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主催講座5「新北海道遊里史考」第2回「薄野遊郭から北海道開拓使の裏面を見る」

2023/07/03

 7月1日(土)、主催講座5「新北海道遊里史考」の第2回「薄野遊郭から北海道開拓使の裏面を見る」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、民衆史研究家の石川 圭子さん、受講者は43名でした。

 前回は、国内の梅毒感染状況、世界や日本の娼婦の歴史、寺社と博徒などのお話でしたが、今回は、薄野遊郭のお話でした。
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1.薄野遊郭の誕生
1)薄野が誕生する前の札幌
・明治2年 開拓使手代 高見澤権之丞 記 「札幌区沿革図」(札幌市中央図書館所蔵)
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図中に用水とあるのは、幕臣の大友亀太郎が農地を広げるために慶応2年から慶応4年の2年間で掘った大友掘り。また、豊平川の両岸には吉田毛八、志村鉄一が住んで居た。
・一ノ村新堀川(大友堀)1871(明治4)年(北大付属図書館蔵)
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「札幌元村(現在の札幌市東区)」の民戸数:和人23戸、アイヌ3戸。
・大友堀が完成した慶応4年、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が起こった。
・戊辰戦争後明治時代になって、北海道の政治の中心は箱館から開拓使が置かれた札幌へと移った。
・新政府は、ロシアの南下政策に対抗するため北海道開拓を急いだが、過酷な労働状況の為従事者が定着せず、その対策として遊郭が設けられることになった。
・明治4年9月3日 官許の薄野遊郭誕生。
明治4年頃の薄野遊郭(北海道大学付属図書館収蔵)
「茅野原の中、越中屋、秋田屋、北海楼など7軒のあばら家が二町四方に軒を連ねたり」
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物語・薄野百年史の記述
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 薄野遊郭で働く女性が相手にしていた客は土木工事の人夫など肉体労働者で、複数の男性の相手をするのは過酷な労働であった。貧困の為、身内に売られたり家族を支える為に身を置く女性が大半であった。望まない妊娠や性病を患っても客をとらなくてはならず、病状が悪化し客が取れなくなると、筵に包まれ遺棄される(鴨々川)事も多かった。これは、前借が残っている、世間体が悪いなどの理由で、引き取る身内が少なかったからである。
札幌という都市を創る為に官許の遊郭として誕生した薄野遊郭だが、本名すら知られることもなく消えていった命がたくさんあったことは記憶にとどめておきたい。
・薄野の妓楼
活況を呈する日本海沿岸漁場の女郎屋が進出した。
秋田屋 楼主 菅野治左衛門(銭函より)
越中屋 楼主 中川良助(石狩より)
 越中屋に掲げられていた木札
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 北海楼 楼主 高瀬和三郎(函館より)
・有力楼主の略歴
中川良助―越中富山生まれ。札幌消防組を組織した。
高瀬和三郎―羽後国(秋田県大館市)生まれ。21歳で箱館へ渡る。明治4年に札幌へ。明治5年に北海楼開業。薄野見番を設ける。札幌花柳界の重鎮となる。豊平村字平岸の土地を購入して果樹園を経営。夕張群角田村の土地を購入、水田の開発に尽力。真言宗 成田山札幌別院・新栄寺の石垣に高瀬和三郎の名が刻まれている。
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 前野五郎―阿波徳島藩士の次男。新選組隊士。開拓判官岡本勘輔の下で樺太赴任。山田フクと結婚し薄野遊郭内で女郎屋を営む。屋号がなかった。明治24年、妓楼で稼いだ金をつぎ込み、千島で漁協組合を設立した。

2.戊辰戦争・明治維新と浄土宗
1)浄土宗について
・1175年に比叡山を下山した法然上人は、知恩院を開山し、以後、知恩院は浄土宗の中心地となった。
・法然を師とした親鸞は浄土真宗を開いた。
・親鸞の教えは弟子たちがそれぞれ引き継ぎ本願寺もそのひとつ。
・本願寺は大阪に本山を置き(大阪本願寺、現石山本願寺)、寺内町(じないちょう)と云う信者らを中心とした自治組織を作った。
・本願寺は信長との戦争をきっかけに東西へ分岐した。
・東本願寺は徳川家康から土地を寄進され江戸時代以降京都で栄えた。
・仏教伝来以降、神と仏は同じものとする神仏習合と云う考え方が続き、戦いのない江戸時代は寺社勢力を中心とした文化が根付いた。
2)仏教の受難
・幕末の日本は、大飢饉、ペリー来航、ロシアの南下政策などで、社会秩序が崩壊し民心の不安が広がった。
・民心の不安に寄り添うかたちで、古き良き時代の日本の精神に回帰しようと云う国学(荷田春満、加茂真淵、本居宣長、平田篤胤)が盛んになり、神話の神々の系譜や文脈を普及する神道が重視されるようになった。
・徳川が信奉する仏教は、外来宗教であるとの声があがった。
・明治政府は、倒幕後「神仏分離令」を発令した。
・民衆の間には仏は穢れだとして「廃仏毀釈」運動が興った。
・幕府の庇護下にあった浄土宗・浄土真宗は窮地に陥った。
江戸時代、寺は寺請制度(キリシタンではないことを寺院に証明させる制度)の役割を担っていた。
明治4年、新政府は壬申戸籍と云う戸籍法を制定。皇族も平民も「戸」を単位に戸籍を集計するようになった。
3)北海道とお寺
・東本願寺は、布教と云う名のもとに世継ぎの現如を北海道へ送り出し、真宗大谷派札幌別院を開くとともに、新政府への忠誠を誓う証として、現在の国道230号線の元となる本願寺街道を開いた。
・薄野遊郭があった周りには、古寺が軒を連ねており、北海道開拓期の移民政策の一役を担っていたことがわかる。
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3.その後の薄野と札幌の街
①荒野の中のあばら家だった遊郭が礎となり、札幌は街としての体裁が整った。人口が増え、土地も広がり、北海道と命名されてから50年を迎えるのを機に中島公園で大博覧会の計画が持ち上がった。また、博覧会への天皇行幸を機に、薄野遊郭移転が構想された。
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②明治も40年代頃になると遊郭の外観も二層楼・三層楼と近代的になり、人力車が往来し、ただの茅野原だった薄野もあか抜けた街へと様変わりしていた。1905(明治37)年、日露戦争が開戦。軍服を着た男性が多い。
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4.薄野遊郭の移転
①札幌本府建設に集まった大工たちを目当てに料飲店や売女屋が増え、開拓使はこれらを薄野一か所にまとめ、札幌遊郭(薄野遊郭と呼ばれた)を定めた。
②薄野が市街化すると、遊郭の移転が計画された。
③リンゴの病害虫に悩む白石村の果樹園主たちが遊郭用地を寄付して誘致に成功した。
④大正9年までに移転を終えた札幌遊郭は一般に白石遊郭と呼ばれた。通りに面して30軒ほどの妓楼が立ち並び、通り中央に小川が流れていた。遊郭の東西の端に大きな門があり、国道36号線からこの門に至る道は大門通とよばれた。
大正9年7月25日「北海タイムス」掲載 建設中の白石遊郭(札幌市公文書館収蔵)
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⑤昭和26(1951)年、札幌市の風俗取締条例制定とアメリカ軍の撤退で廃業する妓楼が相次ぎ、昭和33(1958)年の売春防止法完全施行で白石遊郭は姿を消した。
5.薄野・中島公園動向
①中島公園・料亭「花月」
亘理藩出身の笠原文司(箱館戦争時、榎本武揚の配下)は、明治18年、南5条西3丁目に花月楼を開く。さらに明治20年、中島公園内に料亭「花月」を開いた。「花月」は、令和5年現在も唯一現存している。
②花輪喜久蔵(岩手県大船渡市三陸町綾里宮野 出身)
北海寺(中央区南3条東4丁目)現本堂、真宗大谷派札幌別院 東本願寺、曹洞宗 中央寺、成田山 新栄寺、小樽金毘羅大本院などを建築。
※小樽には、「南廓」と「北廓」の二つの遊郭があった。

 以上が本日のお話の概要ですが、札幌の街の発展と遊郭やお寺とのつながりが良くわかるお話でした。
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 最後に受講者から寄せられたコメントをご紹介します。
「北海道・札幌の開拓に関心を持っており大変勉強になります。表面の資料は集めやすいのですが、この分野はこの様な機会でないとなかなか調べることが出来ない。そして説明を聞くことができるので分かりやすいです。北海道の開拓がロシアの南下政策への対応策でありながら、海岸線や国境を守る正規軍の配置がなされなかった理由が知りたい!実効支配をしているだけでよかったのか?」
「昔の薄野をのぞくことができました」
「今迄聞けなかった北海道開拓の(裏面の)歴史を紹介して頂き、北海道の歴史に興味が湧いてきました」
「大変興味深くわかりやすく学ぶことができました。北海道開拓期の開拓使の目論見と民衆一般の人々の思いや動き、女性の側(遊郭)からの歴史を聞くことができ大変有意義な時間でした。ありがとうございました」
「私の曽祖父が福島県から釧路米町に入り『妓楼』を開業したのは、今日のお話より少しだけ時代が下がってからのことですが、伺ったお話からも共通する開拓時代の政治、経済や人々の価値観、当時の考え方を垣間見ることが出来ました」
「貴重な資料を見ることができ良かったです」
「今日も目からウロコの歴史秘話がいっぱい!とても楽しめました」

 




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