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講座1田中實さんが語る石狩歴史秘話~「石狩市(町)で計画され実現されなかった構想」

第2回「カール・レイモン ハム工場ほか」

2012/05/10

 5月9日(水)講座1 田中實さんが語る石狩歴史秘話~『石狩市(町)で計画され実現されなかった構想』の第2回「カール・レイモンハム工場ほか」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、石狩市郷土研究会顧問の田中實さん、受講者は53人でした。

 今回は、カール・レイモンさんの技術指導によるハム工場建設と生振への国際空港建設の構想についてのお話でした。
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1)カール・レイモンさん指導のハム工場建設―ひとつ目のお話
このお話は、石狩百話第八十五話を基にして進められました。
・石狩川や海岸線は、昭和30年代に入ると上流のパルプ工場や酒造工場からの廃液で汚染され、サケをはじめワカサギ、ヤツメウナギなどの漁獲量が激減した。
・このため漁業者は前浜や内水面の漁だけでは生計がたたず、地方の漁家や北洋漁業に出稼ぎする者が増えた。
・この対策として、北海道は、漁家に副業としての養豚や養鶏、あるいはシイタケ栽培などを奨励し、石狩漁協はこれを早速受け入れた。
・昭和36年、石狩漁業協同組合と北海道漁業協同組合連合会が共同経営する石狩畜産センターが本町地区船場町に設置された。敷地面積約1万487平方m、飼育室は41あり総工費1千万円であった。
・畜産センターは、養豚する漁家に飼育管理の指導をし、石狩漁協が窓口となって飼料の共同購入を行った。道漁連は種豚の貸付をし、豚の販売は共同出荷体制で行った。
・開設当初は、獣医の資格を持つ二人の職員をおき、江別や当別から購入した肉豚230頭と繁殖豚18頭の飼育も行った。
・開設翌年の昭和37年には、雪印食品工業や三井物産、ステーションデパートに販売し、肉質の評判は良かった。
(色は鮮紅色、脂は真っ白で硬く美味、脂の部分を薄くすればこれ以上のものは望めない―雪印食品)
(脂が厚いため歩留まりは悪いが、肉質が良いので今後も取引したい―ステーションデパート)
・センター内の豚の飼育にあたっては、肉質の改良を行う一方、繁殖豚は全漁家に貸し与えて優良豚飼育を指導した。また、生産費の60%をしめる飼料についても、配合肥料をやめて漁師が入手しやすい魚カスや澱粉カスを混ぜてコスト削減に努めた。
・センター設置時の石狩漁協の組合員数は268人。そのうち、養豚をするものは39人、翌年には、48人の組合員が352頭の豚を飼育した。
・現漁協組合長吉岡治男さんの当時を振り返っての談
「あの頃はまだ肉が高価だったから、副業としては良い収入になりましたね。繁殖用の豚をセンターから借りて交配させ、生まれた子豚を売るんです。」
・全道共進会繁殖用豚部門で2位に入選する人もあった(網を引く手でブタ飼育、昭和41年9月新聞記事、船場町金田さん)。
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・5年後には、1万頭の養豚で年間2億円を売り上げようと云う構想だった。
・さらに、技術者カール・レイモンさんを石狩に招へいして、ハム、ソーセイジ工場を建設することが計画され、町議会で特別委員会まで設けられたが、センターが道漁連との共同経営と云う枠があることなどから実現できなかった。
・そのうちに、肉の小売り価格が、年々下落傾向となり、大規模養豚センターでないと採算が取れなくなって、石狩畜産センターは設立16年後の昭和52年に閉鎖となった。
・一方、石狩川汚染問題は、漁業者の公害反対運動の盛り上がりにより、水質保全法や工場排水規制法が制定され、水質汚染に関する環境基準が適用されるようになって、河川に徐々に魚が戻ってきた。
・魚が川や海岸線に戻ってきて、漁師は、ふたたび本来の漁業に戻ることが出来た。
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○カール・レイモンさん(1894~1987)について
1894(明治27)年、カルルスバード(現チェコ領カルロビバリ)の代々続く食肉加工技師の息子として生まれ、14歳で本格的な修業を始めた。1914(大正3)年ノルウェーの会社よりアメリカのアーマ社に派遣され、缶詰部門の監督として働いた。1919(大正8)年帰国途中に観光目的で日本に立ち寄ったことが彼のその後の運命を決定づけることとなった。日本の食肉会社で働くうち、函館でコウ夫人と知り合い、周囲の反対を押し切って結婚、一時帰国した後、1924(大正13)年に再び函館へ戻った。
当時は、ハム・ソーセージの需要が限られていたため、全国の一流ホテルを対象としてドイツ伝統のハム・ソーセージを作り続けた。
その後、太平洋戦争中に工場を強制的に買収されたが、1948(昭和23)年に函館元町で製造を再開した。
本物のハム・ソーセージづくりを貫き、1974(昭和49)年日本と西ドイツの友好に尽くした功績により、故国より「功労勲章十字章」を授与された。1987(昭和62)年、没。
・カール・レイモンさん語録
「私がずーっと心がけてきたことは、まじめに働くことです。そうすれば、私の作ったハムやソーセージを喜んで食べてくれる人が一人でも増えますから。だから、私は自分のことを胃袋の宣教師だと思っています。」
「私のハムはね、肉の細胞を一時的に眠らすだけ。それが、人間の胃袋に入ると、細胞はすぐによみがえるのです。」

2)生振に民間専用空港を―ふたつ目のお話
・昭和40年、札樽経済協議会が札樽地域三市二町における重要事項の実現に向けて提出した陳情書の中に、民間専用空港の調査についてと云う項目が掲げられていた。
これは、札幌冬季オリンピック開催を控えて国際空港新設の思惑もからんでいたが、札幌近郊空港新設の理由として、自衛隊と共有である千歳空港の将来危険性、千歳と丘珠二空港併用の不便性、千歳空港と札幌の距離の遠さ、千歳空港の濃霧発生率の高さなどが挙げられていた。
・昭和41年、道議会開発特別委員会において、道企画部から、千歳空港の代替空港が必要であり、新空港の候補地としては石狩町生振地区が最適である、との調査報告書が発表され、生振地区が一躍脚光を浴びることになった。
・しかし、千歳市の猛反対と、農業生産が豊かな地元生振地区自体が誘致への積極性を欠いたこともあって、結局実現しなかった。
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 ふたつのお話が、予定より10分ほど早めに終わったので、田中さんはおまけとして、松葉杖をついてお参りに来た人が帰りには治ってしまって必要がなくなり置いていくので、杖が山積みになって残っている、と云うほど霊験あらたかな生振観音の話を披露されました。

 田中さんのお話はいつもどおり詳細な資料を添えての丁寧なものでしたが、受講者からも

「石狩の生き字引と言われている田中先生の講座を毎回拝聴しておりますが、石狩の歴史が我々の祖先の苦労の上に成り立っていることが良く分かり感銘しております。特に、漁業から畜産へ変更した漁師の方、漁協の方の決断は大変だったろうと思います。さらに、食肉加工業の先駆者カール・レイモンとの結びつきは興味のある講話でした」
「石狩市の発展の裏に種々の計画、挫折があった事、先人の苦労が分かりました、大変感謝申し上げます。特に、石狩川の汚染の為、漁業が出来なくなった話は初耳で、大変な時期がありこれを乗り越えた皆さんの頑張りには頭が下がりました」
「古い埋もれていた貴重な資料をもとに貴重な話をしていただき大変良い講座でした。鉄道計画や国際空港の設置など今まで知らなかった話を聞くことができました」
「この講座に参加して2年が経過し石狩市の内容やいろいろの知識が身に付いた。とても有意義な講座に満足しています。札幌からの参加ですので、いろいろ時間的な制約等ありますが頑張っていきます」
「非常に多方面のお話を聞かせていただき興味深かった。この次は石狩の開拓に関わった人の話を聞きたい」
など、多数のコメントが寄せられました。

 





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