新田開発をして、その経済効果を期待すること。また莫大な魚肥の供給は新田5万石に当たり、蝦夷地での開発で米穀供給が増大すれば、奥羽の農業の活性化につながること
④東蝦夷地・南千島の要地に、南部・津軽の兵士を配して警備に当たること
以上の政策をもって蝦夷地経営に当たった。
・1804(文化元)年、ロシア大使レザノフが長崎に来航して要求した通商を幕府が拒絶したことで対露緊張が強まり、1811(文化4)年に西蝦夷地も「幕領化」が決定された。直後に前年の樺太に於けるロシア艦の乱暴事件の報が届き、新たに警備体制が強化され、南部・津軽の他に秋田・仙台・会津も常駐兵力に動員された。
・1811(文化8)年、ロシアのゴローニンが南千島の測量中に、北方襲撃の報復として南部藩士に捕縛された。1812(文化9)年、ゴローニン救出のため、国後島沖で北前船の船頭高田屋嘉兵衛が捕らえられロシア本国へ連行された。翌年、高田屋嘉兵衛の外交努力により、ゴローニンは解放された。おかげで、ロシアとの緊張は緩和され、松前藩の復領工作もあって、幕府の第一次蝦夷地経営は終わった。
◇幕府による第二次蝦夷地経営
・1854(嘉永7)年2月13日、日米和親条約締結。箱舘が開港地になり、箱館周辺が幕領地とされた。日露和親条約も結ばれたが、樺太の国境問題は保留のままで、国境警備の問題は従来以上の緊張感で重視された。それにより幕府は、樺太に重点を置いた警備体制に奥羽諸藩を動員し、後に南部・津軽・秋田・荘内・会津・仙台の六藩に、蝦夷地の一部を藩領として与え警備の強化に努めた。
・第一次で果たせなかった開墾計画は、意欲的に取り組まれた。
蝦夷地への和人定住を解禁・促進して開墾が進められ「お手作場(幕府経営の開墾地)」が開設され、「百物百工(必要な諸産業を多くの分野で興すこと)」の開発では、農業分野のほか諸技術所を開設、鉱山・造船・測量・築城等に西洋技術の採用が目立った。産物会所を設定して蝦夷地産物の流通を規制、商人への金融を行い、財政上の収益確保に努めた。
・幕府も奥羽諸藩も諸事多難の幕末期に、政治・経済的力量不足の中、開国・自由貿易を求める世界情勢に押され、警備・アイヌ同化等を進め、北辺領域を幕府の領土として確保する政策が取られた時期であった。
◇1859(安政6)年、幕府による「開発・守衛之儀」の達し
・この達しにより、荘内藩(山形県鶴岡市)は、西蝦夷地の海岸を担当することとなった。
・本陣屋をハママシケに脇陣屋をルルモッペ・トママイ・テシオに置いた。ハママシケは、本部と補給基地を担い、守衛と開墾を行った。
・ハママシケ陣屋の守備兵編成は、1862(文久3)年時、総計208人であった。
・荘内藩の蝦夷領地4場所の軍役は2万5千石が建前で、兵士の数は413人を必要としたが、1867(慶応2)年12月の実数は264人に過ぎず、不足分を農兵で補う計画が立てられた。農兵に銃を持たせ西洋軍法を採用して小隊を編成することを計画。
・弥陀(現実田)村や吉岡村など地域から人員を集め、それでも足りない分は浜方永住(永住漁民)から集め手当を支給。郷夫にも鉄砲の訓練をし帯刀も認める、というのが郡代金井右馬助の考えであった。
・北辺の警備という難しい状況の中で、藩士・足軽からなる伝統的な正規兵のほかに農民を主体とする新しい兵制が生まれようとしていた。これはまさに、明治期の北海道開拓で大きな役割を果たした屯田制の先駆と言える。
しかし、この画期的な構想も、軌道に乗る前に明治維新を迎えた。
・1866(慶応4・明治元)年、戊辰戦争勃発の報せを受け、荘内藩蝦夷地奉行里見弘記以下、浜益の藩士・農民らは荘内に総引き上げとなった。

2.~蝦夷地の幕末/仙台藩白老元陣屋~ 講師 元仙台藩白老元陣屋資料館館長 武永 真さん
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 お話の前に、仙台藩白老元陣屋資料館友の会の5名のみなさんが紹介されました。
◇仙台藩白老元陣屋の北海道遺産選定
武永さんは最初に、仙台藩白老元陣屋が令和4年10月13日に21年間の努力が実って念願の北海道遺産に選定された時の町民の喜びや苦労について、話をされました。ちなみに道内には20か所の陣屋があり、そのうち国の史跡になっているのは白老、ハママシケなど6か所。
◇仙台藩白老元陣屋の四季の姿
仙台藩白老元陣屋の春、夏、秋、冬の姿の紹介がありました。
◇仙台藩白老元陣屋とは?
・仙台藩白老元陣屋は、蝦夷地警衛のため、徳川幕府が1856(安政3)年に仙台藩に命じて構築させた道内最大級の陣屋(防衛施設)である。
・1868(慶応4)年に勃発した戊辰戦争により藩士たちが撤退するまでの12年間、白老から襟裳岬を超えて、国後・択捉までの警備にあたっていた。
・陣屋跡は169年以上を経過した現在でも往時の景観をよく残し、本町では元陣屋資料館を整備し地域住民とともにその苦難の歴史を伝えている。
◇東北諸藩による蝦夷地分割警備
1859(安政6)年以降、仙台藩(約400人)、会津藩、秋田藩、荘内藩、南部藩、津軽藩の東北六藩と松前藩により各地に20の陣屋が構築されて藩士たちがその任にあたった。
ちなみに当時アイヌの人たちは白老場所全体で400人いたが、江戸時代を通してその数は減らなかった。
それは仙台藩の、白老に第2の故郷仙台を築くため、地元アイヌ民族に対し、労働の対価として正当な賃金を支払うなど、共生する関係の構築を推進したからである。
◇仙台藩白老元陣屋は、何処にあって、どんなところか?
・自衛隊白老駐屯地に向かう道路の西側にあり、北は高速道路の辺りまでの地域。
・史跡に指定されている範囲は、土塁と堀割に囲まれた内曲輪・外曲輪と愛宕・塩釜両神社のある東西の丘から藩士墓地までの約353,000㎡で、中枢部の内曲輪と外曲輪だけでも約66,000㎡。札幌ドーム(55,000㎡)より広い範囲に土塁・堀割・門・長屋などの防衛施設を急造して、北方の警備に臨んだ。
◇全国各地に残る様々な絵図面
仙台藩白老元陣屋の絵図面は、全国で26枚確認され、そのうち8枚を仙台藩白老元陣屋資料館が所蔵している。
①『仙台藩白老陣屋之図』(仙台藩白老元陣屋資料館蔵)
②『白老元陣屋之圖』(縄張り)(宮城県図書館蔵)
③『仙台藩白老陣屋図』(もりおか歴史文化館蔵)
④『仙台藩白老御陣屋詳細図』(函館市立中央図書館蔵)
◇史跡 白老仙台藩陣屋跡
1966(昭和41)年3月3日に国の史跡に指定される。指定面積は、約353,000㎡。資料館から見える景色のすべてが史跡指定地。
◇西の丘に鎮座する奥州一之宮 塩釜神社
・第二の故郷仙台を白老に築こうと御分霊を勧請。
・倒壊した赤松の廃材を利用して社殿(後世築)を建設。神社参道入り口から146段の階段が続く。
・例大祭が毎年8月10日に挙行される。境内からは、太平洋が一望できる。
◇東の丘に鎮座する仙台総鎮守 愛宕神社
・現在はコンクリート製の社殿。参道の階段は、196段。
・例大祭は、毎年7月26日に挙行。境内から太平洋が一望できる。
◇陣屋の生き証人 陣屋の赤松
・第二の故郷を白老に築こうと苗木を国元仙台から移植。
・1本(160歳)が残存。平成になってから3本が倒壊。
・5~6年毎に延命措置を施されて今も元陣屋を見守っている。
◇12年間の死没者は23人
・北の大地の露となり儚く消えた御霊を祀る藩士墓地は、陣屋跡南西側の飛地に全11基あり、7人分の御霊が眠る。
・供養祭は毎年8月10日に挙行。1906(明治39)年から119回目。
◇白老元陣屋の主な記念物
・白老分領記念の石灯籠(松浦武四郎『東蝦夷日誌』所収)。
1861(文久元)年に白老が仙台藩の領地となったことを記念して、御備頭の氏家秀之進らが寄進。
◇内曲輪(お城でいえば本丸)
・高い土塁と深い堀割に囲まれた内曲輪の広さは約10,000㎡。外曲輪とは太鼓橋でつながっている。
・左手に本陣と武器庫、右手には勘定所や穀蔵などを配して管理的な機能を持たせている。
◇外曲輪(お城でいえば二ノ丸)
・内曲輪から南側の大手門を潜ると広さ約56,000㎡の外曲輪となる。
・120人の藩士たちは毎年交代で国元仙台と往復し、ここに駐屯した。
・仙台―白老間は約800㎞。これを約20日間で往来していた(一日10里)。
・居住空間でもある外曲輪は藩士たちが生活していた場所であった。
・東側には、稽古屋(道場)や星場(射撃場)などの訓練場もあった。
◇火薬庫
塩釜神社北西の陽のあたらない山裾に火薬庫が設置されていた。失火を防ぐためか、出入り口は北側に向けて設けられている。
◇陣屋正面入り口の馬出と虎口
・目隠しの役目を果たした馬出(うまだし)と兵を終結し一気に押し出す虎口(こぐち)。
・史跡南側の入口広場には標柱や説明看板等が設置され、来園者を迎える。
・令和8年度から再整備を実施予定。
◇川と堀割
・西側は天然(自然)の流れのフシコウトカンベツを活用。
・東側に新たに「ホリナリ」を掘削(旧ウトカンベツ川)した。
3.仙台藩白老元陣屋資料館
1984(昭和59)年10月開館、一昨年開館40周年を迎える。
◇展示物
陣屋紹介ビデオ。着用できる6体の鎧兜(レプリカ)。三好監物(地元アイヌ民族の協力で蝦夷地を巡察)のジオラマ及び業績紹介。北方脅威に関する資料。北方警備の貴重な絵図面や歴史資料。元陣屋を忠実に再現したジオラマ。白老におけるアイヌ民族と和人との共生の歴史紹介。塩釜・愛宕両神社の歴史。
その他、30人を収容できるエントランスホールでは館の概略を紹介することができる。
※ちなみに博物館ジオラマ百選に選ばれている。
◇友の会
来館者とともに学び、親しみのある解説を心がける「友の会」は、発足41年目。最初6人でスタートし、小・高校生から80代まで22人が活躍している。
資料館は、ウポポイ開業により入館者が増加。「友の会」は、ますます精力的に活動している。
◇陣屋跡視察研修調査―地域人材育成・活用事業
令和3年度から3年間実施。
仙台藩ヒロオ陣屋跡(広尾町)。会津藩士顕彰碑(標津町)。津軽藩士殉難慰霊碑(斜里町)。正行寺本堂(厚岸町)。
◇ふるさとを学ぶ「館長とまち歩き講座」
平成7年度から8年間実施、延べ57講座に838人が参加。
草刈運太郎墓碑(社台)。旧アイヌ民族博物館(若草)。白老港(石山)。ポンアヨロ観音堂(虎杖浜)。ボラナイ観音ノ沢遺跡(社台)。飛生アートコミュニティ(竹浦)。
◇北海道遺産への選定
・北海道遺産選定を機に、仙台藩をはじめ東北諸藩が担った歴史に触れていただくため、これからも"眠らない博物館"を目指して活動していくとともに、道民の大切な宝物を守り、磨き、活用して、着実に次世代に引き継ぐため、町民や関係団体とともに「北海道遺産構想」をさらに盛り上げていきたい。
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 今回の講座では、荘内藩と仙台藩のそれぞれの陣屋のお話を聴くことができて、受講者も大変興味深かったと思います。浜益と白老から多くの関係の方々が石狩にお集まりいただき、ありがとうございました。皆さまの活動が今後さらに発展しますようお祈り申し上げます。

 最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「白老の話は初めて聞かせてもらった(貴重な話でした)。浜益陣屋跡の重要さを再認識した。両陣屋跡関係者の今後の奮闘を期待しております」
「ほとんど知らなかったことが知れたのは、良かったです。資料もたくさん用意してくださり有難うございます。当時の人々のエピソード等の紹介もあればもっと面白かったと思います。赤松のはなしは、興味を持ちました」
「限られた時間内で良く説明していたと思います。資料も良くまとめてあると思います。これからも石狩カレッジ期待しています。マイクロホンは手持ちではなくオペレーター型が使い勝手が良いのでは?と思いました。※ウポポイの話は意外だった」
「幕末におけるロシアの南下政策への対応と石狩の置かれた立場を理解でき、歴史を身近に感じました。前段はプロジェクターを利用するともっと理解しやすかったのではと思いました」
「友の会等有志の人たちの力が大きいことが理解できた」
「ハママシケ陣屋跡は何度も見学させてもらいましたが、年々整備されて保存会の方々のご苦労に感謝しています。初めは入口でながめるだけでしたが、今では全体像がうかがわれる様になって嬉しく思っています。白老陣屋は10年以上前で、もう一度おとずれたいです。資料館をじっくり。本日は遠路、ありがとうございました」
「不勉強もあって基礎知識(の)ない者に、優しく説明を資料にもとづいて、よく理解できました。ありがとうございました。なお、昨年白老元陣屋を高齢者の団体で訪れたこと(が)あります。この度の講座を学んでからの訪問であったらよかったのにと強く感じています」
「佐藤さんのお話は資料を読むだけでなくご自身の苦労話などや今後の展望なども聞きたかった。武永さんのお話は、とても聞き易かった。陣屋は、自衛隊のようなものとの説明が良かった。仙台から移植した赤松が1本しか残っていないのは残念。当時でも津軽海峡を8時間で渡ったのは驚き。スライド画面は小さく感じたので、スクリーンをもっと大きな物に替えてほしい」




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