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まちの先生企画講座6「歴史探訪 北海道開拓に尽力した人物の生誕地を巡る」

第3回「北海道の名付け親・松浦武四郎の伊勢の旅」

2023/03/19

 3月16日(金)まちの先生企画講座6「歴史探訪 北海道開拓に尽力した人物の生誕地を巡る」の第3回「北海道の名付け親・松浦武四郎の伊勢の旅」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。
講師は郷土史研究家の武石詔吾さん、受講者は33名でした。
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 本日は、松浦武四郎について以下のような形でお話が進められました。
1.松浦武四郎と北海道
2.松浦武四郎の経歴・足跡
3.生誕地探訪
4.晩年
5.まとめ

1.松浦武四郎と北海道
※歴史一口メモ
 武四郎は最初竹四郎と名付けられたが武士の武のほうが勇ましくて良いということで武四郎となった。
松浦武四郎は、北海道の名付け親と言われるが、北海道命名の地は、音威子府と言われている。
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・武四郎は、安政4(1857)年7月にアイヌの長老(アエトモ)宅で人々が「かい」と呼び合うのを聞き印象に残した。「かい」はアイヌ語で「自分の住んでいる場所」と云う意味。
・明治2年7月初代開拓使長官鍋島直正から蝦夷地道名之儀を仰せつけられた武四郎は、「東北道」「北加伊」等6案を提出した。「加伊」⇒「かい」⇒「北海道(北に住む人々)」⇒明治2年8月15日決定。また武四郎は、北海道を11国86郡に区分した(これは北海道開拓の基盤となった)。現在は、14振興局だが、武四郎の区分と大差ない。
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※松浦武四郎は、北海道の名付け親というより北海道の生みの親というべき。
※歴史一口メモ
北海道と名付けたのは、武四郎だけか?
徳川斉昭が「北方未来考」と云う書物で北海道と云う言葉をつかっている。

2.松浦武四郎の経歴・足跡
1)松浦武四郎の旅の始まり
・文政元(1818)年、郷士の家に出生。
・天保4(1833)年、家出して江戸へ。
・天保5(1834)年、旅に出る。17歳。
※歴史一口メモ
武四郎はどうやって旅費を工面したか?
・江戸滞在中に習った篆刻の技術を生かした。
・当時は伊勢参りがブームで、武四郎は伊勢の事情を紹介したり、お守りを書いたりして報酬を得た。また、実家に手紙を託すなどした。
※歴史一口メモ
武四郎の旅心を掻き立てた物
・名所図会(めいしょずえ)
・文政のおかげ参り(1830年当時の人口3,000万人のうち400万人が伊勢参り)
①旅の途中で蝦夷探検を決意
1843年に長崎滞在
了縁和尚から詩歌や書画を習い、津川文作(薬草研究者)からは、ロシアの南下、外国船の蝦夷周辺航行等で北辺は危機状況にあり北方探検の緊要性を学んだ。
②蝦夷出発の決意
1844年2月20日伊勢神宮へ参拝。
武四郎27歳の決意⇒「是より蝦夷が島の隅々まで探り、何れの日か国の為ならんことを」
2)1回目の蝦夷地探検 弘化2(1845)年 28歳
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当時蝦夷地の出入りは松前藩に厳しく禁じられていたので、戸籍を移して江差の人別帳に入り商人の手下となる。
※場所請負制度でアイヌが虐げられている状況を知る。
※歴史一口メモ
アイヌは、樺太や千島などと交易しており、ロシアや中国からは絹織物、木綿、銅、刀、陶器を手に入れ、アイヌからはニシン、熊皮、鹿肉、昆布、ラッコ毛皮、ワシの羽、ガラス玉等を提供。
松前からアイヌへは、米、酒、たばこ、陶磁器等。
①アイヌと松前藩との交易
※オムシャと運上屋
アイヌ語で挨拶の事。本来は交易に訪れた客人をもてなす行事だったが、次第に和人のアイヌ支配や主従関係を確認する場となっていった。
・運上屋
場所請負人とアイヌの公益の交流拠点で漁場の経営や松前藩の出先機関としての役割。かっては80か所ほどあった。旧下ヨイチ運上屋が国史跡に指定されて保存されている。
・黒印状(幕府が松前藩に与えたアイヌとの交易の独占権)
商場知行制:アイヌの住んでいる地域毎に公益の場を設定。家臣とアイヌとの交易⇒アイヌは自由な移動、交易をすることができなくなった。
・交易レートの変化
干鮭を例にとると・・
1604年 干鮭百尾⇒交換米:米2斗
1660年   百尾⇒交換米:1斗
1782年   百尾⇒交換米:8升
「クナシリ・メナシの戦い」
・1789年、場所請負人飛騨屋の和人の暴虐に対するアイヌ民族の武装蜂起⇒飛騨屋使用人71名を殺害。アイヌ首謀者37名を処刑⇒戦いの鎮定に協力したアイヌの長老に感謝の意を込めて松前藩家老蠣崎波響が肖像画を描く(夷酋列像)⇒内実は松前藩の統治を誇るもの。この絵は、日本にはなくフランスにある。
・この戦い以降、アイヌには抵抗する力がなくなり、場所請負制が確立(1800年前後)、制度が廃止される明治9年までアイヌの立場は交易相手から労働者へと転落、労働強化や強制移動、人権無視などが続く。
・場所請負制度の影響
ある村の戸数変化
1821年⇒366戸1326人  1849年⇒173戸350人
・撫育同化政策
本州と同じ暮らしの強要⇒ロシアの南下政策―蝦夷地は日本領。
※歴史一口メモ
アイヌの人々の三大蜂起
・コシャマインの戦い(1457年)・シャクシャインの戦い(1669年)・クナシリ・メナシの戦い(1789)
3)2回目の蝦夷地探検 弘化3(1846)年 29歳
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・アイヌ語を使えるようになった。
・松前藩の目を逃れる為、医師の下僕として旅をした。
※蝦夷(北海道)通の第一人者と云う意味で「北海道人」と名乗った(この頃すでに武四郎は北海道と云う名前の腹案があったか?)。
※歴史一口メモ
武四郎の旅の様子
・「えみしらも しらぬ深山に 分けいれば ふみまよふべき 道だにもなし」
・アイヌの住居のチセ、仮小屋のクチャ等の宿でアイヌと寝食を共にする。
4)3回目の蝦夷探検 嘉永2(1849)年 32歳
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択捉、国後まで探検
トマリ(国後島の村)の人々からシャリから移動させられたことを聞く。これは、場所請負制度の悪弊。
武四郎は、アイヌ語での日常会話が可能となっていた。
当時のアイヌの人口⇒2万人~4万人。
5)4回目の蝦夷探検 安政3(1856)年 39歳
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■「蝦夷地御用御雇人」に登用される。
6か月半:樺太、蝦夷地一周。
※武四郎は一日60㎞も歩くほど健脚だった。
「東西蝦夷山川地理取調図」を作成。
これは、明治中期まで使用された。近藤重蔵や間宮林蔵の地図はどちらかと云うと外郭の記載のみ。
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6)5回目の蝦夷探検 安政4(1857)年 40歳
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西蝦夷の河川、沿岸
武四郎の絵画―絵は上手だった。
ゲバ描法―細い線を使い、いかにも高低差があるように描く手法。
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7)6回目の蝦夷探検 安政5(1858)年 41歳
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内陸部の調査
※「近世蝦夷人物誌」作成。アイヌの人物の業績と松前藩批判を記す書物(武四郎は、アイヌたちの恨みの声を各界有識者の方々に知って頂きたい、と記述している)。しかし、発行禁止となった。武四郎没後24年の明治45年に雑誌「世界」に掲載される。
※更科源蔵著「アイヌ人物伝」
※水戸藩―蝦夷の情報収集するため武四郎を支援。
※ここでちょっと頭休め
次の3つは何と読むか?
弟子屈、晩生内、馬主来
2つ目は、空知のオソキナイ。3つ目は誰も分かりませんでしたが、パシクル(白糠町)。
8)武四郎の銅像
①釧路市 昭和33年 久摺(クスリ)日誌発刊100年記念。
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②③西蝦夷日誌記載を記念して、平成7年小平町に、平成8年天塩町に建立。
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・札幌や道央には一つもない。
・記念碑は、道内各地無数にある。
9)明治期の武四郎の経歴
・明治元年:箱館府判官事
・明治2年:道名・国郡命名。
※開拓使判官としての要望⇒
場所請負制度の全廃⇒明治9年
松前藩の廃藩⇒廃藩置県
・明治3年開拓使辞職、従五位返上。
雅号を「馬角斉(ばかくさい)」とした。
・明治21年2月逝去。享年71歳。
※歴史一口メモ
北海道旧土人保護法
・明治2年蝦夷は北海道へ。北海道は無主として国有地に編入。
・明治11年、開拓使はアイヌを旧土人とした⇒アイヌは、居住地、生産手段、生活様式、文化・伝統の変化や禁止を被った。
・明治32年:北海道旧土人保護法が制定される。
※勧農・医療・教育
・1戸5町歩⇒アイヌの農民化―生活の保護。
・土人学校⇒分離教育
・薬代⇒補助
この法律が、平成9年のアイヌ文化振興法(アイヌ文化の振興並びにアイヌ文化伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律)施行まで続いた。 

3.生誕地探訪
平成30年3月20日訪問:近鉄伊勢中川駅
生誕200年を記念した垂れ幕があった。北海道の値付け親とも書かれていた。
平成11年に生まれた「たけちゃん」と云うマスコットキャラクターがあった。「たけちゃん」は野帳を持ち、豆を入れた袋を身に着けていた。
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生家
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土倉と判官就任祝いの灯篭があった。
ちなみに判官の給料は200円(現在の200万円)
雲出川(くもずがわ、渡が生家から数分の所にあった)。渡には旅籠があり、武四郎は、天気待ちの人々から色々な話を聞くことができた。
松浦武四郎記念館
館内には多くの資料が展示されていた。
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4.晩年の武四郎
・明治18年第1回大台ケ原(奈良県と三重県の県境)探検。
・70歳で富士山登山。
・明治20年、一畳敷書斎完成。
各地の神社、寺等の古材を集めた。⇒国登録有形文化財。
・そのほか石集め等にも凝った。

6.まとめ
1)武四郎の人物像
旅行家、探検家、作家、ルポライター、歌人、画家、宗教家、登山家、民俗学者、出版業、骨董品・古銭収集家、考古学者等多岐にわたりどれも一級品。
開拓神社に37人の一人として祀られている。
2)業績
北海道の地理的状況を明らかにした⇒北海道開拓の指針となった。
■先住民・アイヌ民族の存在を知らしめた⇒アイヌ社会の状況を明らかにした(誤った認識―日本は大和民族の単一国家)
アイヌに対して、民族としての保護・救済・自立政策を訴えた⇒和人とアイヌの対等な関係を切望。
歩き、自分の目で見て、耳で聞き、生の情報を集め・記録⇒野帳。
その情報を分析・考察
自分の意見を持つ・まとめ(本、地図等)・発信する
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地図や書物等に著した。
3)松浦武四郎とは
「旅には生きた学問がある。人が人を知らずして、なんで人の道をまっとうできようか」
⇒自由人として生き抜いた小さな巨人⇒松浦武四郎
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◇結び(武石さんの言葉)
 私は、市民カレッジのみなさんに今日で7回お話させて頂きした。みなさんの中には私より先輩の諸氏もいらっしゃいますが、みなさんの学ぶ姿勢に私の方が大いに学ばせて頂きました。まさに「学び」に「学ぶ」ことができた、と思っています。ありがとうございました。どうかこれからもご健康で学び続けて頂きたいと思います。
最後にこんな絵でお礼を申し上げます。
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 以上で本日のお話は終了しましたが、松浦武四郎と云う人物の生きざまが大変良く分かるお話でした。
また、単なる探検家ではなくアイヌ民族に対して公平なまなざしを持ち続けた人物だったことも理解できました。ありがとうございました。

 最後に受講者から寄せられたコメントをご紹介します。
「身近な解説で想像(する事が)でき、非常に楽しかった。今後道内各地を歩くことがあれば、この度の企画で学んだことを頭に入れて観光したい。ちなみにこれまで、松前、新ひだか町(静内)、余市に住んだことがあり‥関連が楽しかったです」
「今迄アイヌの講座でアイヌの苦しみをかなり聞いてはいたが、今日の武石さんの話で別の角度からアイヌの苦しみを色々知ることができた。それにしても、松浦武四郎の人間性、先進性を改めて知ることもできた」
「武四郎の探検足跡により築き上げたもの、アイヌとの親交、正確なMAP,どれをとっても素晴らしい。NHK大河で取り上げたら面白いと思うのだが・・」
「大変勉強になりました。松浦武四郎については、学校で習った程度の知識しかありませんでしたが、詳しく教えて頂き、ありがとうございました」
「楽しい有意義な3回講座に感謝しています。北海道開拓に大きく関わった人物を生き生きと分かりやすく解説して頂き、益々興味関心が高まりました。歴史一口メモも有効でした。武石先生にはお元気で益々ご活躍下さいますように!」




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