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主催講座10「石狩における明治・大正期の輸送の歴史とその時代背景」

第2回「石狩開拓においての大友・岡崎による運河はどのような役割をもっていたか」

2019/10/12

10月8日(火)、主催講座10「石狩における明治・大正期の輸送の歴史とその時代背景」の第2回「石狩開拓においての大友・岡崎による運河はどのような役割をもっていたか」を花川北コミュニティセンタ―で行いました。講師は、北海道産業考古学会会長で元酪農学園大学教授の山田大隆さん、受講者は44名でした。

本題の前に、石狩の鉄道や舟運についてもう少し詳しく聞きたいと云う受講者のアンケート要望に応えるお話があり、これについては、わざわざ追加資料まで作って頂きました。
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◇鉄道について
・幌内鉄道は、日本で3番目の鉄道
・貨物専用ではなく客貨両用
・鉄道が主力となったのは、舟運が不便であったことによる(川の冬季凍結や河口に港を作ることの困難さなど)
◇外輪船について
・産業革命の成果。アメリカ・フルトンが最初の機械船(蒸気船)を発明
・ペリー黒船もこのタイプ
・石狩川では東京石川島製の神威丸、安心丸、上川丸、空知丸の4隻を導入
・明治17年から昭和10年(昭和9年に札沼線開通)の51年間営業、莫大な輸送力は北海道内陸開発に大きな貢献をした
・寄港地は、石狩―茨戸―江別(幌内鉄道合流)―樺戸(現月形、集治監人員輸送)―札的内(現浦臼)―空知太(現砂川)で農産物、雑貨、着物、塩、酒等の開拓用日用品を輸送販売し、石狩川周辺では倉庫(三井倉庫)、陸運、販売業者が栄えた。
・明治35(1902)年、石狩―江別、江別―月形、月形―札的内の3航路が、浅瀬、流木座礁、洪水欠航、利用者減などで経営難に陥り、国の「命令航路」に指定された。国は補助金を支給、運行者、運行期間、寄港地、運行回数、使用船舶を指定(上川丸、空知丸)、旅客運賃は石狩―江別、江別―月形が75.50銭、月形―札的内が45.30銭
・明治43年、利用者減で、月形―札的内間廃止
・昭和10(1935)年、札沼線(現学園都市線)開通(昭和9年)で全航路廃止
※太⇒アイヌ語で川と川の合流地点の河口の意
◇石狩鉄道史
・石狩川地区鉄道計画史については、田中實さん作成の詳細な資料がある(まとめを資料として添付)
・石狩川河口港は、ファンゲント、メーク、広井勇の3案があったが、河口部は漂砂が多く実現不可能だった
・石狩発展のためには、鉄道が不可欠とされ、明治、大正、昭和と実現へ向けての運動が続いた
・短期間、石狩―軽川に軽石軌道が走った
・戦後、新港を建設し、鉄道で輸送すると云う石狩鉄道㈱構想が発表された
・昭和46年には札幌市高速電車構想が起こり、石狩の鉄道は実現直前と云う状況であったが、昭和48年、54年の第一次、第二次オイルショックにより経済は疲弊し石狩湾新港輸送体系建設計画も頓挫した
※鉄道体系計画が挫折した結果、石狩市、札幌市ともに中途半端な都市発展状況となっている。原点に帰って、この計画実現に向けて、歴史認識から再建する必要があるのではないか
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ここまでが前回の話の補足で、この後本日のお話に入りました。
◇大友・岡崎による運河について
・鉄道に先駆するのが、岡崎文吉の花畔・銭函間運河で、運河から石狩川を経て大友亀太郎の大友掘りに繋ぐ構想だった
・札幌の泥炭地部分は湿潤で乾燥化が急務だった⇒新川(大排水)。札幌の泥炭地部の開発は、湿潤地活用の一大実験地であったが、それに貢献したのが岡崎文吉であった
◇大友掘り
・大友掘り(大友亀太郎の計画による用水路)は、豊平川の支流から現ススキノ(南5条西1丁目)で水を引き、現在の南3条東1丁目からまっすぐ北進し、北6条東1丁目(現テイセンボウル)から北東へ流路を変え、現光星中高校近辺の御手作場(国営模範農場)へ流す目的で開削された。最終的には、現在の大友公園の付近で、旧伏古川にかなりの落差で注いでいた。
・用水路は、長さ約4㎞、断面は深さ約1.5m、上幅約1.8m。
・工事は、慶応2(1866)年5月より開始、同年9月9日までの4か月、工費3,000両で完成した。基本測量がしっかりしていたことが建設成功の一因(大友亀太郎は、伊能忠敬から測量技術を受け継いだ二宮尊徳の弟子)
・最初は、農業用水、飲料水用、排水用に作られたが、堀の一部(南北線、南3条~北6条間)が広げられ舟運用運送路(運河)としても多目的に利用された
・舟運用荷物は、石狩川河口から旧伏古川を「丸木舟」で遡って大友掘りの落口(現大友公園)まで輸送された。堀の落口と川間に段差があるので、一旦荷揚げし、「平田船」に積み替えて馬曳きで大友掘りを遡り、北6条東1丁目(官庁街)、さらに南3条東1丁目(商業街)まで運ばれた。大友掘りの開削は、北海道開拓の中心・札幌の急速な発展整備には決定的事業であった
・大友掘りは、南方向は吉田掘り、北方向は寺尾掘りとして拡張され、明治30年に岡崎文吉により、農業用水、排水、舟運用の創成運河として完成した
◇写真による紹介
・西欧の運河
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・創成川の水門、閘門の様子
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・花畔・銭函間運河の一部の山口運河(運河祭り)
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・石狩河口港の広井勇案(難関だった小樽北防波堤建設に成功した広井は日本近代工学の父と言われた)
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・岡崎文吉が考案したコンクリート単床ブロック(アメリカのミシシッピ―川では今でも使われている)の洪水後の状況
岡崎の自然に優しい柔構造の河川土木は、当時は国内では認められなかったが、今日では高く評価されている。
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・単床ブロック設置工事の様子
単床ブロックの生産工場は、今の翔陽高校のあたりにあった
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・単床ブロックと併せて施工された水制工
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・創成運河の高低差
札幌開建の吉田氏が閘門など創成運河の構造を解明した
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・明治31年の石狩川氾濫図
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・囚人と生活物資を運んだ神威丸
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・外輪船が運んだもの
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・明治4年頃の大友掘りの写真
写真が反転しているが、こちらが正しいと思われる。
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・大友掘りの位置
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・伊能忠敬、二宮尊徳から伝えられた大友亀太郎の測量道具
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・創成川の脇を走る馬鉄
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・明治末期の創成川
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山田さんは本日のお話を、大友亀太郎、広井勇、岡崎文吉が関わった歴史的な遺構は、最終的には北海道遺産としてまち起こしの資材として活用すべきである、と結ばれました。
詳細な資料とは別に多岐な角度からお話をされたので、石狩川に関わる舟運の事がその歴史や概要だけでなく意義までも良く理解することが出来ました。限られた時間の中で、出来るだけ多くの事を受講者に伝えようとされた山田さんの熱意には大変感謝申し上げたいと思います。ただ、日頃資料に基づく話に慣れた受講者の一部には多少の戸惑いもあったようです。

最後に受講者から寄せられたコメントをいくつかご紹介します。
「創成川は、単調な運河かと思っていました。こんなに高低差があったとは驚きました。堀を掘っただけで水が流れる訳ではないのですネ。先人の偉大さを改めて感じいっています。ありがとうございました」
「大変興味深いお話が聞けて大満足。圧倒的な先生の研究量、豊富な資料、身近な石狩川から始まり、幻となった石狩鉄道の話し、理解できました。運河についても各国の様子、大友、岡崎、広井と歴史を作ってきた人達の事も楽しみながら聞けました。資料もこれからまたゆっくり見たいと思います」
「創成川と大友掘の関係、運河の閘門がよく分かりました。閘門があったとは驚きでした」
「石狩の鉄道誘致への取り組みの歴史が良く分かり、興味深かった。色々な運河についても知識が身についた」
「専門的なお話で少し難しかったです。写真、図があると分かりやすいです」
「お話はとても面白かったですが、プロジェクターの能力のせいか、画像が不鮮明でしたので、出来たら資料に印刷したものがあればもっとよかったです。出来たら市民カレッジのホームページにUPして頂ければ幸いです」










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