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主催講座12 「北海道150年物語」

第1回 「明治維新と北海道~蝦夷地から北海道へ~」

2016/10/15

 10月7日(金)主催講座12「北海道150年物語」の第1回「明治維新と北海道~蝦夷地から北海道へ~」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は北海道博物館学芸主査の三浦泰之さん、受講者は57人でした。

■はじめに
 三浦さんは、最初に「北海道150年」について触れられました。
2018年(平成30年)、北海道150年ということで記念事業をやろうということが北海道新聞等で報道されています。50年前の1968年、開道100年行事があったが、この時は北海道開拓を盛り上げたということで、先住民であるアイヌ民族の歴史からの視点が抜けているのではないかという声が各方面から上がっていた。150年については、過去の北海道を振り返り、未来の北海道に繋げていくイベントになるようにと、松浦武四郎をキーパーソンにして準備しているところです。
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 次に、「北海道開拓の始まり」についてお話しされました。

◇北海道「開拓」の始まり
「北海道150年」の起点は明治2年(1869)
・明治政府が開拓使を設置した。
・蝦夷地を「北海道」と改称し、11の国と86の郡を置いた。
【背景】
①ロシアとの国境問題に対する危機感があった。
幕末に日露通交条約が結ばれていた。国境が択捉島とウルップ島の間。サハリン島については曖昧なままであった。条約では「両国雑居の地」となっていた。
②国を豊かにすることへの期待
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そして、「今日は、明治2年までの時期を主な対象として、北海道開拓が始まった時の歴史的な流れと、それにまつわる幾つかのトピックを紹介します。」と、本題に入られました。
以下、その概要をご紹介します。

■慶応4年/明治元年(1868)~明治2年(1869)の歴史的流れ
◇慶応4年/明治元年(1868)
*1/4 戊辰戦争始まる。 
*2/27  侍従清水谷公考・少将高野保健、戊辰戦争とロシア問題を意識した蝦夷地に関する建議書を提出。
*3/25 副総裁岩倉具視、三職に対して、「函館奉行所」の設置や、蝦夷地への「南北二道」の設置に関する、3か条の策問を提議。
*4/12 新政府、箱館裁判所を設置。
*4/5 新政府、清水谷公考を箱館裁判所総督に任命。
*4/24 新政府、箱館裁判所を箱館府と改称し、清水谷公考を知事に任命。
*5/ 3 奥羽列藩同盟が成立。後、奥羽越同盟に。
*5/15  彰義隊などの旧幕府軍と新政府軍との間で上野戦争始まる
*5/24 新政府、徳川家に駿河府中藩(後に静岡藩)70万石への移封を命じる。
*8/ 1  松前藩正議隊の鈴木織太郎・下国東七郎ら、決起して松前勘解由・蠣崎鑑三らを襲い、藩政改革に着手(松前藩正議派のクーデター)。
*9/20 仙台藩、新政府軍に降伏。9/22会津藩、降伏。9/26庄内藩、降伏。 
*10/20 旧幕府海軍副総裁榎本武揚率いる旧幕府軍、鷲の木に上陸し、五稜郭へ向かう。(箱館戦争の始まり)
*10/25 清水谷箱館府知事以下、旧幕府軍襲来によって箱館を退去し、青森に移る。旧幕府軍、翌日、五稜郭を占拠。
*12/15 旧幕府軍、祝砲を発して全島平定を祝う。士官以上の公選によって、榎本武揚総裁、松平太郎副総裁、荒井郁之助海軍奉行、大鳥圭介陸軍奉行などを選出。
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◇明治2年(1869)
*4/17 新政府軍、福山城を奪回。
*5/18 榎本総裁以下、旧幕府軍、新政府軍に降伏(箱館戦争の終結)。
*5/21・5/22 明治天皇、新政府幹部と諸侯に対して、「蝦夷地開拓の件」などを下問。
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*6/ 4 新政府、議定中納言鍋島直正を蝦夷開拓督務に任命。
*6/ 6  新政府、島義勇・桜井慎平・大久保利通・松浦武四郎・佐原志賀之助・相良偆斎、を蝦夷開拓御用掛に任命。(5/22説あり)
*7/ 8  新政府、官制改革で、神祇官・太政官の2官、民部省・大蔵省などの6官などを設置。加えて、開拓使も設置。
*7/22  新政府、蝦夷開拓のために、諸藩・士族・庶民の志願により相応の地所を割り渡すべき旨を布告。
*8/15 新政府、蝦夷地を北海道と改称し、11国86郡を設置する旨を布告。
*8/25 新政府、東久世通禧を開拓長官に任命。
*9/29 開拓使、場所請負制の廃止を布達。
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EP① 旧幕府軍支配下のヨイチ運上家で書き留められた触書
榎本政権(旧幕府軍)が、道南に勢力を置き、蝦夷地を支配する一時期があるが、どのように蝦夷地を統治しようとしていたか。
◇布令①
*明治元年(1868)10月21日、旧幕府軍は鷲ノ木に上陸し、箱館に進軍。蝦夷地の制圧に向かった別働隊は当面、ヲシャマンベに本営を置いた。その本営から、彰義隊士西村賢八郎・武田司の名前で出された触書(北海道博物館所蔵林家文書『〔御布告写ほか綴〕』より)
「   触書
 徳川家御領知之儀二付、当嶋え歎願之次第も有之相越候処、右訳柄も不聞入、炮挙いたし、五稜郭を立退キ、役々脱走いたし、就而は今般前々之通御所領二相成候間、諸事心得違無之様加致候、且今日より諸願届等は当分ヲシャマンヘ本営え差出ス候様可相心得候、
右之趣、早々、場所々不洩様可相触者也、
辰ノ十一月十三日  西 賢八郎
            武 司
              西地ヲタスツよりソウヤ迄
              右場所々支配人 」
◇布令②
*新政府軍の本格的な鎮圧作戦は、明治2年(1869)4月9日の乙部村への上陸作戦から始められた。これは、その直前の時期に蝦夷地詰の旧幕府軍の一員から出された触書。旧幕府軍による蝦夷地支配の正当性が謳われている(北海道博物館所蔵林家文書『〔御布告写ほか綴〕』より)。
長文につき内容を要約
「江戸時代まで、徳川家は公儀として統治し、家康以来三百年間平安をもたらしてきた。それにもかかわらず、天皇の側に悪い役人がいて、朝廷に政権を返上させ、徳川家は駿河七十万石へ移された。
皆々涙ヲ呑て、是からハ蝦夷地へ行、土地を開、所のものゝ難儀ヲもすくへ、また近頃外国人か来て蝦夷地ヲほしかる間、その御固ヲ成したらハ、壱ツにハ此島の幸へ、貳ツにハ日本の為とも成るへくとて、禁裏様え此島ヲ下されと願書ヲ上ケたれと、
 しかし、願いが聞き届かれず、戦争になったのでやむを得ずこの島を占領したのだ。」
*榎本政権は、このような大義名分をもって、最後まで正統性を主張するためにお触書を出さなければならなかったのであろうと思われる。
その後、5月18日に箱館戦争が終結する。

EP② 北海道の「命名」と松浦武四郎
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◇松浦武四郎の生涯(1818~1888)
*青年期から旅に憧れ、諸国を放浪。
*志士的な気概を持って3回、幕府の「雇」として3回、計6回蝦夷地を踏査。
*蝦夷地関係のさまざまな著述を残し、積極的に出版活動も展開。
*蝦夷地通として名が知れ渡り、その力量を評価した薩摩藩大久保利通の推挙で新政府に登用。
・明治2年(1869)6月6日、蝦夷開拓御用掛を拝命
・明治2年(1869)8月2日、開拓判官を拝命
・明治3年(1870)3月15日、辞表を提出し3月30日付で免職。
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◇北海道の名付け親、松浦武四郎
*明治政府は、明治2年(1869)8月15日、蝦夷地を北海道と改め、北海道に11国86郡を置く旨の太政官布告を発布。
*その1か月後、9月19日付で、武四郎は、明治政府より、「北海道々名、国名、郡名選定」の褒賞として金100円を、従5位の官位とあわせて、拝領。
⇒では、武四郎は、具体的に何をしたのか?
※新政府の中枢にいた岩倉具視の、慶応4年(1868)3月25日付の策問の第三条に、「蝦夷の名目を改められ、南北二道を立て置かれてはいかが」とあったように、新政府部内では、蝦夷地への「道」という行政区分の設置が検討されていた。加えて、蝦夷地への「国」「郡」の設定も検討されていた。
⇒明治維新での「王政復古」は、蝦夷地を正式に日本の領土に組み入れ、内外に宣言するために、古代律令制下の広域行政区分である「五畿七道」が参照され、「国郡制」の新設が企図された。
*「五畿」:大和国、山城国、摂津国、河内国、和泉国【畿内】
 「七道」:東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道
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◇「道名」の選定をめぐって
*武四郎は、明治2年で(1869)7月17日付「蝦夷地道名之儀勘弁申 上候書付」を提出。
・「道名」として「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」
「東北道」「千島道」の6案を提案。
・「北加伊道」の項には、江戸中期の尾張国の医師・伊藤信民が出版した『参考熱田大神縁起』(文化8年(1811)の「頭書」を引、「加伊」の字を使った理由を、「夷人自呼其国加伊。加伊蓋其地名。其地名加伊、其人鬚長故用蝦夷字。...」と、「夷人」が自らの「国」を「加伊」と呼んでいたから、と記している。
*文久2年(1862)に出版した『天塩日誌』安政4年(1857)6月27日の部分に、現在の音威子府の辺りでアイヌの長老アエトモから「カイとは此国に産れし者の事」という話を聞いた、という話題を紹介している。
⇒武四郎としては、「北加伊道」に、「北のアイヌ民族が暮らす大地」という意味を込めた、と考えられる。
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①実は、「北海道」は既定路線であった?
・水戸藩主徳川斉昭著『北方未来考』に「松前蝦夷、西ハカラフト、東ハシコタン等、北ハ千島カンサツカ迄ヲ北海道と定、新二国名御附二相成」とある。
・新政府役人であった井上石見と三澤揆一郎が慶応4年(1868)に提出した意見書に「蝦夷二嶋の儀は...北海一道を置かせられて至当の御儀と存じ奉り候、是迄、五畿七道の内、北海道の名目がこれ無きは、祖宗の深意、今日を待たせられ候にもこれ有るべきか」とあって、武四郎の提案以前、政府内部では既に道名として「北海道」が候補に上がっていた。
⇒五畿七道に照らせば、「北海道」は、ある意味、自然な名付けとも言える。
①決定過程の資料が確認できない。

◇「国名」「郡名」の選定をめぐって
*武四郎は、明治2年(1869)7月付けで「国名之儀二附申上候書付」「郡名之儀二付奉申上候條」の2種類の意見書を提出。
・武四郎は、「近津淡海国」(チカツアワウミノクニ)が「近江国」(オウミノクニ)とされたように、「延喜式」で漢字2文字の呼称が  規定されたことなどを念頭に、アイヌ語の地名などを漢字2文字に改めた国郡名を提案。
・江戸時代以来、和人地内で用いられていた地名や、アイヌ語呼称へのさまざまに漢字が当てられていた地名などを参照しながら、自身の見聞を踏まえつつ、名前を選定。
・蝦夷地各「場所」の区分をベースに、自身の見聞も踏まえつつ「国」「郡」境界についても提案。
⇒武四郎以外にも、提出された意見書が存在しているように、蝦夷地の「国郡」の設定は種々検討されたと推察される。
しかし、実際には、「国郡」名及びその境界の設定については、武四郎の提案はほぼ採用される形で決定されている。
*武四郎案では、厚田、濱益は天塩国に入っていたが、「石狩国」に変更して決定された。
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EP③ 北海道開拓と士族移住
◇北海道史と「士族移住」
*明治初期に移住の「主力」をなしたのは、維新期の混乱で失業するなどして、移住を余儀なくされた武士たち。武士としての面目を保つため、旧主君との主従の団結を心の支えにするなどして、新天地に活路を見出そうとした。
*明治20年代以降、北海道庁による、殖産政策のもと、移住者の数は急増していく。北海道史で「士族移住」が取り上げられる時、明治10年代までの動向が特徴的とされている。

◇さまざまな士族移住
①明治新政府による分割分領政策と士族移住
*明治2年(1869)7月22日付太政官布達
「蝦夷地開拓之儀、先般御下問モ有之候通二付、今後諸藩士族庶ニ至ル迄、志願次第申出候者ハ相応ノ地割渡シ、開拓被仰付候事」
⇒新政府の財政能力不足を補う政策で、明治4年(1871)8月の制度廃止までに、1省・1府・24藩・2華族・8士族・2寺院に割り渡し。一部を除いて成果は上がらなかった。
 ⇒積極的であったのは、戊辰戦争で領地を削減されて、永の暇か帰農 を迫られた陪臣を抱えていた仙台藩など。
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②士族屯田 
*士族の生活苦を課題として抱えていた明治政府が設けた、北方の防衛と開拓とを両立させる新たな制度。
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③秩禄処分後の士族授産事業としての士族移住
*明治政府は、明治9年(1876)8月5日に公布した「金禄公債証書発行条例」で士族の禄制を廃止。多くの失業者が生まれ、翌年の西南戦争勃発の影響もあって、国家的課題としての士族授産の必要性が高まる。
◇「移住した」古文書は何を語る?
*道内では、しばしば、内容的に北海道史と無関係な武家文書を見かけることがある。
・旧主君からの印判状・知行宛行状・武芸の免許状が主。
・事例紹介:旧仙台藩白石領主片倉家家臣・安斎家文書〈北海道博物館所蔵〉
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*古文書の「移住」=北海道の特徴
古文書とともに移住して、かつ保管し続けるという行為には、自身の「由緒」への誇りを移住先でも失わず保ち続けていくという決意が反映されている。
⇒内容的に北海道の歴史を直接的に物語るものではないが北海道移住の歴史や移住者の心情を雄弁に物語っている。

 受講者からは、「北海道の歴史のスタートをわかり易く話され、有意義な講座であった」「松浦武四郎が名付親と言われる所以、北加伊道に込められた武四郎の思いがよく分かった」など、同様の感想が多く、また、次回への期待の声が寄せられました。





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