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講座3 「村山耀一さんと歩く『石狩歴史散歩』」

第2回 「『北生振・高岡・八の沢(油田跡)』の碑と歴史の痕跡を訪ねて」

2015/07/02

 6月27日(土)、講座3「村山耀一さんと歩く『歴史散歩』」の第2回「『北生振・高岡・八の沢(油田跡)』の碑と歴史を訪ねて」を行いました。講師は、石狩市郷土研究会会長・場所請負人村山家子孫の村山耀一氏。受講者は29名でした。

 受講生の集合が早かったためバスは9時少し前に石狩市公民館前を出発しました。今回の行程は、まず、一番遠い八の沢油田跡に向かい、五の沢、高岡、北生振へと戻りながら碑と歴史を学ぶコースです。八の沢までバスで約30分、早速今日訪れる地域について村山さんの講義が始まりました。
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  北生振は、生振と元々は繋がっていたが、昭和7年の捷水路の完成で分断されて北生振として残っている。
 石狩の地形の概略は、我々が住んでいる花川地域(昔で言うと花畔・樽川・生振)は1万年~6千年前までは完全に海であった。江別の方まで海水が入っていた時代でクジラも泳いでいたのではないか。6千年前頃から陸地化が進み、現在の石狩湾新港のある石狩砂丘ができるのは8百年前と言われ、砂地と泥炭でできた平坦な新しい地形である。
北生振に入植した山口団体は、明治18年8月25日台風が発生して、熊本県の天草灘に上陸し、山口県に入り岩国に大きな被害を与え、北海道移住を決意する。20戸106人が下関から遠江丸(とといまる)という帆船で3週間かけて小樽に着いた。北生振に入植したが土地の条件が悪く14戸は高岡に再移住し、6戸だけ残ったという歴史がある。

 一方高岡は、厚田の望来方面と繋がっていて、今から500年程前から存在する海岸段丘または石狩段丘といわれる高台になっていて土地の状況はかなり違う。河岸段丘にある望来層と言われる地質の中には石油やガスが存在する。一時は北海道で最大級の埋蔵量がある場所と言われるほどで、八の沢、厚田望来の無煙浜、戦後は茨戸油田(現在のガトーキングダム辺り)の3か所から石油・ガスが産出された時期があった。今日はその1つ八の沢油田跡を訪れる。
 河岸段丘とか石狩段丘に属する高岡を含めて五の沢、八の沢の一帯は樺戸山地といわれて、阿蘇岩山(418m)は旧石狩市で一番高い山である。この山は現在航空自衛隊のレーダー基地で、北はサハリン、南は三沢、東北の北部一帯を監視する重要な場所になっている。
 
 石狩の油田は、安政5年幕末期に函館奉行所詰所役人荒井金助らが望来海岸で油の浸透を見つけ調査を始めた。その後八の沢、春別、五の沢で新たに埋蔵のあることを知り、明治期に開発が行われた。本格的に行われたのは明治末期、日本石油が開発に力を入れた。明治44年には既に軽川(今の手稲駅隣)に製油所を設けパイプラインが通っている。パイプラインそのものは昭和2年で、八の沢から五の沢、高岡、来札までガソリンカ―軌道とパイプラインで原油・ガスを輸送した。明治の末から大正・昭和にかけて石油の産出が行われていたのである。

 バスは、五の沢から狭い林道を通って八の沢鉱業所跡に到着。新緑匂う草木と鶯が美しい唄声で迎えてくれた。

元石狩町立八の沢小学校門柱
 路肩から山側1.7m程の高台に、八の沢小学校門柱が残っており、校舎の跡地は草木が茂っている。昭和2年五の沢尋常小学校八の沢特別教授場として開校、昭和23年八の沢小学校となったが昭和37年廃校となる。
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石狩油田八の沢鉱業所跡碑
 門柱の横には、記念碑と昭和23年頃の見取り図がある。学校跡地から正面の地形を眺めながら、昭和初期の最盛期には年間産油量約1万キロリットル、従業員250余人の活況を呈した様子をうかがい知ることが出来る。しかし、昭和35年(1960)採掘から81年の歴史を閉じた。この状況を残すために五の沢の岩本龍夫氏が「石狩油田史」を著わし、平成12年年八の沢石油友の会が記念碑を建立した。
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八の沢油田跡石油噴出場所
 記念碑から少し進むと左側の草むらに「火気厳禁立入禁止」の立て札が見える。辺りには石油匂が漂い、ボコボコと原油とガスが自噴していて、周囲が原油で黒褐色に染まっていた。ここから軽川の製油所までパイプラインで運ばれていたことが確認できる。
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伊夜日子神社碑
 八の沢石油鉱山に創設した神社で昭和2年に建立された。閉山により御霊は札幌中島公園内の伊夜日子神社に移され、社殿は五の沢に移築され五の沢神社となっている。碑の側面に「社長橋本圭三郎閣下御書」とあるのは、昭和2年に貴族院議員で日本石油株式会ニ代目社長であった橋本圭三郎氏が視察のため来訪時に記したものとのこと。
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五の沢小学校跡地
 八の沢から五の沢小学校跡地に戻る。校庭は更地となっていて、門柱と「開校65周年」の記念碑、昭41年に五の沢部落総出で移植したおんこの木が残っている。明治43年開校。校舎は来札にあった樺太アイヌの児童のために建てられたものを移築したもの。昭和57年閉校となった。
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五の沢神社
 創立期は不明であるが明治35年ごろといわれ、八幡神社の末社となっている。社殿は伊夜日子神社を移築したものである。ここには、珍しい『牛魂碑』がある。昭和25年にホルスタイン20頭を導入し、牛の数も180と一戸平均6頭となり、15周年を記念して建立したものである。また、五角形の「地神塔」がある。四国の方では神社のような役割を果たしていたようである。この地域は徳島県や山口県から入植している人が多く、そのことと関わりがあるようだ。
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車窓見学
 次の見学地に移動途中、地蔵沢にある三つの碑を車窓見学する。地神塔・馬頭観世音・地蔵菩薩の三つである。地蔵菩薩は、開拓当時行きずりの方や農作業中、あるいはクマに襲われるなど事故で亡くなった人を祀ったとされている。地域の人の手で花壇も整備されていた。
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高岡小中学校開(閉)校記念碑  
 高岡小中学校の跡地は、現在ふれあい研修センターとして整備され、煉瓦造りの校門や記念碑が残されている。
27,3,2,18.JPG27,3,2,17.JPG27,3,2,16.JPG高岡神社 境内の碑
 隣接する高岡神社の境内には、「開拓三十年記念碑」や「高岡開基百年」碑(重さ15 t以上もある最大級の石造り)があり、説明版碑文により山口県より入植し百年に至るこの地区の人々の歴史を知ることができる。
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 神社の向かいには牛馬観世音と馬頭観世音菩薩の碑がある。高岡地区には他に地蔵沢と五万坪の三か所にあり、馬頭講を開いて供養をしているとのこと。地域の人々にとって大切な役割を担っていたことが覗える。
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豊穣無窮 碑 (北生振九線)
 生振地区は砂地と泥炭、そして石狩川の水は塩分が含まれているため貯水池で浄化させなければならなかった。昭和25年故飯尾町長が企画し、長い歳月と費用をかけて困難を克服し、昭和49年完了。区域農民の経営安定が築かれた。534cmと高さのある碑である。
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生北神社(北生振八線)
 生北神社は明治37年の創設で付近の稲荷神社(上テイネイ)」を合祀している。この神社の境内にも色々な碑が建立されている。
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開田之碑(建立 昭和40年)
 この地区は砂地と泥炭地で畑作酪農経営であったが、石狩川から揚水しての造田事業を企て、戦後の昭和22年12月から雪中をおかして工事に着手し23年5月に完成、通水開始作付した。
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水屋記念碑(建立 平成14年) 
 村山さんは「水との闘いの歴史でもあった」という。昭和29年、開拓地に1戸入植し、その後37年までに16戸入植した。水は茶褐色で鉄分の多いカナケ水のため、衣類は赤色に染まり、飲料水確保が課題であった。最終的には水道を引くために努力をしたことを碑として残している。
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佐々木トメ老婆紀念碑
 地域で「子育て観音」と呼ばれる佐々木トメ老婆紀念碑は、明治44年に建てられた。佐々木トメは、天保13年(1842)岩手県に生まれ佐々木家の養女に入り、お産の技術を身に付けた。明治4年に札幌市月寒に入植する。一時盛岡に帰るが、再び月寒に戻り産婆をおこなう。
 明治34年に生振に娘夫婦と移住する。開拓のかたわら生振、八幡地域で産婆として活躍し、その技術や心得を地域の女性に伝えた。以来、お産の事故が減少する。碑はトメの生前(69歳)に建立された。貴重な存在の産婆さんの活躍を讃えたものと考えられる。珍しい碑である。
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牛頭馬頭記念碑 (建立 平成14年)
 北生振地区は、開拓当時より開墾に馬を飼育していた。大正に入ってから酪農経営も始まり牛を飼う農家も増えた。戦前、戦時中は愛馬を軍馬として徴用された。地域の方がお金を出し碑を残すことは素晴らしいことである。
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地神塔(建立 明治37年)
 「地神さん」とも呼ばれ、五角柱型の石塔で、石に刻まれている五神はいずれも農業に関係する神であり、五穀豊穣を祈る一種の社で神社の役割を果たしている。この信仰は四国辺りで始まり、この地方出身の開拓者が広め、供え物をして豊作祈願と感謝祭を行ったようだ。
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正一位稲荷大明神 碑(建立 大正12年)
 正一位というのは、身分の序列で最高の位である。神には寿命が無いので年を経るごとに多くの神社が「正一位」になった。建立者は、忍路郡塩谷村の久保田留作で、昭和60年移築。可愛らしい碑である。
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 以上で、講座は、全て終了しましたが、帰路の車中でも、送油塔のあった場所を確認するなど学習が続きました。

~寄せられた受講生からの声~
 行き倒れの人を供養したり、家畜を供養したり、産婆さんの苦労を讃えたり、先人の優しさを感じさせる碑の歴史散歩でした。かくれた史跡が随分多く、石狩は古い歴史の地であることがよくわかった。今後も歴史散歩を続けて欲しい。




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