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まちの先生企画講座6「歴史探訪 北海道開拓に尽力した人物の生誕地を巡る」

第1回「開拓使の主要人物を輩出した薩摩の旅」

2023/03/06

 3月2日(木)、まちの先生企画講座6「歴史探訪 北海道開拓に尽力した人物の生誕地を巡る」の第1回「開拓使の主要人物を輩出した薩摩の旅」を石狩市花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、郷土史研究家の武石 詔吾さん、受講者は32名でした。
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武石さんは、これまで令和元年度に「北海道の歴代長官」、令和3年度に「銅像を通して北海道開拓の先達者を点描する(コロナ感染症拡大のため、3回のうち1回のみ実施)」の2講座を担当して頂いたのですが、今回は開拓に尽力した人物を生誕地からの視点で考察します。
◇今日のお話
その1 薩摩出身者の主な業績~長官、三県・一局時代、産業界等の主な人物~
その2 薩摩人が多いのは何故?
その3 生誕地探訪
まとめ

 なお、今回の講座は武石さんの前の講座内容を頭に入れると非常に分かりやすいと思います。以前の講座記事をすぐに読めるようにしておきますので、ご利用ください。
令和元年度「北海道の歴代長官」
第1回1/16「開拓使・三県の設置と長官県令の足跡と業績」

https://www.ishikari-c-college.com/topics/2020/01/4-35.html

第2回1/23「三県・北海道庁の設置と長官の足跡・業績」

https://www.ishikari-c-college.com/topics/2020/01/4-36.html

第3回1/30「戦後の知事と歴代長官等の点描」

https://www.ishikari-c-college.com/topics/2020/02/4-37.html

令和3年度「銅像を通して北海道開拓の先達者点描する」
第1回1/20「『明治・大正・昭和』戦前編~その運命を辿る~」

https://www.ishikari-c-college.com/topics/2022/01/4-47.html


その1 薩摩出身者の主な業績
①戦前の39人の長官と薩摩出身者
始めに戦前の北海道の時代区分と行政府についての話がありました。
〇開拓使時代:4代(2代黒田清隆、4代西郷従道) 
〇三県時代:1代(札幌県令 調所広丈、函館県令 時任為基、根室県令 湯地定基)
〇北海道庁時代:32代(2代永山武四郎、8代園田安賢、9代河島醇、11代山之内一次、22代池田清)
・9代河島醇時代―赤レンガ庁舎が火災にあい内部や八角塔が焼失、八角塔は北海道百年記念のおり復興された。
・8代園田安賢―それまで国費で運営されてきた北海道経営を住民税を基本とする地方費で賄うことを発案。そのため北海道会を設置した(明治34年第1回北海道会選挙《定員35名、現在道議会100名》)。
・22代池田清時代―昭和11年秋、陸軍大演習が行われ、大本営が北海道帝国大学に設置された。
・明治44年間の16人の長官等のうち薩摩出身者は8人で32年間長官等を務めたが、薩摩出身以外は人数こそ同じ8人だが、務めたのは12年間に過ぎなかった。薩摩の次に多いのは、佐賀県で4人。
②黒田清隆(北海道開拓の祖)
・明治36年に北海道初の銅像として黒田清隆像が建立された。昭和42年再建。
・明治3(1870)年、開拓使次官に就任。明治7年長官就任。
※北方経営に関する建議
・石狩に本府(北海道の首都)・外国人を雇って基礎調査・開拓使海外派遣制度等(明治4年渡米)
・初代米国弁務官の森有礼を通じグランド大統領に依頼して米国農務省局長のホーレス・ケプロンを招聘
・ケプロンの策定した開拓方針の具現化⇒開拓10年計画 明治5年~15年(予算は当時の国家予算の1年分の1,000万円)、北海道初の開拓計画(豊富な財源をもとに各種事業を推進)
・主な事業
官営工場の設置、海陸運輸の整備、札幌農学校の設置、農鉱業の振興、屯田兵制度の創設、移民の促進等
⇒今日の北海道の基盤を築いた⇒北海道開拓の祖。
※一口メモ
英人が薩摩藩の大名行列の前を横切り切られた生麦事件の時に黒田は随行員の一人であったが抜刀しなかった。その後の薩英戦争で英国に粉砕された薩摩は外国の国力を知り、それから着々と対抗策を講じた。
・開拓使海外派遣留学生
女子の派遣(津田梅子、山川捨松、永井繁子、他2人は早々に帰国)。留学生は薩摩出身者が多かったが帰国後北海道開拓に献身したのは33人中3人のみ。
・官営工場
工業局は、現さっぽろファクトリーを中心とした辺り。
全道に多数、石狩⇒缶詰工場
・「★」マーク
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官営工場の製品、開拓使が建設した建物には図のようなシンボルマークがつけられた。
・黒田と開拓使の関係については、黒田の開拓使、開拓使の黒田と云われ、明治11年の開拓使の幹部21人中11人が薩摩出身者で占められていた。
・開拓使官有物払い下げ事件が起こり(明治14年の政変)、黒田は明治15年に開拓使長官を辞任した。
③屯田兵制度の創設
・明治6年9月に永山武四郎、永山盛弘、時任為基、安田定則の4人が「北海道兵備設置之建議」を岩倉具視に提出。
・薩摩藩には、従来外城制度と云う屯田兵の先駆けとなるような制度があった。
・桐野利秋は、西郷の命を受け明治4年に真駒内~藻岩~琴似を視察、鎮台設置には琴似が適地と復命している。
※一口メモ
桐野は現地を案内した役人に対して1両2分(約6万円)を払った。
・明治8年、村橋久成が琴似兵村を建設したが、上司の松本十郎(月寒に兵村を置く腹案)により罷免させられた。
④屯田兵制度(明治7年~明治37年)
・屯田兵の必要性は、ロシアの南下政策に対する北辺の防衛、未開の北海道開拓、士族救済等の理由から。
・兵村数―37(南は室蘭輪西から北は士別まで、東は根室和田まで) 戸数―7337戸 総人数―約4万人
・屯田絵巻(廣澤徳治郎、軍務・日常生活等の記録、北海道有形文化財指定)
④永山武四郎
唯一、北海道に骨を埋めた人物(墓は里塚霊園)。永山邸が残る。明治21年、屯田兵本部長・北海道庁第2代長官。明治29年、第7師団初代師団長。
※明治時代に建立された5人の銅像(すべて薩摩出身者)
黒田清隆(明治36年)、東郷平八郎・大山巌(明治39年、七飯町)、大迫尚敏(明治40年、中島公園)、永山武四郎(明治42年)
※一口メモ
七飯町の東郷・大山の銅像は、元博徒の宮川勇が実業家に転身し、大沼の知名度アップのため建立した。
⑤産業界における二人の人物
㋑村橋久成
・琴似屯田の入植準備
・洋式農業の技術導入(七飯官園)
・札幌麦酒製造所の責任者(技術者は中川清兵衛)
㋺堀基
・屯田事務局長から民間に転身。
・石炭、鉄道等独占
明治22年北海道炭礦鉄道(北炭)設立時、社長就任。
北炭は、明治39年の鉄道国有化に伴い三井の傘下⇒北海道炭礦汽船(株)
・明治31年、野幌北海道炭鉱鉄道煉瓦工場設立(製鉄《レール》、煉瓦《トンネル、住宅、橋等》、コークス等)
・北海道炭鉱鉄道のレール製造所(岩見沢工場)設立
現、岩見沢レールセンター(青函トンネルの52㎞のロングレールを製造)

その2 薩摩人が多いのは何故?
①政府高官に薩摩人が多い。
・薩摩出身の参議―大山巌、寺島宗則、川村純義、松方正義
・「省」の「卿」(大臣・長官)―外務省・寺島宗則、文部省・西郷従道、海軍省・川村純義、開拓使・黒田清隆。
②歴史的背景
・富山に提供させた昆布、数の子などを清に輸出(昆布は甲状腺の病や血圧に効く)して莫大な富を得ていた。
・島津斉彬は、「エゾは日本の宝庫なり」として嘉永5(1852)年に石狩川沿岸34か所を調査。斉彬の死後も殿の遺訓として「北」を目指す考え方は残った。
・昆布等の物資は北前船で運ばれたが、その昆布を清まで運ぶルート「昆布ロード(北前船から鹿児島⇒沖縄⇒清)」が出来上がっていた。

その3 生誕地探訪―足跡を辿る
①黒田清隆
銅像・碑等はなく、案内板のみ。
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※一口メモ
北海道物産展の全国売り上げ上位は、鹿児島山形屋。品目は昆布が1位。
②村橋久成
英国留学(密航、1865年)した17名(他藩士2名を含めると19名)の一人。中村晋也作モニュメント「若き薩摩の群像」として残されている。
ちなみに密航なので、変名で渡航した。北海道に関わる3人、村橋久成、五代友厚、森有礼はそれぞれ、橋直輔、関研蔵、沢井鉄馬と名乗った。
「留学時代の留学生」(留学生時代に何を学んだかの解説文)の案内板には、村橋はロンドン大学で陸軍学術を学び留学の翌年2月に帰国。戊辰戦争箱館戦に出征、と紹介されているが札幌麦酒のことは記されていない。
※一口メモ
長州は、薩摩に先駆けて1863年に5人が英国へ渡航(長州の五傑)。
③永山武四郎
生誕地・薬師に案内板が建っているが、銅像はない。
④永山盛弘
市立維新ふるさと館で紹介されている。
永山武四郎らとともに「北海道兵備設置之建議」を行った人物だが、西南戦争に参加、御船の戦いで戦死した。
⑤南洲墓地
鹿児島では、西郷隆盛ら西南戦争の戦死者が手厚く祀られている。
⑥近代日本を築いた人物を多数輩出した加治屋町
西郷隆盛、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、大久保利通、黒木為禎など。
薩摩独特の郷中教育(同一地域活動内に住む武家の青少年たちが、勇気と根性を養い、日常のしつけを身につけ、武芸の鍛錬をするもの)の影響も大きい。
⑦調所広丈、時任為基、湯地定基、河島醇、池田清等
これらの人物の足跡は発見できなかった。
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まとめ
・人物の評価は、時代・地域の状況等により異なる。
その原因や理由等は、時代やその地域の独自の風土・歴史に影響される。また、地元への貢献度等も基準となる。

 本日のお話は以上ですが、北海道開拓に尽力した人物は薩摩人が多いこと、薩摩には昔からエゾを宝庫とする考え方があったこと、北海道開拓に大きく寄与した人物でも地元ではさほど評価されていない例があることなど、大変興味ある内容でした。

 最後に受講者のコメントをご紹介します。
「黒田清隆に代表される薩摩人の"おおらかさ"が北海道開拓の初期を大きく支えたと思っている(榎本武揚の活躍につながる?)。本日の話、楽しく聞きました(人物評価は時代・地域の状況等によって異なる⇒そうだと思います)」
「北海道開拓に何故薩摩出身が多くかかわったか理由を聞きやはり歴史は面白い。次回も興味深い。若き薩摩の群像エピソードは、(19人を17人にした)薩摩らしい。薩摩出身者で唯一北海道で永眠した永山武四郎の評価が鹿児島で低いのは残念である」
「大変わかりやすいポイントを押さえたお話で予想通り魅力ある内容でした。明治開拓期に活躍した主な人達の人物像、足跡、時代の流れを限られた時間の中で薩摩をキーワードに解説していただき、この時代に又興味が持てました。ありがとうございます。次回も楽しみです」
「言葉が良く聞き取れなかった、残念」
「随分沢山の人物紹介に驚きました。北海道開拓が薩摩によって形作られたようで、それまでの開拓像と違ったイメージを持ちました。貴重な資料を沢山提供していただき有り難うございました」




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