いしかり市民カレッジ

トピックス

トップページ トピックス 主催講座8「石狩歴史散歩」第1回「厚田の歴史遺産巡り」


トピックス

主催講座8「石狩歴史散歩」第1回「厚田の歴史遺産巡り」

2023/08/30

 8月26日(土)、主催講座8「石狩歴史散歩」の第1回「厚田の歴史遺産巡り」を開催しました。講師は、石狩市郷土研究会事務局次長の安田秀司さん、受講者は24名でした。
 本日はバスで厚田地区を巡回し、車中での案内箇所12カ所、下車して見学した箇所11カ所併せて23カ所を見学学習しました。
 以下は各見学の様子です。
 最初に車中で石狩市の地形についての説明がありました。
南北に70㎞の長さを持つ石狩市は、3つの地形に区分できる。
石狩から望来にかけての南部は、4,000年ほど前からの海退により形成された平らな地形。
望来から厚田のかけての中部は、1,200万年~530万年前の海底の隆起と波の浸食により形成された海岸段丘地形。海岸段丘崖には明瞭な地層が見られる。
厚田から浜益、雄冬の北部は、2,300万年前から1万2,000年前の火山活動により形成された山岳地。また、日本海の波に削られて出来た奇岩があり、暑寒別天売焼尻国定公園に指定される景勝地。
安田さんは、石狩市内にも暑寒別天売焼尻国定公園域があるにもかかわらず知名度が低く、公的な地図にも漏れている場合があることを指摘、認識を新たにして欲しいと訴えられました。
23,8,1,1.jpg
◇バス巡回
1.聚富川(旧石狩市と厚田区の境界。かっては厚田村のカントリーサインが建てられていた。車中見学)
23,8,1,2.JPG
2.トーメン団地(人口785人/2023年6月現在。旧石狩市と厚田区が入り組んでいる。車中見学)
トーメン団地は、昭和50年に(株)トーメンにより分譲。かっては、帝国製麻の「製線工場」があった。虹が原地区は厚田区、緑ケ原地区は旧石狩市で、それぞれの町内会館がある。
23,8,1,40.png
3.開拓之碑(厚田区聚富新開地)
聚富地区の開拓は、明治期に伊達邦直主従、兵庫県団体などが成功せず、昭和28年の開拓農業協同組合設立でようやく定住することが出来た。
開拓之碑は、昭和47(1972)年、組合創立20周年を記念して聚富開拓農業協同組合により建立。
23,8,1,4.JPG
4.海岸段丘通過(聚富団体バス停。車中見学)
国道231号線を北上すると、二段の面(坂道)が続いている。これは海岸段丘で、1段目を嶺泊面(標高30~40m、約12万年前に形成)、2段目を聚富面(標高60~70m、約21万年前に形成)と云う。
このあたりの基盤は、500万年~170万年前の当別層。なお、この地域は、今でも年に0.5㎜ほど上昇している。
23,8,1,5.JPG
5.聚富神社・開村記念碑
◇聚富神社
明治41(1908)年に、白津狩豊川稲荷大明神、団体八幡神社、堀頭熊神神社の三社を現在地に合祀し社殿を造営して命名したもの。さらに昭和44年に白津狩日本石油拓地地鎮を合祀。
23,8,1,6.JPG
◇開村記念碑
右から開村三拾年記念碑(大正13年建立)、開村八十年碑(昭和49年建立)、聚富開村百年之碑(平成6年建立)
23,8,1,7.JPG
◇札幌展望
二つのドームと藻岩山が見える。
23,8,1,8.JPG
6.厚田油田跡(車中説明、石狩遺産6号)
昭和6年から昭和36年まで操業。産出量が少なく、全体で一日ドラム缶2本分(400ℓ)程度と云われている。今でもコンクリートで塞いだ油井跡が残り、石油のたまりや天然ガスの気泡など油徴を見ることができる。
7.無煙浜崖上展望地(石狩遺産4号)
石狩海岸(銭函~望来まで約25㎞続く。砂浜に沿って形成された砂丘上は海岸草原として海浜植物の大群生地となっている)を展望できる絶好ポイント。
23,8,1,9.JPG
8.海岸段丘(堀頭面、車中見学)
23,8,1,10.JPG
9.古潭チャシ跡(車中説明)
古潭市街地の手前にチャシではないか、と云われる小高い地形がある。
10.古潭石碑(厚田村発祥之地碑、弁財船投錨地碑。車中見学。石狩遺産11号)
一画にはロープが張ってあり立ち入りできませんでした。
23,8,1,11.JPG
11.押琴湾(石狩遺産11号)
かっては、30隻もの弁財船が停泊。弁天社や本陣、荷物蔵があった。
また、背後には「盤の沢層」と「厚田層」の露頭が観察できる。メノウを採取することができ、海水を飲みに来るアオバトを観察できるポイントがある。
23,8,1,13.JPG23,8,1,12.JPG
12.古潭八幡神社(車中見学)
かって厚田郡の中心地だった古潭の八幡神社は、郡の最高格である「郷社」であった。石段には弁天社の手水鉢が残る。日本遺産「古潭八幡神社の神輿」は嵐に遭って助かった久吉丸船主が寄進したもの。
23,8,1,14.JPG
13.アメリカンファーム跡地
昭和44年に進められた国営農地開発事業(受益戸数31戸、1法人)は、昭和58年に完了。漁業資源が衰退の一途をたどる中、経済復興策としての酪農導入であったが成功せず、アメリカンファームも閉鎖、その後のリゾート計画も実現せず、最終的に厚田村が買いとった。平成15年から始動した「ふるさとの森」は、市民植樹を中心とした森づくりが進められている。
アメリカンファームのサイロなど英国ガスコイン社製の施設は、今もしっかりと形骸を残している。
23,8,1,16.JPG23,8,1,15.JPG
14.正眼寺(佐藤松太郎の墓、石狩遺産3号)
◇自然山 正眼寺(曹洞宗)は、文久2(1862)年創立。佐藤松太郎の墓がある。
当初は、佐藤松太郎の墓のみの見学予定でしたが、ご住職のご厚意により寺の内部も見せていただき、佐藤家の二つの仏壇(一つは松太郎の母の隠居所にあったもの)を見ることができました。
23,8,1,17.JPG
◇佐藤松太郎墓
大正12(1923)年、佐藤正雄が建立。納骨されているのは中央の墓で左右は墓誌の役割。
23,8,1,18.JPG
・佐藤松太郎は、やま丸の布袋さんと呼ばれ愛された大漁業家。体重が150㎏ある巨漢だった。
・戸籍上は父佐藤長左衛門母与志の長男となっているが、母与志が松太郎、徳太郎の二子を連れて長左衛門の後妻となったもの。
・10歳を過ぎたころ和田家に奉公。その後、卓越した記憶力と直感により漁業家として財をなし厚田、浜益99か所の漁場のほとんどを所有。当時の漁業家長者番付の横綱となる。
・明治25年には加賀の寺谷家と共同で弁財船(北前船)を所有。
・明治37年5万円をかけて母親の隠居所を建てる(現在の戸田旅館)。
・明治40年、道議会議員に当選。
・厚田に初めて電気をひき、小学校建設に巨額の寄付をした。
・大正7年、スペイン風邪に罹り57歳で死去。
15.厚田総合センター緞帳(石狩遺産11号)
お昼は、緞帳に刺繍された佐藤松太郎と寺谷家の共同経営の弁財船・長栄丸を見ながら昼食を取りました。昼食後に、緞帳の前で参加者全員の記念写真を撮りました。
23,8,1,20.JPG23,8,1,19.JPG
16.厚田市街地徒歩散策
佐藤松太郎屋敷跡⇒厚田漁港⇒龍神堂⇒子母澤寛生家⇒戸田旅館
23,8,1,23.png23,8,1,22.png23,8,1,21.png
17.栄橋(厚田川)
厚田川の川向かいにあった戸田城聖の生家の説明を受けました。
18.厚田神社
嘉永元(1848)年創立(別狩、安瀬、濃昼の各稲荷神社を合祀)。奉納されている北前船絵馬は日本遺産認定文化財。
23,8,1,24.JPG
◇松太郎寄進石段
松太郎(右)と母与志(左)の名が刻まれている。
23,8,1,25.JPG
◇豊漁祈念碑
明治24(1891)年に地元有力者たちにより建立。5万石(約50億円)の豊漁を記念したもの。
23,8,1,26.JPG
◇撃剣道場直心館之碑
昭和52(1977)年に厚田村文化協議会により建立。佐藤辯蔵が招いた剣士・牧田重勝の剣道場を記念。
23,8,1,27.png
◇土門家土蔵跡
今年解体されたため、写真で説明を受けました。
19.道の駅「あいろーど厚田」2階展示室
◇子母澤寛
・小説家。本名梅谷松太郎。父伊平と母三岸イシ(梅谷十次郎の養女)の子として厚田村で誕生。父は出奔、当時17歳だった母イシも育児を放棄。松太郎は、祖父十次郎と祖母スナに育てられた。
イシがその後に生んだのが、三岸好太郎。
・明治大学法学部を卒業後、横須賀や札幌で地方紙の記者を勤めた後、上京して読売新聞社入社。
・昭和3年「新選組始末記」で文壇デビュー。ペンネームは、住んでいた新井宿 子母澤の地名と憧れの菊池寛から付けた。「父子鷹」などの幕末・維新ものにより70歳で菊池寛賞を受賞。
・昭和43年、77歳で死去。
23,8,1,28.png
◇戸田城聖
・創価学会第2代会長。本名戸田甚一。
・石川県加賀市で戸田甚七の7男として誕生。甚一が2歳の時に厚田村に移住。14歳まで過ごす。
・厚田尋常高等小学校を卒業後、札幌で就職。その後代用教員を勤めた。
・19歳で上京、教育家・牧口常三郎と出会い、仏法の実践に取り組む。
・獄中死した牧口の後を継ぎ, 昭和26(1951)年に創価学会第2代会長に就任。その後、卓越した指導力で学会組織を発展させた。
・昭和33年、58歳で死去。
23,8,1,29.JPG
◇北前船ジオラマ
北前船のジオラマ(立体模型)は、元浜益小学校校長の石黒隆一さんと人形作家の八田美津さんの共作。北前船の材料は、実際にその部分に使われていた木材を使用、正確な縮尺寸法で作られている。また、帆桁を轆轤で操作してクレーンのように使って、陸揚げ用小舟(伝馬船)への荷物の積み込みを行っていた。
下り荷(米、塩、味噌、醤油、酒、稲わら、衣類、生活用品など)を広げて喜び合う様子も再現されている。
23,8,1,30.png
20.国定公園エリア進入(安瀬、車中説明)
21.濃昼山道安瀬入口(車中見学)
濃昼山道は、ロシアの南下政策への警備の為の物資輸送路確保の目的で、安政4(1857)年に幕府の命を受けた厚田場所請負人・濱屋与右衛門が自費(339両=現在の4400万円)で完成させた安瀬から濃昼まで11㎞の山道。さらに、濃昼の網元・木村源作が自分の漁場に通うヤン衆のため1万円で山道を付け直した。山道は、地域住民の生活道路として100年以上利用されたが、昭和46(1971)年の国道231号線の開通とともに使われなくなって廃道となった。その後、「濃昼山道保存会」が結成されて、草刈りが行われるようになり2005年秋に全路を通して歩けるようになった。2018年、「濃昼山道」は「増毛山道」とともに、民間による復活運動とその歴史的価値が認められ、北海道遺産に認定された。
22.濃昼山道濃昼入口
山道の入り口部分を見学。
23,8,1,31.JPG
23.ルーラン海岸(車中説明)
アモイの洞門や義経の涙岩などルーラン海岸(暑寒別天売焼尻国定公園エリア)の名勝地は、太島内トンネルが作られて以来、陸側からは見ることが出来なくなりましたが、帰りの車中で、安田さんから、カヌーを操り海から撮ったと云う写真を示しながらの説明を受けました。
23,8,1,32.JPG
 こうして、本日の巡回予定をすべて終了して帰路につきました。酷暑の中、一日中声を張り上げて案内して下さった講師の安田さん、本当にありがとうございました。お疲れさまでした。また、25頁にもなる詳細なカラー刷りの資料も提供していただき、感謝に堪えません。受講者のみなさんも大満足されたようです。

 最後に受講生から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「村山会長の歴史散歩に劣らぬすばらしい内容の講座を案内いただき大変感謝しています。今後の歴史散歩もまた楽しみにしています。ありがとうございました」
「斬新なテキストに驚きました。又、現地踏査等の下準備も入念に行われ何よりあきさせないトークに感心しました。次回の浜益方面も楽しみにしています」
「すばらしく充実した一日でした。見どころ、聞きどころ満載!語り手の見識の深さ豊かさはお見事です。資料の価値も大!!感動ものです。安田さん、スタッフの皆様ありがとうございました」
「石狩歴史散歩~厚田地区、安田講師による遺産巡り。資料、見学を通しての詳しい解説をして頂き大変参考になりお礼申し上げます。天候にも恵まれ、暑い中運営員の皆様方ご苦労様です。感謝申し上げます」
「初めての歴史遺産を見学出来、非常に楽しみました。又、資料も大満足で次回浜益地区も期待しています」
「石狩に住んで約30年になりましたが、歴史はわからないことが多く、大変勉強になりました。次回浜益が楽しみです」















CONTENTS コンテンツ

カレッジ生募集中

ボランティアスタッフ募集中 詳細はこちらから

いしかり市民カレッジ事務局

〒061-3217
石狩市花川北7条1丁目26
石狩市民図書館内社会教育課
Tel/Fax
0133-74-2249
E-mail
manabee@city.ishikari.hokkaido.jp

ページの先頭へ

ご意見・お問い合わせプライバシーポリシーサイトマップ