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講座9 『石狩遺跡と縄文文化~石狩市の遺跡と人々の暮らし』

第2回「石狩の縄文文化」

2011/09/22

 9月22日(木)講座9『石狩遺跡と縄文文化~石狩市の遺跡と人々の暮らし』の第2回「石狩の縄文文化」を花川北コミュニティーセンターで行いました。講師は、いしかり砂丘の風資料館・学芸員の石橋孝夫さん、受講者は31名でした。

 石橋さんは、まず前回寄せられた質問に答えることから始められました。

9-2-11-2.JPGのサムネール画像 発掘は事前に超音波などで調べることはなく1m四方の試し掘りをすること、紅葉山49号遺跡の辺りは、砂丘部が18m、低湿部は2m位の標高であること、勾玉の穴は、中空の竹等を回転しながら開けること,などです。

9-2-1.jpg さて本論ですが、石狩紅葉山49号遺跡は、河川でのサケ漁を中心とする木製の漁撈施設【・えりと仮称】がほぼ完全な形で出土した縄文時代では国内始めての例だそうです。

◇紅葉山49号遺跡の立地環境と年代
石狩紅葉山49号遺跡は、私立紅南小学校の南側にある発寒川遊水地から龍徳寺に至る一帯にあり、砂丘と一部は低湿地遺跡となっているのが特徴。低湿地遺跡とは、泥炭地や河川などの影響により常に水漬けの状態にある遺跡のこと。

年代は、古くは、縄文時代前期(5500年前)の土器が1点出土(その頃、砂丘が人の暮らせる環境となった)
最も新しい年代の遺構は、18世紀ごろのアイヌの墓。
最も多いのは、縄文時代中期後半から後期の時期のもの。

◇低湿地遺跡
縄文海進と発寒川の影響で低湿地化した。縄文人の生活が水辺ぎりぎりか川の中まで利用したので遺跡が形成された。また、時代とともに河道が南に離れたので遺跡が削られずに残った。

◇イチャルパ
18世紀のアイヌの墓が出土した際、札幌アイヌ文化協会が先祖供養【イチャルパ】を行った。

9-2-4.jpg◇発掘期間、規模
開始:平成7(1996)年、終了:平成16(2005)年、発掘面積:19,700㎡、遺物数:9万点

◇低湿地からの出土
当初、発掘予定は砂丘上だけだったが、平成11(1999)年秋に湿地側から後に「リース」と呼ばれるようになった木製品が出土。湿地の中にも遺跡がある事が分かって、調査計画が見直された。

9-2-23.jpg砂丘遺跡の発掘も難しいが、低湿地遺跡の発掘はさらに難しい。保存処理をしないと乾燥後、収縮し、粉々になる。
一番困難だったのが、「柵」の取り上げだった。

◇新時代のツール
測量機械ではレーザートランシット、記録ではデジタルカメラ、パソコンが使われた。

◇石狩地震跡
氾濫原の地層から地震の跡が発見された。これは、天保5(1834)年の石狩地震(マグニチュード6.4)によるものと考えられる。

9-2-24.jpg◇紅葉山49号遺跡の調査成果
・河川漁撈の仕掛けがほぼ完全に残っていること。
・漁撈に伴う道具類と漁に使用されたと思われる同時代の住居跡が見つかったこと。

9-2-36.jpg◇漁撈の様子を表すもの
・出土した遺構
漁撈施設(杭列)
9-2-26.jpg柵(しがらみ)
9-2-33.jpg9-2-16.jpg住居跡
・遺物
魚たたき棒
9-2-37.jpgタモ
9-2-30.jpg松明、銛の柄、燃えさし、丸木船
9-2-31.jpg木製容器類
・魚の骨や歯は、ウグイ、サクラマス、シロザケの3種
・自然遺物
クマやシカの足跡、昆虫の羽根、貝
9-2-29.jpg・その他
縄文人の足跡(20㎝)

9-2-13.jpg◇漁の方法
杭と柵で魚の遡上をさえぎり、魚道を作って魚を誘い込む方法。
9-2-14.jpg9-2-39.jpgアイヌも縄文人とほぼ同じ漁法を行っている。

9-2-18.jpg◇サケ捕獲の目的
生食だけではなく、越冬あるいは非常用食料として保存するため。加工法は不明だが、塩の生産は未確認のため、晩秋、体脂肪の落ちたサケを天日に干す加工が主流だったと考えられる。燻製を作ったかどうかは不明。

◇捕獲量
捕獲の仕掛けは、縄文、続縄文、擦文、アイヌへと受け継がれ殆ど構造の変化はなかったので、縄文時代の漁獲量は、江戸時代の発寒川河口での漁獲量200石(1石は60尾)と同程度ではないかと推測される。

◇干しサケの食べ方
シロザケ一匹の栄養価は2キロ程度で、成人男子の一日の必要カロリーが賄える。冬季の12月から5月の6ヶ月間をサケで賄うとすれば一人当たり180尾必要。従って、200石(12000尾)のサケで60人以上が越冬する事が出来る。縄文時代にサケがどのようにして食べられたかの証拠はないが、干して煮て食べたと思われる。

◇まとめ
紅葉山49号遺跡は砂丘と低湿地からなる遺跡で、ここに住む縄文人は、発寒川に上ってくる魚資源と周辺に生息するシカ、クマ、キツネ、鳥類を獲って暮らしていた。魚は、骨などからウグイ、サクラマス、シロザケが捕獲されていたと考えられ、これらは、集団で遡上し、定置式漁撈施設で集約的に捕獲するのに向いている。定置式漁撈施設の構造は、その後の続縄文、擦文、アイヌにも引き継がれるテシあるいはウライと呼ばれるサケ科魚類を捕獲する漁撈施設と同じ構造である。縄文人にとって、シロザケは貴重な食糧であり、石狩紅葉山49号遺跡の漁撈施設は、主としてシロザケを狙うものであったと考えられる。49号遺跡の存在は、東北・北海道一円で同様のサケ漁撈が行われていたことが想定され、サケ漁撈は北国の縄文人の生活を支えた主要な生業の一つと考えることができる。

9-2-17.jpg 講座はちょうど時間どうりに終了しましたが、ひとつひとつの事柄について丁寧な石橋さんの説明を聞いて、紅葉山49号遺跡はどんな遺跡なのか、どんなものが出土したのか、それらを用いて縄文人がどんなくらしをしていたのか、などが大変良く理解出来たのでした。

 

 


 




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