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主催講座11「ラッコと鯨が招いた日本開国史~北からの黒船、開国を迫る~」第3回「アメリカ捕鯨船の難破問題から始まった日本開国史(その1)」

2023/11/23

 11月18日(土)、主催講座11「ラッコと鯨が招いた日本開国史~北からの黒船、開国を迫る~」の第3回「アメリカ捕鯨船の難破問題から始まった日本開国史(その1)」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、ノンフィクション作家で北海道史研究家の森山祐吾さん、受講者は、38名でした。
 森山さんは最初に、年を取ってから一生懸命学ぼうとする女性を紹介し、学ぶという事は年齢など関係がない、学びたいという気持ちが大事で、それがあれば人間は成長できる、という話をしてから講座を始められました。
 講座は、ホワイトボードに描かれた北アメリカ大陸の地図を使いながら具体的に進められました。
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1.アメリカの初期躍進時代(18~19世紀)

◇アメリカの独立
 1500年前後から、イギリス、フランス、オランダ、スウェーデン、スペインなどが北米に進出して各地を植民地化し、その最盛期は1600年頃から1700年初頭まで続いた。北アメリカ東岸の13州は、独立宣言までの約160年間、イギリスの植民統治下にあった。
・1492年 コロンブスのアメリカ大陸発見
・1620年 プロテスタント(清教徒)、メイフラワー号でプリマス到着
・1775年 イギリスからの独立戦争勃発
・1776年 独立宣言
・1783年 イギリスがアメリカの独立を承認
・1787年 合衆国憲法制定
・1789年 ワシントン、初代大統領に就任

◇アメリカの発展
 アメリカは、独立以来想像を超える開拓者精神を発揮して諸外国の圧力を跳ね返し、国力の充実をはかった。豊かな資源を駆使して経済発展にも力を尽くし、ほどなくイギリスに次ぐ大産業国にのしあがった。
・1804年 トレビシックが高圧蒸気機関車を発明
・1807年 フルトンの蒸気船が運行
・1838年 モールスが電信の送信実験に成功
・1859年 油田が開発され、石油の量産が始まる
・1876年 ベルが電話を発明
・1879年 エジソンが白熱電球を開発
 1800年代初期には、広大な領土の開拓に要する時間的距離を、電信、電話の情報通信技術と鉄道、蒸気船によって短縮した。また鉄道建設に必要な大量の鉄生産は、アメリカ全産業生産力の飛躍的向上つながり、やがて大量生産・大量消費社会を誕生させていった。古くからの慣習や既得権が存在しないこともあり、能力主義と自由競争が進展して、資本主義が根付いた。
 列強各国は、「国力をつけたアメリカが、遠くない時期に強引な手段で日本との国交を開くであろう」と見守っていた。
 発展したアメリカが、強力な艦隊を日本に派遣することになるには、時代背景を映す三つの事情があった。

◇日本へのアメリカ艦隊派遣の背景にある三つの事情

①イギリス・ロシアに対する対抗意識
・アメリカは、メキシコ戦争(1846年~1848年)でカルフォルニアを略奪、さらに賠償金の代わりにニューメキシコを取って、西海岸に太平洋進出の拠点を確保することが出来た。
・これにより将来的な太平洋航路の開拓が必然となった。その最も有利な航路として、西海岸を北上し、アリューシャン列島と千島列島沿いに南下、津軽海峡経由で日本海に出て、清国の上海に達するという大圏コースがあった。このため、津軽海峡に面した箱館に補給拠点を置くことが望まれた。
・メキシコ戦争の勝利により、メキシコ湾艦隊の必要性が薄れ、予算を大幅に獲得して東インド艦隊(1866年にアジア艦隊に改称)を増強する必要が生じた。
・アメリカは、日本に対してメキシコの時のような戦争を起こすとイギリスの強い反発により太平洋横断航路計画での補給地確保が不可能になることを恐れ、日本とは戦争を避け、問題を平和的な処理に委ねようとした。
・13代大統領フィルモアは、ペリーの訪日にあたって「自衛の為以外は軍事力に訴えてはならない」と厳命している。平和的処理を基本として他国に先駆けて通商条約を締結しようとしたが、これは、新興国として他国との競争に負けまいとする焦燥の表れであった。
・後に駐日公使となるタウンゼント・ハリスは「我が国の外交方針は、日本を他国の支配勢力から守ることにあり、それが東洋におけるアメリカの権益を擁護することになる」と述べている。

②捕鯨業との関連
・アメリカの膨張気運を背景に、街灯や家庭のロウソク、機械の潤滑油、石鹸などの原料となる鯨油、とりわけマッコウ鯨油の需要が増大した。
・アメリカ捕鯨船が南米ホーン岬を迂回してチリ沖にマッコウ鯨を発見したのは1791年で、その後アメリカ北西海岸沖を漁場としていたが、やがてその資源は獲り尽くされてしまった。
・1819年、中国とサンドイッチ諸島(ハワイ)を結ぶ商船が日本近海にマッコウ鯨の大群を発見すると、捕鯨船は北東アジアに続々と入り込むようになった。続いて1843年(ペリー来日の10年前)には、オホーツク海に大漁場が発見された。これにより捕鯨漁が一段と発展した。1840年~60年頃までの20年間が黄金時代で、特に1844年~53年の約10年間が最盛期だった。
・捕鯨漁の隆盛を可能にしたのは、造船術や航海術の進歩により大型捕鯨船が建造されたことと捕鯨銃(モンブラン銃)の発明があったからである。
・鯨の皮下脂肪を煮て油を採る「精油かまど」を甲板に備え付けた捕鯨船は、寄港先で物資を調達しながら、母港に帰らず2年前後にもおよぶ航海を続けた。
・鎖国体制下の1840年代半ばの日本近海には、年間300隻以上の捕鯨船が出没し、マッコウ鯨だけでも年間約7000頭が捕獲されたという。マッコウ鯨の捕獲数が多いのは、シロナガス鯨は死ぬとすぐに沈んでしまうが、マッコウ鯨は頭部に約4トンの脳油があるため死んでもすぐに沈まず捕獲しやすかったからである。
・ピーク時の1846年の統計では、アメリカ全港から1年に延べ736隻(総トン数23万トン、従業員7万人)の捕鯨船が各海域に出漁して、年間約1万4000頭を捕獲、イギリス、ドイツ、フランスなどをはるかに凌駕し、世界一の規模に達していた。
・ハワイのホノルルは、捕鯨の好漁場の日本近海へ出漁する約300隻の捕鯨基地として活況を呈し、1850(嘉永3)年には、86隻の黒船が松前沖を通過している。
・日本近海では、外国捕鯨船が増加するに伴い、荒天による遭難や薪水、食料を求めて上陸するなど、鎖国中の日本とトラブルが多発した。対策に苦慮した幕府は、1842(天保13)年、異国船を排除する「打払い令」(1825年)をあきらめ、異国船に薪水を与え、すみやかに退去を求める「天保の薪水給与令」を発布した。
・1830年代から40年代にかけて、アメリカ船の来航は、主な物だけでも7件を数える。
・これらの来航事件で、長崎に護送され入牢した者たちには、幕府は人道上手厚い保護を行ったが、一方で「日本に抑留中、囚人のような虐待を受け、うち1人が脱走を企てて虐殺された」「遭難者は重罪人のように劣悪な牢に入れられ、中には撲殺されたり、キリスト像を踏みつけることを強制されるなど野蛮で非人道的な扱いを受けた」など事実無根の記事がハワイ新聞に掲載されたため、アメリカ全土を憤慨させて対日感情が一気に悪化した。それまで、日本は文化度が高く、国民性も優雅だと考えていたアメリカ人だったが、次第に反日感情をともなう世論に変わっていった。
・特に捕鯨業界・海運業界は、政府に対して、貿易問題よりまず第一に、難破したアメリカ人乗員に対して種々の救援活動を行うよう、日本国に何らかの強制措置をとるべき、と強く訴えた。
・これまでの日本の不満足な対応に対して、アメリカ政府は、日本の鎖国の扉をこじ開けるべく、黒船の派遣を決定した。
※鯨油と石油
 油田がカリフォルニアで最初に発見されたのは、1847年。 しばらくは、鯨油と石油が併用されたが、その後油田開発が活発化し、1860(万延元)年頃から石油が鯨油にとって代わり、捕鯨業は急速に衰退した。

③太平洋航路の開設計画
・アメリカは、メキシコ戦争の勝利で獲得したカルフォルニア、ニューメキシコ、テキサスの3州に加え米英条約でオレゴンを領有して、太平洋進出の道が開けた。
・太平洋沿岸の地域は新天地として注目され、移民が続々と押し寄せた。
・1847年のカルフォルニア油田の発見、翌年の金鉱発見後のゴールドラッシュ、1864年の電信網の新設、1868年の大陸横断道路と鉄道など国勢は驚くほど膨張を続けた。
・その頃のアメリカは、紡績・紡織工業の発達したイギリスに大量の綿花を輸出していた。イギリスは、それを製品に加工し、中国ほか海外に輸出していた。
・アメリカは1791年以降、綿花の自国加工製品化に力を入れ、最初はメキシコを主な輸出先としていたが、1840年代には中国が最大の輸出先となり、1844年に米清通商条約を結んだ。これにより、中国市場をめぐる英米の資本主義競争が一段と激しさを増した。
・喜望峰を回りインド洋を経て中国(上海・広東)に至るには蒸気船でも百数十日かかっていた。
・対して、太平洋横断航路を開設して中国に直行出来れば、カルフォルニア―上海間(大隅海峡経由1万730㎞)の所要日数は、補給寄港日を入れても30日前後と大幅に短縮され、ヨーロッパ各国との競争に優位に立つことができることは明らかだった。
・しかし、そのためには途中で薪水、石炭、食料の補給が必要で、その補給中継線として、北航路では箱館、南航路では小笠原諸島、琉球(沖縄)が最適地であるとされた。

◇遣日使節団
・遣日使節団の指揮官には、メキシコ戦争で活躍したM・C・ペリー海軍少将が任命された。1852年11月24日、フィルモア大統領の大命を受けたペリーは、ミシシッピ号(満載排水量3230トン)に乗り、ワシントンに近いチエサピーク湾のノーフォーク港を出港した。
・ペリーは、海軍長官ウィリアム・グラハムに提出した日本遠征の基本計画について、次のように述べている。「任務の成功のためには4隻の軍艦が必要でうち3隻は大型の蒸気船であること」「日本人は書物では蒸気船を知ってはいても、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるであろう」「中国人の時と同様に、日本人に対しても恐怖に訴える方が、友好に訴えるよりも多くの利点があるだろう」「オランダが妨害するすることが想定され、長崎での交渉は避けるべきである」
・また、航海途中の太平洋マディラ島から海軍長官ケネディにあてたペリ―の書簡には「日本政府が要求を容れず武力と流血を伴う事態になれば、日本を攻撃する足場として、南方諸島(琉球諸島)に一二カ所の根拠地を占領したい」と書かれ「幸い日本諸島およびその他の太平洋諸島は、非良心的な政府(イギリス)に手をつけられないで残されている。しかもそれらの諸島のあるものは合衆国にとって大変重要となる通商路上(カルフォルニアと中国の間)にあるので、すぐさま充分な数の避泊港を獲得する為、積極的処置をとるべきである」と記している。
・ペリーの気負い立った姿勢には、偉大な海洋上の競争者(イギリス)に対する挑戦の決意が込められていた。
・アメリカは、前年に国書(大統領親書)を携えた使節を強力な艦隊で日本に派遣することを各国に公表していた。オランダは、今回のアメリカの使節派遣はオランダの対日権益を脅かすばかりでなく日本の存亡に関わる恐れありとして、この公文書を長崎出島(1634年築造)に駐在する商館長ドンケル・クルチュウスに伝えた。
・公文書は長崎奉行から直ちに江戸に送られた。これには、日本に派遣される艦隊の規模、使節の目的についても、「ペリー来航の目的は平和的に日本と通商関係を結ぶことにある。  一方、ヨーロッパが大規模なクリミア戦争突入寸前であることと、蒸気船の発達により航海が飛躍的に容易となり、そのため日本も世界の通商圏に組み込まれ、これを排除するのは紛争の種になる」と記されていた。オランダは、日本が欧米各国と貿易の道を開くのが最善の方法である、と勧告した。
・しかし、この公文書のペリー来航予告情報は、幕府内で奉行レベルまでの上層部の極秘扱いにされた。幕府内では、異国船を拒否して打払うべしとする鎖国維持論が主流を占めていたからである。
・老中首座阿部正弘は、アメリカに対抗できるだけの海軍を持たない日本が、なんとか軍事対決を避けるためには、外交で対処するしかないと決意していた。
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2.膨張するアメリカ経済と対日政策

◇使節ペリー、黒船4隻で鎖国の夢破る
・アメリカ東インド艦隊司令官長官兼遣日特使という広範な権限を大統領から与えられたペリーは、特命全権大使に相当するものだった。
・ペリーは、航海途中の上海でミシシッピ号から最新鋭の蒸気外輪船旗艦サスケハナ号(満載排水量3824トン、備砲15門、乗員300人)に旗艦を移した。旗艦を含む軍艦4隻(蒸気船2、帆船2)の艦隊には、総員988人のうち、海兵隊員500人余りが乗り込んでいた。
・対して、日本の和船は、千石船でも150トン、最大級の1600石船でも240トン(乗員20人)しかなく、陸上に据えられた旧式な大砲と不十分な砲弾という武装力は余りにも貧弱なものだった。
・ペリーは、琉球、小笠原諸島を視察した後日本に向かい、伊豆沖で巨艦4隻が臨戦態勢を布いて江戸湾を北上し、1853年7月8日(旧暦・嘉永6年6月3日) 浦賀沖に投錨した。
・艦隊は艦首を江戸に向けて一列縦隊に並び、10キロの広さを射程におさめた砲口が浦賀を睨みながら戦闘陣形を組んで碇泊した。
・翌日のアメリカの国書受け渡しの際、幕府はのらりくらりの「ぶらかし策」で頑なに受け取りを拒否した。
・フィルモア大統領から発砲厳禁の命令を受けていたペリーは、強力な軍事力の存在を誇示することで交渉を有利に進めたいと考え、艦隊の軍事能力を見せつけるため、「江戸湾奥の将軍の住む江戸城が見えるところまで軍艦を走らせるぞ」と日本側を揺さぶった。
・浦賀奉行から報告を受けた老中首座阿部正弘は、これ以上のぶらかし策は無理と判断し、7月14日、とりあえず国書だけは受け取ることにした。国書には、アメリカ船の遭難者に対する救助と保護、薪水・石炭・食料の補給とその港の開放、開国と貿易の要求が記されていた。
・国書のほかに、恫喝に近いペリーの将軍宛の書簡があり、内容は「貴国が今後とも合衆国の漂流民を虐待し続けるなら、我々はその野蛮な行為に対して断固鉄槌を下す用意がある。 予は友誼的意思を示す一証として比較的小型の軍艦4隻を率いてきたが、来春は一層強大な艦隊で江戸に帰還するであろう」というものであった。
この手法は、砲艦外交と呼ばれるもので、ペリーの腹の底を表わすものだった。
・この来日は、開国要求のみで具体的な交渉には至らなかった。幕府から交渉再開を翌年まで猶予することを求められたペリーは、食料などの艦隊事情もあって10日間の停泊を終え、7月17日朝、浦賀沖から琉球に向かった。
・黒船帰帆の報を聞いた阿部は、戦いにならずに事を納めたことに安堵するとともに、アメリカ艦隊の圧倒的な軍事力からみて、日本は遠からず開国の道を歩まざるを得ないであろうと受け止めていた。
・幕末の狂歌
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず アメリカ来ても 日本は恙(つつが)なし」
※上喜撰は、宇治の高級緑茶「喜撰」の上物と蒸気船。恙なしは、無事と大砲の筒がなし。

◇老中首座阿部正弘の苦悩と決意
 ペリーの離日後、阿部はアメリカが回答を求めて再航した時にどのような態度で臨むべきか苦慮し、国書の写しを老中以下諸大名や幕府官僚に示し、対応策について諮問した。
・このような重大な情報を公開し諮問することは、これまでの幕政で例のなかったことで、結果として国民全体が危機意識を持つことにつながった。
・これが新しい雰囲気を醸成し、新情勢に対応する人材登用と相まって、体制内部における改革傾向の出発点となった一方、幕府の独裁体制が崩れ出し、激動の幕末が始まった。それまで伏在していた幕府の内政・外交の弱点が露呈し、250年におよぶ徳川幕府は、短時日の間に倒れていく。
・開国について盛んに議論されたが、老中や諸侯の大勢は「旧来の祖法(鎖国令)を守り、断固要求を拒否すべき」という現状維持賛成派であった。
・海防掛参与の水戸藩主徳川斉昭の意見は、即刻打払えではなく、広く外様大名に聞いて決めるしかないというものだった。
・筑前藩主黒田斉慱(なりひろ)や幕臣堀田利煕(としひろ)、川路聖謨(としあきら)、向田源太夫、勝麟太郎、高島嘉平(秋帆)ら「武力対決など論外で、開国して諸外国と交易すれば、日本に多くの経済的利益をもたらし、日本の国益にかなう」と主張する開明・改革論者はごく少数派だった。
・阿部は、日本の貧弱な防備体制のままでは、圧倒的な近代軍事力を有するアメリカに勝てるはずもなく、かといってアジア諸国と同じ道を歩むことは出来ず、危機感を募らせた。
・また、攘夷思想派を放置すると、ペリー来航の時、発砲など戦闘行為を行う危険性があると判断、オランダ商館からの情報などは一切極秘とした。
・老中首座として悩む阿部は、国政を幕府単独ではなく、諸大名や幕臣の合議制で決定しようとしたが、良案は得られなかった。開国について明確な返答は出来ないと腹を決めた阿部は、アメリカと戦闘状態になった時に備えて、防備を強化するよう号令した。
・7月に佐賀藩に大砲鋳造を命じ、9月には大船建造を解禁した。11月にスクリュー式蒸気船2隻(後の咸臨丸、朝陽丸)をオランダに発注、12月には水戸藩に大船建造を命じた。また、伊豆代官江川太郎左衛門の進言を入れ、財政難にもかかわらず台場の構築や大砲の鋳造などを急速に進めた。
・阿部の公議興論の考えは外部に広がり、結果として後に幕府の権威を下げることになった。

3.ペリーの再来日と日米和親条約の締結
 ペリーが2回目の訪日準備に入った頃、アメリカでは大統領がフィルモアからフランクリン・ピアース(民主党)に、海軍長官および国務長官も代わって、対日方針も変った。新任海軍長官ドビンは、ペリ―に対して、日本の不親切で非社会的な制度を放棄させ、友好通商条約を締結する為、名誉ある合理的な努力を傾注すべき、とし開国と通商に重点を置いた訓令を出した。国務長官マーシーも、アメリカ人居留民の生命・財産・活動の保護こそ最重要の活動であり、この重要目的に奉仕するのがアメリカ海軍の任務である、と指示した。以上の事から、アメリカは戦争を可能な限り避けようとしていた。
・しかし、ペリーの基本方針は砲艦外交であり、戦争を絶対に避けようとしていたわけではない。「ペリー日本遠征日記」にも、武力に訴えて上陸するという問題は、今後起きる事件の進展により決定する、と明記されている。ペリーは、日本遠征を成功させて軍人としての名を残そうという意欲に燃えていた。

◇日米交渉
 1854年2月13日(旧暦嘉永7年1月16日)、ペリー艦隊の旗艦ポウハタン号ほか9隻が江戸湾内に入り横浜の小柴村沖に投錨した。
・両国の交渉は、まず会見場所を巡り紛糾した。日本が浦賀を主張しアメリカは江戸での会談にこだわった。
・業を煮やしたペリーの威嚇行動が幕府に衝撃を与え、ようやく碇泊前の横浜という寒村で行うことになった。
「ペリ―の要求をすべて受け入れなければ開戦必至」との現地情報に城中の議論は沸騰、徳川斉昭は通商要求の受け入れに強硬に反対した。3月5日のポウハタン号での会談では、ペリーは、要求が拒否されれば直ちに戦争をする用意があると、脅迫した。
・3月8日の横浜での会談では、日本側は、林大学守(林羅山から数えて11代目の儒学者、後に昌平校塾頭。林家は代々、朝鮮通信使の応接にあたる)、井戸対馬守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎、浦賀奉行井沢美作守が交渉を受け持った。日本側通詞は、森山栄之助。アメリカ側はポートマンで、オランダ語が使われた。記録は、オランダ語と中国語と決められていた。
・「遭難者の手厚い待遇、貿易港の1か所提供、薪水・食料・石炭の供給はするが、通商は承知できない」との日本側の返答を聞いたペリーは、強硬な脅しの態度を見せたが、林たち応接掛の冷静な反論に落ち着きを取り戻し、「遭難者を厚遇し、薪水・食料・石炭などを与えるのであれば言うことはない。今日以降それを遵守願いたい」と答え、第1、第2の要求事項は了解点に達した。
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 以上が本日の講座の概要ですが、鯨を求めるアメリカの事情と遭難者の救済と補給所の必要性から発した日本への要求の必然性が良く分かるものでした。次回は、いよいよ最終回です。

 最後に、受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「今回も大変楽しい講座でした。断片的に知っていたことが今日のお話でかなりつながったように感じました」
「日本開国の歴史・・初めてこの頃の状況、世界の動向の一端を理解した気持ちです。自分は全く分かっていなかった・・という意味でこの度の講座は大変有意義で楽しく学ばせて頂きました。分かりやすい言葉、お話の仕方で身近に時代を読めることに感謝しています」
「マッコウ鯨が重要視された理由が脳油であることを教えていただきありがとうございました。石油と鯨油の経過もよくわかりました。ペリーの性格を表す文も随所に入れていただいたのも、開国までの緊張感が伝わってきました。次回もとても楽しみです」
「開国時の経過がドラマチックに展開されていておもしろかったです」
「本日は、これまで何故と思っていたことが実に判りやすい説明でのお話、本当に良かったです。ありがとうございました」
「日本開国史の歴史的なお話が大変面白くなってきました」
「ペリー艦隊の来日、開国への交渉など詳しく説明していただき、良く理解できました。ありがとうございました」




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