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主催講座11「ラッコと鯨が招いた日本開国史~北からの黒船、開国を迫る~」第2回「ロシアのラッコ猟問題から始まった日本開国史(その2)」

2023/11/15

 11月11日(土)、主催講座11「ラッコと鯨が招いた日本開国史~北からの黒船、開国を迫る~」の第2回「ロシアのラッコ猟問題から始まった日本開国史(その2)」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、ノンフィクション作家で北海道史研究家の森山祐吾さん、受講者は37名でした。

 森山さんは手話で挨拶をされた後、前回の講座の振り返りから始められました。
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◇前回のまとめ
①大航海時代
ヨーロッパ各国―未開地の植民地化と原住民の奴隷化。物資の略奪。
ロシア―1497年~1861年の364年間農奴時代。全人口約6000万人のうち農奴2250万人(38%)。
②ロシア皇帝の訓令
・ピョートル一世:漂流民伝兵衛の話を聞き(1702年)、日本に関する訓令を発する。
・エカテリーナ二世の訓令(1728年):ベーリング大佐とシュパンベルグが海峡とラッコの大生息を発見。
③外国船の接近
ロシア商人の根室上陸(1778年)。イギリス、フランス船の接近(1778~1797年)。赤蝦夷風説考(1783年)。
④幕府の対応
・天明の調査隊(1785~1786年):ロシアの得撫島拠点の確認(最上徳内)。
・択捉島と得撫島との線引き。
・クナシリ・メナシの乱(1789年)。
⑤ロシア使節
・ラクスマン:根室来航(1792年)
・レザーノフ:長崎来航(1804年)
・幕府の拒否
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 前回を振り返った後の本日の講座は、資料の項目番号4番から始まりました。
 以下は、その概要です。
4.ロシアの襲撃事件と秩序回復の模索
◇ロシア軍艦の樺太、択捉襲撃
・この時期、ラッコ猟に取り組む露米会社の命運は、食料確保にかかっていた。
・対日使節団長のレザーノフは、日本との交易が不可欠なことを改めて認識し、頑なな幕府の姿勢を崩すため、樺太と択捉島の攻撃というショック療法を選択した。
・1806年、ロシア船2艦は、樺太のクシュンコタン(大泊)にある松前藩番所を襲撃、番屋や倉庫を焼き払い4人を捕虜とした。
・1807年4月、両艦は択捉島を襲撃、番屋を焼き払い、1人を連れ去った。さらに、シャナ(紗那)の幕府会所を攻撃した。警備の仙台、津軽藩士は応戦したが耐えきれず逃げた。捕虜となった10人のうち8人は樺太沖で釈放された。
・その後、利尻島に上陸、停泊していた2隻から積み荷を奪うなどした。
・この襲撃事件の情報は、夏になってようやく幕府に届けられた。
・大国ロシアへの危機感を強めた幕府は、西蝦夷地を含めて蝦夷地全域を松前藩から上知(あげち・召上げ)して直轄地とし、幕府の出先機関として箱館、松前に蝦夷奉行(のちに箱館奉行、松前奉行と改称)を置いた。
・松前藩は知行高1万石から5千石に減封、陸奥国梁川(福島)に移封された。
・幕府は、蝦夷地全域の警備のため、津軽、会津、仙台、秋田、庄内各藩4100人の出兵を命じ、ロシア船打払令を出した。
・レザーノフの行為は、日本側の反感を買って裏目となり、日本国内では対ロシア恐怖症が広まった。儒学者で西洋学にも通じた中井履軒は「ロシア船が来たら断固大砲で打払うべし」と述べている。
◇日本の勢力範囲の確定
 幕府は、日本の勢力範囲を確定させる必要に迫られ、北方の状態が不明確な樺太を調査するため、1808(文化5)年に松田伝十郎と間宮林蔵を派遣した。
・間宮林蔵は、鎖国の禁を破って単身で大陸に渡り、アムール川下流の清国の交易所「デレン」に至り、ここでは樺太アイヌや沿海州の多様な民族が集まって清国と盛んに交易(山丹交易)を行っていることを見届けた。
・林蔵は、帰路の1809年に樺太が半島ではなく海峡(間宮の瀬戸)によって大陸と隔てられた島であることを発見した。この発見は、北方における地政学上の空白地域を明らかにしたもので、世界的快挙と称賛された(ロシアの探検家ネヴェリスコイがこの海峡を追認するのは40年後)。
・その後、幕府はロシアの脅威が収まったとして、1821(文政4)年、蝦夷地の領主権を再び松前藩に返した。
・以降約40年にわたって、日露両国関係は表面的には平穏な時期が続いたが、これはロシアがナポレオン戦争と戦後処理で、極東での日本との関係に係る余裕がなかったせいであった。
◇ゴローニン艦長の幽閉と高田屋嘉兵衛の拿捕事件
・1811(文化8)年、ゴローニン少佐を艦長とするロシア砲艦ディアナ号は、航海の途中で食料と飲料水補給の必要から国後島南西端の沖合に停泊し、ゴローニンら7人が上陸した。ところが7人は、現地警備の仙台藩兵に捕縛され、その後全員が箱館に送られて、松前郊外の牢に幽閉された(2年3か月)。
・ゴローニンの代わりに艦長となった副艦長のリコルドは、ゴローニンの安否を確かめる為、択捉島沖合を通りかかった高田屋嘉兵衛ら4人を捕らえてペトロパブロフスクに連行した。
・嘉兵衛は、フヴォストフ事件はレザーノフの私怨によるものでロシア政府のあずかり知らぬ事であるとの証明書とゴローニンらの釈放請求を取り寄せる事が唯一の解決策である、と提案。リコルドも同意した。
・2年後の1813年、嘉兵衛が提案した解決策でロシア(リコルド)と幕府が合意、ゴローニンと嘉兵衛の交換が実現した。この問題が解決したのは、幕府の立場を理解していた嘉兵衛、リコルドの友好・信頼関係、現地で交渉した幕吏の柔軟さ、通詞の活躍などによるものだった。
・5年にわたる1806年のフヴォストフ事件と1811年のゴローニン事件は、幕府にオホーツク海域における日露両国の国境問題の存在を強く意識させる事件となった。ゴローニン事件の解決で、秩序が一応回復したことから幕府は前述のとおり、1821(文政4)年に蝦夷地直轄を廃止した。
◇ロシアのアメリカ、イギリス勢力への対抗
・18世紀後半にイギリスで起こった産業革命は、19世紀初頭にはヨーロッパ各国で起こり、各国は急激な成長を遂げた。 これに伴い都市の街灯油や工業機械の潤滑油として、鯨油の需要が急増した。
・アメリカは、建国(1776年)、産業革命、南北戦争(1865年)を経て国力が増大、これに対応するため鯨油を求めて日本近海を北上し、オホーツク海域に多数の捕鯨船を派遣していた。 捕鯨船を効率よく運行するために、小笠原に補給基地を設けるだけでなく、日本に対して開国を求める計画を実行し始めた。
・ロシアも、捕鯨業に対するカムチャッカ半島の新しい可能性を模索するようになった。
・ロシア・清国間で、国境画定と通商規定を結ぶネルチンスク条約が締結(1689年)され、ロシアにとってこれまで清国に阻止されていたアムール川流域への進出が急務となった。これは、従来の毛皮の獲得を目的とした動きとは異なる動きであった。
・ニコライ一世により東シベリア総督に任じられた外交官ムラビヨフは、現地調査を踏まえて、海軍の拠点をオホーツク港からカムチャッカ半島のペテロパブロフスク港に移した。
・ロシア政府の命を受けたネヴェリスコイは、1849年アムール川河口付近を探索、樺太が大陸とは陸続きではなく島であることを明らかにした。その結果、ペテロパブロフスクからアムール川へ至る道筋として、冬は凍結するオホーツク海北部を通らず、通年凍ることのない間宮海峡を北上するルートが可能となった。
・但し、間宮海峡は浅いので、喫水線が15フィート(約4m)以下に制限された。
・ネヴェリスコイは、1851年にアムール川河口に都市ニコラエフスクを建設し、一帯の海域を支配下に収めた。これ以降ロシアの樺太への関心が急速に強まった。
・1853年、ネヴェリスコイは日本人が住む国後島トマリ(泊)を一時占領した。これは、日本人が漁業・交易の拠点とするトマリと樺太のアニワ湾を占領すれば松前藩の打撃は大きくロシアとの交易を求めてくる、と考えたからである。
・また、ネヴェリスコイは、アメリカがこの地を占領すれば、アメリカは樺太及び日本に強い影響力を行使することになるだろうと、政府に通告した。樺太は石炭が豊富という魅力もあることも述べている。
・ロシアは、新たな競争相手として北太平洋海域に登場したアメリカの動向に神経をとがらせ始めた。
・1852年(ペリー来航前年)、ムラビヨフは、コンスタンチン大公あての手紙で、近々アメリカは日本に武装蒸気船の船団を送る予定であるという情報を伝えている。
・一方、南シナ海海域では、イギリスが東アジアに進出するネットワークを整えつつあった。自由貿易を掲げたイギリスは、アヘン戦争(1840~1842年)に勝利し、清国と南京条約を締結した(1842年)。これによりイギリスは、ベンガル湾カルカッタ、マラッカ海峡シンガポール、広州湾香港という動脈をつくり、上海など5港の開港により、東アジア世界の中心部を形成するまでになった。
◇使節プチャーチンの日本派遣
・1852年、ロシア皇帝ニコライ一世は、海軍中将プチャーチンを全権大使とする使節団の日本派遣を決定した。プチャーチンは、アヘン戦争による清国開国直後に、東アジア情勢の変動に対応する必要性を皇帝に進言するなど、国際情勢特に東アジア情勢に通じた人物であった。
・使節団の使命は、日露国境の画定、対日通商条約の締結、南京条約による清国の5港開港へのロシアの参入、東アジア及び北太平洋の情報収集、各国捕鯨船団の状況調査などであった。
・この時期のロシアの最大の問題は、キャフタ条約(1727年)以来、キャフタで行っていた茶葉を中心とする陸上貿易が、アヘン戦争後、イギリス、フランス、アメリカ3か国による5港開港にともなう海上貿易の完全自由化で壊滅的な打撃を受けることが明白なことだった。
・船で欧米から運ばれてくる安価な商品にロシアは対抗できず、東アジアでの新しい戦略を立て直す必要があった。そこで、中国に代わって目をつけたのが日本の市場だったが、日本参入にはアメリカとの激しい競争が待ち受けていた。
・かってレザーノフの訪日は、露米会社の利益を第一に考え、新鮮な食料品の確保を求める通商を最重要課題としていたが、プチャーチンの戦略は、懸案の「国境画定」を先行して解決し、その後に通商条約を進展させることを最重要課題とした。つまり「国境画定なくして通商なし」との判断だった。
・この頃の露米会社は、ラッコ資源が枯渇して消滅寸前の状態で、食料の確保は主要な外交問題ではなくなっていた。
・英仏蘭米の進出で東アジアの情勢は緊迫し、ロシアは東アジアで確固たる地位を築く必要があった。それは、東シベリア開発のためにも必要だった。モスクワから数千キロ先のキャフタまで膨大な物資を供給し続けることは不可能で、東シベリアは自力で経済的基盤を築かなければならなかったからであった。
・短い期間に時代は大きく変化し、ロシアにとって、将来予測されるアメリカのオホーツク海および北太平洋への進出に対抗できるような有利な条件で日本との国境を画定することが緊急課題となった。同時に、東シベリア開発の生命線であるアムール川流域で、清国との国境をどのように変更し得るかをも模索していた。
◇プチャーチン、長崎交渉に大いに不満を抱く
・1852年、アメリカはペリー艦隊を日本に派遣することを事前に各国へ公表した。
・ロシア政府も同年10月、海軍中将プチャーチンを全権使節として大砲52門を備えた旗艦パラルダ号を日本に派遣した。皇帝ニコライ一世は「日本には敵対行動を控え、話し合いと平和的手段で目的を達するよう努力すべし」との訓令を出した。
また、艦隊派遣に先立ち、オランダ領東インド参謀官シーボルトから日本の情報を詳しく聞き取った。
・旗艦パラルダ号は、ペリーの浦賀来航の翌月、8月に長崎に入港した。
・幕府全権の筒井政憲(まさのり)と川路聖謨(としあきら)、通詞森山栄之助が交渉に当たった。
・ロシアは、樺太、千島の国境を定めた上で日本との交易の道を開きたいという願いで、条約締結を要求するため来航した。これが、「樺太・北方領土問題」の最初の公式交渉である。
・幕府は、ロシア艦隊がペリーとは違い日本の国法を尊重して長崎に来たこと、穏やかで威圧的でないことから国書の受け取りを決めた。
・その頃、クリミア半島では、トルコと同盟を結んだイギリス・フランスとロシアが戦争勃発寸前の緊迫した状態にあった。そのためプチャーチンは敵国となる英仏艦船の攻撃を避ける為、出来るだけ早く日本との交渉を進めなければならなかった。
・ロシア皇帝の国書は、江戸に到着後和訳され老中首座阿部正弘に提出された。
・国書の内容
国境問題―北方における露日国境、特に千島・樺太2島の帰属を明確にすべきこと。
通商問題―日本は速やかに鎖国政策を撤回し、交易を開始すべきこと。そのために最小限2港を開くべきこと。最恵国待遇の保証書の合意。
・プチャーチンは、日本の引き延ばし策で待たされた挙句、最恵国待遇の保証書を手にしただけの成果しかあげることが出来なかった。プチャーチンは、大きな不満を持ちながら再度の来日を告げ、翌年2月に長崎を出港した。
・国境問題は、1862(文久2)年に行われた遣欧使節団(団長竹内下野守保徳)の交渉まで持ち越された。
◇日露和親条約の締結
・ペリーが1854年3月31日に日米和親条約を締結したことを知ったプチャーチンは、クリミア戦争の敵国英仏艦がオホーツク海を出没する中、箱館と大坂を経由、幕府の指示で下田に入港、ただちに和親条約締結を要求した。
・老中首座阿部正弘は、ロシア再航の際は、アメリカ同様の許容を与えること、寄港地は下田、箱館、長崎の3港に限ること、薪水、食料、欠乏品の支給は認めるが国境問題の交渉は他日とする、ことを指示していた。
・開港場の3港は合意できたが、国境問題は最初から激論となった。プチャーチンは、前年の要求(樺太の全島領有)を譲らず交渉は暗礁に乗り上げた。
・5回目の会談で、択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領と定め、樺太は、境界を定めずこれまで通り両国混在とすることでようやく決着をみた。
・樺太を混在の地とする決定は、植民競争と衝突を招き、両国の難しい懸案事項として明治政府に引き継がれることとなった。
・幕府は、通商開始の要求については拒否した。
・1792年のラクスマン使節以来の日本開国と日露国境問題交渉は、通商条約を除いて62年ぶりに一応の決着をみた。
・1855年2月7日(現在の北方領土の日)、和親条約9条、附録4条からなる日露和親条約(下田条約)が締結された。
・条約締結の祝賀会席上、プチャーチンは「命ある限り、日本の御為悪しき事は致すまじ。樺太の事など少しも御心配あるべからず」と述べた。
・この言葉は、儀礼的言葉としても、外交に不慣れな日本の立場を辛抱強く見守り、紳士的で対等の立場を貫き通したプチャーチンの思いやりが込められている。
・この両国の信頼の上に、その後の「日露追加条約」、「日露修交通商条約」(1858年8月19日)は極めてスムースに締結することができた。
・条約交渉の裏には、「締結の前年、強烈な地震と津波で大被害を受けたデイアナ号が修理のための廻送中に沈没。幕府の手厚い救護と、ロシア船員と地元の大工が協力して小型帆船(ヘダ号)を造り、翌年の条約締結後、プチャーチンらはこの船でロシアに帰ることが出来た」というエピソードがある。
5.ロシア、千島列島を放棄しアムール川流域と樺太に重点を置く
◇樺太・千島交換条約の締結
 この時期の10年間のロシアは、めまぐるしく方向転換した。
・1855年の日露和親条約締結に続き、1858年、ロシアはアイグン条約で清国にアムール川以北の領土を割譲させた。
・1860年の北京条約では、清国と英仏の間を斡旋した代償として、広大な沿海州を清から獲得。沿海州の南部にウラジオストック港をつくり、新たに日本海への進出を狙った。
・1863年、露米会社を解散。
・1867年には、アラスカを含むベーリング海域の植民地の大部分を、720万ドル(1450万ルーブル)という超安値でアメリカに売却した。
・ロシアは、その打開策として、中国との交易を求めて、東アジアの海のネットワークを重視するようになった。その重要なルートとして位置づけられたのが日本海である。
・日本では、1868(明治元)年、大政奉還によって明治政府が誕生した。
・明治政府は、翌年7月に箱館府を改組して開拓使を置き、8月15日に蝦夷地を北海道、北蝦夷地を樺太とする新名称を定めた。
・1870年に開拓次官となった黒田清隆は、北海道の産業開発による国力充実を第一とし、日露混住でロシアが圧倒的勢力を誇る中、「樺太放棄論」を政府に提出した。
・1871年、黒田は開拓中判官の榎本武揚を海軍中将に特進させて特命全権公使に任じてサンクト・ペテルスブルグに駐在させた。
・榎本は、ロシア外務省と話を進め、1875(明治8)年、樺太・千島交換条約に調印した。
・当時のロシアは、すでに清国からアムール川左岸と沿海州を奪い、樺太は重要な戦略的位置を占めるようになっていた。北千島のラッコ猟は、アメリカ人、イギリス人などの密漁が横行し、かってのようなロシア人による毛皮貿易の独占状態は崩壊していた。
・このような時代変化の中で交わされた「樺太・千島交換条約」は日本側に多くの不満を残したものの、当時の両国の力関係ではやむを得ないものであった。
◇オホーツク海における日露の住み分け
「樺太・千島交換条約」は、日本では樺太をロシアに譲り渡す屈辱的条約として非難され、ロシアには、オホーツク海に閉じ込められて太平洋への出口が塞がれてしまったという懸念が残った。
・樺太は、全島がロシアの支配下に入り、アニワ湾一帯に居住するアイヌ人841人は、北海道に移住した。
・ロシアは、樺太をウラジオストック港の海軍提督下に置き統治したが、1879年にはハバロフスクの軍務知事に移管された。
・1880年以降は、島内に6カ所の監獄を設け、25年間3万人以上の流刑植民を移住させ、開墾、道路建設、炭鉱など強制労働を課した。このようなロシアの行動は、樺太を実効支配することにより樺太からの日本人排除を狙ったものだった。
・日本領土となった全千島列島は、1945(昭和20)年の日本敗戦まで70年間にわたり統治したが、ラッコなどの海獣猟はほとんど行わず、サケ・マスなどの漁場としてのみ位置づけられてきたため、その間に海獣は米英露人の密漁者によって獲り尽くされてしまった。
・北千島は、日本では「無用の地」とみなされてきた。
・その後、ロシアは、アムール川流域と樺太の開発・植民に重点を置いたが、遅々として進まなかった。
・ロシアにとって、清国の東北地方を縦断して、1898年に租借した遼東半島の旅順、大連に至るネットワークを構築し、東アジア市場と海上輸送によって直接結びつけることが大きな課題となった。
・日本は、北海道の開拓に重点を置き、千島列島まで手が回らなかった。千島列島の開拓が軌道に乗るのは、根室、釧路の開発が一段落した1935(昭和10)年前後だが、この時期は日中戦争から太平洋戦争へと走り始める直前の時期にあった。
6.おわりに
 歴史を振り返ると、千島列島の南部に日本の存在を知ったロシアは、シベリアの開発・発展のために日本との交易を期待し、長い間国交樹立の努力を続けてきた歴史がある。日露関係の歴史は、千島列島を経由して始まり、健全に発展すれば両国の友好の道となるべきものであった。
 しかし、第2次世界大戦後、千島列島をめぐる「北方領土問題」によって日露の政治・経済の協力は大きく阻害されており、ロシアのアジア進出にとっても負の遺産となっている。
 長い不況に見舞われたロシアは、日本の経済協力に期待を示していたが、その後、石油価格の高騰により経済が回復するにつれ、日本の協力を期待せずに独自の南千島開発や島内の軍備を進めている。
 一方、日本では北方領土旧島民の高齢化が進み、国民の少子高齢化によって国力にも衰えが見られるにつれ、様々な北方領土問題解決の方策が模索されてきた。
・2013(平成25)年に安倍政権下で策定された従来の安保戦略は「ロシアとあらゆる分野で協力を進め、北方四島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」とし、日露双方の従来の主張は別として、互いに「受け入れ可能な解決策」を求めれば、中間的な解決に達することもあったかもしれない。
 しかし、2022年2月24日のウクライナへのロシア侵攻は、世界に強い種撃を与え、いつ終わるともしれない長期戦に陥っている。このため、日露両国の懸案問題はさらに深刻化して、今日では外交交渉の全てが棚上げになってしまった感さえある。
 同年12月16日に閣議決定された外交・防衛政策の基本方針「国家安全保障戦略」など安保関連三文書では、北方領土交渉を「精力的に行っていく」ことや「日露協力の進展」をうたっていた従来の戦略の記述が削除されてしまった。
 改定した戦略では、ウクライナ侵攻を続けるロシアが、日本周辺でも軍事活動を活発化し、北方領土で軍備を強化していると指摘。特にオホーツク海がロシアの核戦力の一翼を担う戦略原子力潜水艦の活動区域となっているためだとしている。
 ロシアは、対露制裁を発動した日本への対抗措置として、平和交渉を拒否し、北方領土とのビザなし交流と自由訪問に関する政府間合意を破棄した。
 ロシア・ウクライナ戦争が長期化する中で、日露両国の平和条約交渉は戦火が収まるまでの間、しばらくは難しい情勢に立たされると思われる。
 最大の懸案の「北方領土問題」が、今後どのように展開していくかは誰にも分からないが、それが続く限り日露両国の間に真の友好は達成されないであろう。
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 以上が本日の講座の概要ですが、2回の講座で、日露両国の長い交渉の歴史が詳細に紹介されて大変参考になるものでした。受講者からも、素晴らしい講座だった、との言葉が多く寄せられました。

 最後に受講者のコメントをいくつかご紹介します。
「幕末期における日本を取りまく国際情勢、特にロシアとの関係をについてこれまで断片的な知識しかなかったが、今回の講義でかなり理解できて良かった」
「1回目からの復習から入った講義はとても流れがスムーズ。物忘れの多い私にはとてもよかったです。ホワイトボードとテキストとの両方を使った講義は私好きです。これからもよろしくお願いいたします」
「学びの熱さを感じる講座でした。自分の個々の知識がつながり、大きな流れとして日露関係史がつかめるようになった。特に露寇事件の背景がロシアの事情と日本の事情によって起きたその事情が分かりました」
「ロシアが日本に開国を迫ってきた歴史的な流れを深く学んだ事がありませんでした。今回の講座で学ぶことが出来て嬉しかったです」
「楽しく分かりやすい講座。興味深い時代です。もう少し勉強していきたいと思います。当時の一人一人の人物について掘り下げて全体の歴史をみてみたいと思いました。資料と解説、大変良く理解できました。明るい中で何かなつかしい授業を受けている気さえしました。先生のユーモアあふれるお話、よかった!」
 




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