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講座7 「今年は、戦後70年~歴史の記憶を風化させないために~」

第1回 「あの日のいのち~北海道空襲の犠牲者たち~」

2015/07/18

 7月15日(水)、講座7「今年は、戦後70年~歴史の記憶を風化させないために~」の第1回「あの日のいのち~北海道空襲の犠牲者たち~」を花川南コミュニティセンターで行いました。講師は文筆家の菊地慶一氏で、13歳で釧路空襲を体験、その後網走管内で教員を務めた後、網走空襲の発掘や北海道空襲の調査を、現地に赴いて実態を研究された方です。受講者は48名でした。

 菊地さんは、「今日は、菊地でございます。70年前の昨日と今日、北海道に空襲があった。この石狩・厚田にも空襲があったことはご存知の通りです。ところで、石狩はかつてそんなに大きな町ではなかった。その小さな町で13人の方が、厚田村の望来でも12人の方が亡くなった。なぜ、日本海沿いの小さな町や市街をアメリカ軍が襲ったのか。その理由が私はよくわかりません。」と語り始めました。
「70年経ってもまだ空襲の話かといわれる。しかし私は、70年経ったからこそ空襲を語りたい。なぜか。現在戦争体験が猛烈に急激に風化しつつあるからです。」「このままでは、日本国民は戦争というものがどんなものかを知らないで、再び戦争への道を進むのではないかという危惧がある。だから私はなんとか語り継ぎたいと思っているのです。」と話を進めました。
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 以下「北海道空襲とはどんなものであったのか」その概要を紹介します。
空襲の犠牲者、79市町村1,958人から2,916人へ
  北海道空襲でアメリカ軍が爆撃した市町村は79(当時の市町村数)であった。30年間北海道中を廻って役場や図書館を訪ねて記録し、集計した犠牲者数は1,958人。ところが、ここ2~3年の間に2,916人という数字に増えた。
 理由は、津軽海峡で被害に遭った青函連絡船12隻の乗組員や乗客、北海道沿岸にいた軍艦・輸送船・徴用船・漁船などの被害が十分把握できていなかったためである。
数年前から友人の山本竜也さんが、全ての資料に当たり、戦友会や船舶関係団体等を詳細に調べ、網羅して集計した数字が2,916人である。その中でまだ300人程が氏名不詳であり、70年間明らかにならず埋もれている。
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※上の地図は、クリックするともう少し大きくなります。
隠されていた空襲の真実
  この空襲が新聞にどのように書かれていたか、「艦上機北海道各地に来襲」「敵機動部隊の一部室蘭に緊接」「釧路根室地区銃爆、民間防空の敢闘で被害軽微」こういう報道しかなされなかった。軍(大本営)はいつも被害軽微、敵に攻撃を加えて戦果ありという報道しかしなかった時代がずっとあった。

なぜ北海道空襲を行ったか
  沖縄を攻撃したアメリカ艦隊は、一時フイリピンの港で休瀁してから北上を始め、東北・北海道の海岸にやって来ていた。アメリカ海軍第三艦隊第38任務部隊(100隻)は、襟裳岬の南200キロ地点に集結して、そこから航空母艦10隻の艦載機800機のうち14・15の二日間で500機が北海道上空を飛びまわったと推定される。但し、宗谷管内と檜山管内には行かなかった。なぜか。艦載機は小型機で長距離飛行ができなかった。

空襲時の天候
 アメリカ軍は北海道空襲のために詳細な研究をしていた。春4月から5月頃B29 という大型爆撃機が1万メートルの上空を飛んで精巧な写真を撮り、港湾・鉄道・軍事工場をつぶさに調査していた。
しかし実際はどうだったか。
札幌気象台で14・15日の気象状態を調べたところ、曇り日で時によっては小雨、霧雨とあった。所によっては晴のところもある。そのために札幌の空襲はなされなかった。大都会札幌の犠牲者は、丘珠の農家が機銃掃射をされて亡くなった1名だけであった。なぜなのか、謎がある。
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北海道空襲の特徴
  小型飛行機は有視界飛行で小型爆弾を積んでいる。それを持ち帰ることは危険だ。全部使って帰らなければならない。晴れている地域でやみくもに攻撃をしたのではないか。そのことは米国防省の文書には書いていない。
室蘭は、艦砲射撃で2つの製鉄所が全滅状態。釧路・根室の港湾があった所も被害が大きかった。本別は小さな町だが40人死者が出ている。帯広は天候が悪く、本別は晴れていたために小さな町だが40人の死者が出ている。網走も15人の死者がでた。美幌海軍飛行場を狙ったが曇っていたので網走を攻撃した。これを臨機攻撃という。典型的なのが石狩と望来の空襲ではなかったか。それでなければ石狩を攻撃する必要があったのかわからない。

奇襲による無差別機銃掃射
  私は釧路の太平洋炭鉱のハーモニカ長屋に住んでいた。食事中突然サイレンが鳴った。見たら山の方から真っ黒な飛行機が飛んできた。気持ちの上でも準備をする暇がなかった。無差別攻撃であった。
(証言例)
・牧場の牛や馬が狙われた。
・逃げる学生を追うようにして機銃掃射してきた。振り返ると白いマフラーをしていた。
・伊達の日本赤十字病院(屋根や旗で赤十字のマークが記されている)では患者が1人、入院患者1人、看護婦が1人、看護学生が1人亡くなった。
・隣の駅で列車が攻撃を受け十数人の犠牲がでた。
 戦争の本質を見たら差別も無差別も無い。日本軍もおそらくアジアや中国などで同じことをしたのではないか。
 伊達の本橋光子さんという17歳の看護学生が亡くなった。わたしは伊達の病院を訪ねて倉庫から状況を詳しく書いた書類を見つけた。「本橋光子17歳、看護婦生徒、右眼下骨折兼頭蓋骨に爆弾破片巣、眼球無、即死」という記録が残っていた。そういう空襲が全道各地で行われたのである。
北海道空襲というのは、1カ月後に敗戦を迎えるのであるが、当時敗戦濃厚だということは国民もうすうす感じていたが、アメリカ軍にとっては決定的な勝利が分っていた。そういう時期であった。わたしは、北海道空襲は最後の段階で行われた、無差別であり気紛れな攻撃であったのではないかと思う。アメリカ軍も20機ほど高射砲で損害を受けた。兵士の犠牲者は18名。戦争の本質は、敵も味方も危険極まりないものであることは間違いないことである。

『あの子たちがいた七月』
 この度、調べたことを基に一冊の本を作った。北海道空襲の犠牲者2,916人のうち、16歳までの子ども228人が2日間で死んでいる。氏名不詳、年齢不詳の記録もあるのでまだまだわからない。その子どもたちがどんな死に方をしたのかはっきりしていない。特に30年前から気になっていたことを物語にした。物語にすることによって私の想像力で、当時の様子を浮かび上がらせることが出来るのではないかと考えたからだ。228人の中から12人を取り出して物語にした。物語にすることでしか明らかにできないことを知ってもらいたいと思う。
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ぼうだらを持った少年
  道南の砂原という町(町村合併で無くなった)の近くの信号所の辺りで列車がやられた。列車へ鉄道員が入ってみたら、通路にランドセルを背負った男の子が、手に「ぼうだら」を持って死んでいたという記録がる。わたしは、お寺などへ行って少年の名を聞いて歩いたが分らなかった。何回も資料を見たが名前も年齢も分らなかった。そのことがずっと気になっていた。

先生にあいたい
  白糠という所で機銃掃射にやられた女の子が、死ぬ間際に「先生にあいたい」といって死んだという1行の記録がある。なぜ先生にあいたいと言ったのか、探して歩いたらそこの家が分った。勿論両親は無くなっていたが、「うちの兄弟が死んだんですよ」と言ってくれた。しかし、どんな子だったかどうして亡くなったか分らなかった。しかし仏壇の両親の写真の額の1番下に小さな女の子の写真が入っていた。妹だという。

戦争の記録、歴史が失われている
 名前さえ分らないということは信じ難い。函館のあるお寺の境内に碑が建っている。町内会が全滅し、生き残った人の証言をもとに名前を刻んだ。山田太郎とか名前を書いてあるのもあるが、「髙橋染物屋即 即 即(息子)」
○○○娘」と書いてある碑もある。町内会で建てたのに名前もわからないことにショックを覚えたと同時に町内会の人の気持ちに心を打たれた。
戦争の記録、歴史が分らなくなっている。その理由の一つは、敗戦の時に進駐軍がやってくる前に、北海道庁が「軍事関係、空襲の資料は破棄せよ」という文書を出したために、役場の人は全部焼いた。焼かなかったのは石狩町だけだった。「石狩町戦災者記録」が残っている。網走の空襲も1人の名前も網走市史には書かれていなかった。まだまだ、きちっと確認して歴史の中に残すことが今問われていると思う。
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望来で亡くなった6人の子ども
  望来では11人の人が死んだ。精米所の秋村さんの家で7人の人が死んだ。そのうち6人が子どもだったのはなぜか。
子どもたちは秋村さんの家に遊びに来ていた。空襲の時、みんなを家の中に入れて、お母さんが布団を持ってきて子ども達の上にかけ自分も頭を入れて息をひそめた。不幸なことに爆弾が落ちて家がつぶれ、7人が一挙に死んだ。たちまち火がでて、家が焼けてしまった。翌日、遺骨を掘りだす時に、遺骨がくっついて誰が誰か分らない状態だった。そういう記録が残っている。わたしはそのことを1つの物語にした。

本橋光子さんのお父さんの話
 日赤病院で被害に遭った本橋光子さんが、8月15日に亡くなった。8月15日には天皇の玉音放送があって敗戦になった日だ。病院では病院葬を8月31日に行うことになり、亡くなった遺族に招待状を出した。ところが、本橋光子さんのお父さんは来なかった。来ない代わりに手紙が届いた。わたしは、その手紙を古い書類の中から見つけた。こう書いてあった。「この度病院葬のお招きに預かりましたが、今日勝つことのできました戦いでありましたなら喜んで末席に連ねて戴くのでございますが、我に利あらず国家がこのようになりましては病院葬に参列致すことは憚られますので、大変申し上げにくい事でございますが31日には当方に於いて焼香致します故何とぞ悪しからず思し召し下さいますようお願い申し上げます」こういうことである。皆さん、このお父さんは普通のお父さんであったでしょう。かように庶民一般の人にまで大きな影響を与えていたかということが分り、びっくりしたのである。
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当時の世相
  当時、憲兵、特高(特別高等警察)がいて世論を統制していた。釧路空襲のとき、東京空襲を受けて、縁者を頼って釧路に来ていた人が、「東京大空襲は大変ひどかった」と近所の人に話したのを聞きつけて、虚偽の噂を言いふらすのは国民を動揺させるということで警察に連れていかれて、2週間返されなかった、という噂が流れた。うっかりしたことは言えない。壁に耳あり障子に目あり。いつも誰かが見ている、聴いている。国のやることに反することは絶対言ってはいけない。そういう時代であった。北海道の空襲はそういう中での空襲であった。

振り返れば前が見える
  70年経って、わたしのようなものが空襲のことを話すのではなく、早い段階で国や道が北海道空襲の実態をつぶさに調査し記録すべきだった。北海道の空襲だけだはない。慰安婦の問題や侵略だとかいずれもしっかりと検証して見つめ直し、歴史の中に位置付けていくべきである。歴史は振り返らなければならない。振り返れば前が見えるというのが私のスローガンである。
今でも戦争は続いている。イラン・イラク、中東戦争で何百万何千万という人が死んでいる。特に沢山の子どもも死んでいるに違いない。どれだけ多くの子どもたちが犠牲になっているか明らかになっていない。北海道空襲で死んだ228人の子どもたちというのは、今の子ども達の問題でもあるのだ。

あなたたちのことは忘れない
  北海道空襲70年目の記念日にお話しできた事を大変光栄に思っている。しかし、もしかしたら今日、安保法案が国会を通るかもしれないと思うと暗い気持ちになる。そして悲しい気持ちになる。戦争で亡くなった人を忘れてはいけない。死んだ人を忘れるということは二度殺すことになる。だから絶対に忘れてはならないと思うのです。
 最後に皆さんとともに、特に未来のある命を絶たれてしまった子どもたちに、『あなたたちのことは忘れません』ということを呼びかけたい。2,916人の北海道空襲の犠牲者の冥福を祈りたい。

受講生の感想
・先生の生涯をかけた平和へのたたかい。穏やかな話し方の中で、しみじみと伝わってきました。まさに今日、70年前のこと。講座のテーマ~歴史を風化させないために~を重く受け止めています。
・戦後樺太(豊原)から引き揚げてきたから凄く苦しい生活をしたこと、私自身はこんなことは早く忘れてしまいたい、過去のことは思い出したくないと思っている。
・歴史を振り返ることの大切さを知りました。今の政治家もしっかりと振り返ってもらいたい。石狩本町の空襲を体験した人のお話しに、上空の飛行機にマフラーをした米兵がニヤニヤしている表情が見られたそうです。
・風化させないために、命の大切さについて対話を通して分ってもらうことが大事だと思いました。いしかり市民が1人でも多く分って平和の大切さを知ってもらいたい。













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