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主催講座7「伊達邦直が北海道移住を決め聚富を経てなぜ当別に至ったか」

第1回「伊達邦直と主従一行の当別入植までの苦悩」

2022/07/19

 7月15日(金)主催講座7「伊達邦直が北海道移住を決め聚富を経てなぜ当別に至ったか」の第1回「伊達邦直と主従一行の当別入植までの苦悩」を石狩市花川北コミュニティセンターで開催しました。講師は、石狩市郷土研究会会長の村山 耀一さん、受講者は50名でした。
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 以下はお話の概要です。
◇当別町は、明治4年(1871)に伊達邦直一行が当別に入植してから今年で開基151年となる。
1.聚富「伊達邦直主従北海道移住の地」碑
・旧碑 
昭和58年に当別町教育委員会が建立。カツラの一枚板に墨書してワニス塗布。
・新碑 旧碑と近接した地
平成8年(1996)、当別町長伊達寿之(伊達邦直のひ孫)が建立。
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2.幕末の状況
・ロシアの南下政策で発生したクリミア戦争(1853~1856)で、ロシアが敗北し南下政策挫折。カムチャッカ半島のロシア南下は日本に影響。
・嘉永7年(安政元、1854)、日米和親条約締結。
・安政2年(1855)、幕府は全蝦夷地を再び直轄に。ロシアの南下警戒。
・安政2年12月(1855)、日露和親条約締結。樺太は混住、択捉島以南は日本領。
・安政4年(1857)、石狩改革(場所請負制を廃止、箱館奉行の直接経営)。幕府はロシアの南下を警戒⇒北方警備の必要性。石狩地域に本府。
・明治元年(1868)、王政復古。
・明治元年~明治2年 戊辰戦争。
・明治2年、蝦夷地に開拓使を置き、北海道とする。
3.伊達邦直(英橘、当別町入植)と伊達邦成(伊達紋別⦅現伊達市⦆に入植)
 2人は、岩出山藩第9代藩主義監の子で兄弟。邦直が10代目を継ぎ邦成は亘理藩13代藩主邦実の養子となり14代亘理藩主となる。
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4.戊辰戦争と仙台藩
・慶應3年(1867)大政奉還。
・戊辰戦争で仙台藩は新政府軍に敗退。
・62万石の仙台藩は、28万石に大巾減封。
5.戊辰戦争後の岩出山藩
・1万4643石の岩出山藩は、58.5石に減封、城は召し上げられ士分は剥奪、帰農すべきとされた。
・明治2年(1868)10代藩主邦直は家臣救済を北海道開拓に託すことを決意。
6.戊辰戦争後の亘理藩
・2万3853石から58石に減封。
・邦成は北海道移住を決意。
・明治2年、移住が認められる。
・明治3年より胆振国有珠郡(現伊達市)の開拓を開始。
7.邦直北海道開拓の決意・北海道の調査
・明治2年(1869)、伊達邦直は、家臣団の存続を北海道開拓に託そうと考えた。又、自費をもってすすんで北辺防備と開拓にあたることで賊軍の汚名を返上しようとした。
・家老吾妻謙は「北海道開拓志願書」を作成、仙台青葉城で政府の役人に提出したが仙台藩に理解されず、上京して「志願書」を政府に提出しようやく認められた。
・許可されたのは空知郡で、北海道開拓使の指示で現地を決めることになっていた。
・空知郡は道路もなく開拓は困難として替地を申し入れたが叶わなかった。
・5名の家臣を派遣し現地状況を調べさせたが、降雪期の為石狩に着いたのみで岩出山に帰った。
・明治3年(1870)、藩主自ら鵙目(もずめ)貫一郎など6名を率い北海道へ。小樽到着後開拓使出張所の岩村判官に支配地の分割を請願、空知郡「ナエイ」より「ナイ」までの土地(現在の奈井江町)の許可がおりた。
・邦直一行は、調査の為アイヌ人を雇い総勢17名で石狩川から160㎞遡り10日かけてナエイに到着した。
・調査の結果、ナエイは運輸の便が悪く、土地は736名の主従が住むには狭く、開拓の成果をあげられるか疑問を抱きながら戻った。
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・ナエイを諦め、再度陳情請願をしてようやく厚田郡シップへの入地許可が下りた。
8.シップ(聚富)への移住に向けて
①移住者の募集
・明治3年(1870)、邦直は岩出山で家臣を集め開拓の困難さを説明した上で、第1回移住者を募った結果、51戸180人が応募。
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・移住の決意として、「自主裁断・心身強固の者・家族同伴」を規範とした。
・邦直は、資金調達の為城内の建物・家財・什器・貴重品などすべてを換金した。
②出発して聚富に着くまで
・明治4年(1871)3月2日岩出山を出発、徒歩と船で進み3月17日に寒風沢港到着。
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・寒風沢港(松島湾)から雇い船「猶竜丸(縦36間幅4間帆柱2本釜1つ)」で北海道へ向かう。
・遭難寸前になりながらもようやく出港5日目に室蘭の入り江(本輪西)に上陸した。
・上陸後休む暇なく徒歩で200㎞(30里)先の聚富を目指した。
・3月27日に室蘭を出立、幌泉、アヨロ(虎杖浜)、白老、勇払と進み6日ほどで千歳に到着。
・さらに、千歳から島松、札幌(開拓使に出所)を経て、シノロ(篠路)からは川舟で石狩へ進み4月5日に聚富に到着した。
・岩出山を立ってから34日、寒風沢港を出てから18日を要す想像を絶する困難をともなった行程だった。
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③聚富の開墾
・到着後、海辺の漁小屋3戸を借りて雑居、開拓の一歩を踏み出した。
・樹木を伐り倒して各戸の屋敷割を行い、一戸当たり表口50m(30間)奥行90m(50間)の草屋45戸を建てた。
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・伐採後焼き払ったわずかの土地を開墾、持参の各種種子を蒔いたが、聚富の地は日本海から吹きつける風のある海浜の砂と石の痩せ地で作物の生育には適せず開拓が無駄になるのではと危惧された。唯一石狩川河口へ2㎞と云う交通の便の良さだけが取り柄だった。
9.当別の調査・移住決定
・明治4年5月、開拓使東久世長官と岩村判官が視察に訪れ、「このような砂地は耕作に不適でありすみやかに肥沃の地を選定して貸し付けを願うべし」との指示があった。
・邦直は、シップ開拓をあきらめ、代替地「トウベツ拝借願」を提出、当別の調査を始めた。
・鵙目貫一郎は病弱で開拓に耐えずとして小樽への出張を願う(小樽で最初の学校を作った。後に石狩小学校の教員となる)。
・5月5日、吾妻謙他4名が1回目の当別調査へ出向いたが、道に迷い当別へ到達出来ず。
・5月15日、鮎田如牛他6名が2回目の調査へ。
・18日、現在の市街地に到達、現当別神社境内の水松樹(イチイ)で野宿。翌日、当別が肥沃な地であることを確認した。
・開拓使に当別の開拓を願い出、東久世開拓使長官の許可を得て、移住の最終目的地が決定した。
※吾妻謙
 岩出山伊達家の家老。北海道移住に尽力。当別での一致団結を図るため「邑則(ゆうそく)」を設けた。
 初代当別村戸長を務める。町の基礎を築いた功労により、北海道神宮末社・開拓神社に祀られている。
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※当別開拓のシンボル「イチイ」の木
 昭和48年、北海道記念保護樹に指定。明治4年岩出山藩の調査隊が露営したと云われる。また、聚富から当別まで5里7町(約20.4㎞)を伐り開いた時の終点であり邦直の視察に合わせてこの樹の下で宴を張ったと云われる。2018年9月5日、台風24号で倒壊。
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10.開拓使石狩出張所倉庫の建築と当別道の開削(資金づくり)
・当初、生活は相次ぐ困難に見舞われた。
・食料や物資を載せた船が行方知れずとなった。
・資金の目途もつかなかった。
・開拓使石狩出張所倉庫建築を請け負い、30日余で竣工、1,000円の資金を手にした。
・仮住まいの聚富から当別まで20㎞余りの道路を13日間で開削、明治4年8月10日に貫通した。
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11.当別への第二回移住に向けて
・明治4年9月、邦直は吾妻謙他3名を連れて岩出山へ戻り、第二次の移住者を募る。
・岩出山の豊作や吾妻謙への誤解、開拓使の身分平等策への危惧などから第二次移住者は44戸180名にとどまった。
・明治5年2月17日第二次移住民が岩出山を出発(亘理藩の第四次移住者も同乗)。
・金華山沖で座礁したが3月15日に小樽港着。
・小樽からの道中、張碓で難儀するも20日に石狩着。
・荷物は小樽から荷舟で運んだが、多くの家財は腐敗して使用不能になった。
12.当別の開拓
・明治5年4月、一次移住者と新移住者は共に開拓を開始。
・生い茂る大木の伐採や伐根は困難を極めた。
・幸いに初年度は豊作となった。
・邦直は吾妻謙の進言を受け、5名の若者に東京・開拓使官園で新農法を学ばせた。
・吾妻は西洋農具も取り入れ、養蚕、製麻、果樹栽培が奨励された。
・入植初年度の成果は、31.5ha開墾、大麦、小麦、小豆、とうもろこし、栗、そばなどを収穫。
・二年目は、耕地は53.5haに拡大、アスパラ、玉ねぎなども栽培。
・視察に来た開拓使顧問ケプロンは、「アメリカに劣らぬ出来栄え」と褒め称えた。
13.村づくり
・イチイの木を目印とし、ここを東一番地として邦直の屋敷を置き、当別川に注ぐ小川を境界に東小川通り、西小川通り、川上を大川上通り、川下を下川通りと名付けた。
・邦直は、吾妻らに「邑則(村のおきて)」を起草させた。
・邑則は、「邑中の事務一切衆議に決すべし」から始まる49条からなり、会議制度、子弟教育、冠婚葬祭、凶作対策などあらゆる取り決めが明記された。
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14.明治5年以降の主な出来事
◇明治5年
・邦直は開拓記念樹の傍らに小社を奉納し阿蘇神社と称した(現当別神社)。
・鮎田如牛が私塾を始めた(鮎田塾)。
・永根平教(第2次移住者)は、東京官園へ「農業育成方」として修業に行き、畜・西洋農具・果樹などを学ぶ。
※鵙目貫一郎は、小樽開運町で「鵙目塾」を開業。
◇明治6年
・当別教育所を設ける。
・ケプロン巡視。
※「鵙目塾」は、小樽郷学校として開校、鵙目は初代校長となる。
◇明治7年
・石狩―当別間新道を開く。
・開拓使は養蚕と大麻栽培を奨励した。
・大麻の成績良好、女子3名(共に15才、小野由宇・菅とめ・伊藤利)を上州(群馬県)に派遣して製紙を習わせた。
※鵙目の小樽郷学校は「小樽教育所」となるが鵙目は健康上の理由で辞職。
◇明治8年
・開拓使はリンゴ栽培を進め、20本の苗を下付。
※鵙目貫一郎は石狩教育所教師の辞令を受ける。
◇明治11年
・川下通りに製網所を設ける。
・吾妻謙が率先して西洋農具を購入し使用した。
◇明治12年
・第三次56戸259人が入植。
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・当別村扱所を設け、戸長には吾妻謙が就いた。
・第3次移住計画対雁・六軒町に置く。
・当別教育所を下川通に移し当別学校と称した。
・馬ソリの使用が始まる。
◇明治13年
・佐賀団体が高岡に農場をつくり、桑園10.9haを開く。
◇明治14年
・畜牛組合を作り、米国牛5頭を入れる。
15.その後の発展
10年後の明治15年(1882)には耕地面積が120haと拡大、明治20年には福岡辺りからの移住者もあり、220戸955人となった。
16.不運の指導者
・明治20年、終始邦直と行動をともにした元筆頭家老鮎田如牛が死亡。
・同年、邦直の養子次男直満が札幌農学校卒業後に死亡。
・明治21年、妻志武子死亡。
・明治22年、吾妻謙死亡(享年58歳)。
・明治24年、邦直が風邪をこじらせて死亡(享年58歳)。
・明治29年8月15日、当別神社の御祭神として伊達邦直之命が祀られる。
・昭和13年8月15日、北海道開拓神社の創立に伴い、36柱の一人として従五位伊達邦直が弟伊達邦成とともに祀られる。
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 以上が本日のお話しですが、幕末の時代背景から始まって伊達邦直が北海道開拓に家臣たちの命運を託すに至った経緯、その困難な過程と成功について豊富な資料を伴う大変詳しい内容でした。受講者の皆さんはお話に大変感銘を受けたようです。
 次回は8月2日(火)10時から本庄陸夫の小説「石狩川」を原作とした映画「大地の侍」を鑑賞します。
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 最後に受講者のコメントをご紹介します。
「私は当別生まれでほとんどルーツを知りませんでしたが先生のお話で良くわかりました。先生の話は分かりやすく歴史的な歩みが興味深く聞くことが出来ました。ありがとうございました。次回を楽しみにしています」
「感動しました!力のこもった解説、心に記憶に残る内容でした。学ぶことの楽しさを実感しています。ありがとうございました。充実した資料に先生のお人柄が表れる伝える力が聴く私達に響くと思っています。第2、第3回とシリーズで学べることは素晴らしい企画だと感謝しています」
「漠然としていた当別入植の歴史の細部が良く理解出来大変有意義でした。資料内容も充実し有難いです」
「いつもながら資料をはじめ、細部にわたる講座、素晴らしかったです」
「隣町当別町の開拓を知る事が出来ました。ありがとうございます」
「北海道の厳冬に聚富移住者180名、よく頑張ったと思う。先住民であるアイヌとの関りが見えてこない。吾妻謙の開拓貢献が素晴らしい。熊は出なかったのだろうか?」
「村山先生の講座は楽しみにしています。前回の講座は申し込み締め切りを過ぎてしまい、出席出来ませんでした。残念です。時間があっと云う間に過ぎてしまいました。あと2回とっても楽しみにしています」
「村山講師により、伊達邦直と主従一行の当別入植までの苦悩を戊辰戦争と仙台藩、慶応3年(1867)江戸時代の終わり大政奉還~明治4年厚田(聚富)シップ開拓~当別へ、明治5年6年~15年までの歴史についてとても詳しく資料を通して素晴らしい説明であり感動しました。いつも有難うございます」








 




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