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主催講座9「続々・北海道150年物語~開拓に大きく貢献した人々」

第3回「『日本の酪農の父』と呼ばれた黒澤酉蔵」

2018/10/04

9月29日(土)、講座9「続々・北海道150年物語~開拓に大きく貢献した人々」の第3回「『日本の酪農の父』と呼ばれた黒澤酉蔵」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は元とわの森三愛高等学校長・野幌キリスト教学園理事長の村山昭二氏。受講者は39人でした。

村山さんは、「昭和40年、酪農学園三愛女子高等学校に勤務した。その時、黒澤酉蔵先生の面接を受け聖書を頂き激励され、酪農学園の仕事のスタートを切った。そのような関係から、『日本の酪農の父』と呼ばれる黒澤酉蔵についてお話させていただきます」と始められました。
以下にその概要を紹介します。
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はじめに
〇明治維新と北海道の誕生
・1869年(明治2)7月17日、松浦武四郎が『北加伊道』等を提案し、8月15日太政官布告によって北海道と命名された。
〇江戸城無血開城と蝦夷地共和国の樹立
・徳川家は70万石の減封を受け、約8万人の幕臣が職を失なう。
・幕府副総裁の榎本武揚は蝦夷地に幕臣を移住させ、北方警備と開拓にあたらせつつ、蝦夷地共和国樹立を目指した。
〇箱館戦争と降伏約定
・戊辰戦争で、黒田清隆は北陸戦線と函館戦争の新政府軍参謀として指揮を取り、榎本を降伏させる。
・黒田は、降伏の条件として榎本提督以下幕僚、兵卒の助命を約束。
・新政府は黒田の約束を無視して、榎本・大島・荒井の3人に死刑の宣告をする。
・黒田は判決に抗議し切腹すると宣言。結果、3人は2年後釈放される。
黒田と榎本の人間関係が、後の北海道を作っていくキーワードになっていると考える。

第1編 黒澤酉蔵の生い立ちから酪農家まで
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Ⅰ 黒澤酉蔵の生い立ち
〇黒澤酉蔵を作り出した3つのキーワード
・幼少年期に学んだ陽明学
・田中正造と出会い、獄中で聖書に出会う
・宇都宮仙太郎との出会い
1885年(明治18)3月28日 茨木県久慈郡世矢村で小農の長男として生まれる。父の元之助は大酒が災いして財を失い、その日の糧にも窮するように落ちぶれた。母イノが黒澤家の基軸をなし、復興を願う。
〇晩年の短歌 
・吾が母は行商までも働きて 貧しき家計ささえ給えり
・吾が母は無学なりしも人の道 よく心得て子らを教えし
・我が禁酒母の教えを守り抜きし 母のみ言葉吾が生命なり
 *母の教えを守り、98歳の生涯一滴の酒も飲まなかった。
〇黒澤酉蔵の生きる原点「知行合一」
・昔から言われてきた言葉「貧農は米を作り 中農は土を作り 富農は人を作る」
・貧農に生まれながら、母イノの養育により、水戸学、陽明学を学ぶ。特に実践重視の「知行合一」を生きる指針とする。⇒黒澤酉蔵の「座右の銘」
困難な時ほど「知行合一」が貫かれ、初心貫徹であった。
・尋常小学校卒業後、漢学者磯野壇に日本外史、十八史略を学ぶほか、15歳までに漢文、数学、地理、歴史、水戸学、日本固有の道徳等を学ぶ。
〇母の許しで上京
酉蔵は上京の志を立て、資金をアルバイで稼ぎ、両親に告げる。父は反対するが、母は困難に耐え抜く覚悟があるならば、と許す。
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Ⅱ 黒澤酉蔵:田中正造と出会う
・15歳の時、勉学を志し東京に出て、アルバイトをしながら学校に通う。
・17歳の時、栃木県の足尾銅山鉱毒事件で農民救済のために、天皇に直訴した田中正造を訪ねる。
・農民を守る正造の行動に心が揺さぶられる。この人と共に農民救済の運動に奔走することを決意する。
・田中正造より学ぶ 「国土を尊ぶべき、愛すべき、培わねばならない」
〇足尾鉱山鉱毒事件とは、日本で最初の公害事件
・足尾銅山の採掘によって排出されるヒ素、亜硫酸ガス、森林伐採等による森林の破壊、山々の表土の流亡により保水力を失い、雨水は渡良瀬川を氾濫させる。
・鉱毒は川の流域の田畑を汚染し、川の生物、沿岸の植物を死に追いやり、農民の健康が損なわれた。⇒農民、反対・陳情運動
・川俣事件と天皇への「直訴」
1900年(明治33)2月13日、被害地の農民が直接政府へ訴えようと川俣宿近くで警官隊と衝突、流血の惨事が起きた。
正造は強い衝撃を受け、翌34年衆議院議員を辞職し、天皇に「直訴」しようとして阻止される。
*地図中の赤い所が鉱毒に侵されているところ。
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〇田中正造の生い立ち
・1841年(天保12)栃木県佐野市に生まれる。
「予は下野の百姓なり」  農業へのこだわりが強い。
・1890年(明治23)50歳の時に衆議院議員に当選、鉱毒の儀で質問。
・1901年(明治34)61歳の時に議員を辞職し、天皇に直訴。
〇酉蔵:家宅侵入罪で監獄に
・酉蔵18歳の時、農民に対して、自主的に行動するための青年行動隊を呼びかけた。警察に危険人物視され逮捕、前橋監獄に入れられる。6ケ月間未決勾留の末、無罪判決。
・獄中で、潮田千勢子より「聖書」の差し入れがある。
次の句が酉蔵の「座右の銘」となった。
聖句:「私たちは、苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、打ち倒されても滅びない」
・短歌:鉱毒の民救わんと獄(ひとや)にて 6月過ごし大きく育つ
〇出獄後、田中正造は学費を用立て、酉蔵を京北中学校に通わせる。
・正造は酉蔵を連れて、東京巣鴨のキリスト者新井奧邃を訪ね、聖書の講義を聴く。
・母イノの訃報を知る。北海道へ行くことを決意。
〇20歳の酉蔵青年北海道に渡る
・1905年(明治38)弟妹の教育を考え、北海道に渡る。
・阿部宇之八(北海タイムス社長)を訪ね、「役人や月給取はご免だ」と希望を語る。酪農家の宇都宮仙太郎を紹介される。

Ⅲ 酪農家の宇都宮仙太郎に会う           
・牛飼いの三つの徳(得)
1.役人に頭を下げなくてよい。
2.動物が相手だから嘘をつかなくてよい。
3.牛乳は日本人の体位を向上させ健康にする。
〇酉蔵:宇都宮牧場で牧夫となる
・重労働の寸暇を惜しんで専門書を読む。
・1906年~1908年、徴兵で札幌月寒歩兵連隊に入営。1円20銭の月給のうち1円を貯蓄。模範兵となり2年で除隊。
〇酉蔵24歳・・・人生の決断  酪農家黒澤酉蔵のスタート
・1909年(明治42) 牛1頭から独立
 家も牛舎も牛も全て借りての第一歩を始める。
・1909年1月、日本メソジスト札幌教会で洗礼を受ける。「酪農の自営」と「キリスト者」としての人生行路をスタートさせる。
・1923年(大正12)スタートして14年後、札幌南14条に西洋住宅を建てる。

第2編 酪農の父 宇都宮仙太郎の生涯
・1866年(慶応2)大分県中津市で生まれる。同郷の師、賀来素吉は、貧民の救済に身を挺して関わった。同郷の福沢諭吉を崇拝し「実学を学び、独立自尊」を信条とした。
・20歳の時に酪農家を目指し北海道に渡り、真駒内でエドウィンダンより酪農学を学ぶ。
・1887年(明治20)渡米し、ウインスコンシン州立大学で学ぶ。
・1906年(明治39)種牛を買うために再渡米、ヘンリー博士にデンマーク酪農を紹介される。
第3編 蝦夷地開拓と米国農業の導入
・1871年(明治4) アメリカより開拓使顧問ホーレス・ケプロンを招聘。専門技術者76名が来道。
・1876年(明治9) エドウィン・ダン・・真駒内牧牛場が開設され、酪農・牧草・飼料・作物の普及が始まる。町村金弥が農場長を務める。
〇資本家の投資による開発政策
・1886年(明治9) 北海道庁設置される。
・資本家の投資による大農場経営、貸地農業始まる。小作農民の開拓と本州穀物中心の営農はじまる。
〇本州からの移民による開拓農業
・原始林を開墾し、平地に水稲を作ることを目的とした。
・北海道の厳しい寒さ、冷害による凶作、連作による土壌劣化などにより農民は疲弊状態に追い込まれていった。
・アメリカ式農業は馴染めず畜産も開花しなかった。
〇適地、適作による北方寒地農業の推進
・酪農三羽烏と呼ばれていた黒澤酉蔵、宇都宮仙太郎、佐藤善七等は、被災地に義援の金品を送る活動を全国に展開。
・水田ばかりでは北海道は滅びるとする「水田亡国論」を展開
・略奪農業、冷害凶作から適地、適作による北方寒地農業への切り換え:デンマーク農業を『範』とする。
 官民一致して、有畜農業に力点改善すべき4点
 (畜産・防風・排水・種子改良)
・1921年(大正10)に、北海道庁長官宮尾瞬治にデンマーク式による北海道農業の振興を進言
・道庁から3人の技師と深沢吉平をデンマークに派遣
〇デンマークから酪農家を招聘
・マーテン・ラーセン家族:真駒内の育種場に15haの農場で中農型経営
・エミール・フェンガー家族:琴似の農業試験場で5ha規模の小農型経営

第4編 デンマーク酪農について
・度重なる戦争によるダメージ
・デンマークには荒地のユトランド半島だけが残る。
ヒース地(氷河時代末に運ばれた砂砕、堅牢な結晶岩によって形成されていて、ヒースと呼ばれる灌木が自生している)、沼地、砂地である。
〇デンマーク復興の父:グルンドヴィ思想
・教育改革、教会改革、政治改革を行う。
〇デンマークの農地改革
・農地の多くは地主、貴族、君主の領土→農民は奴隷制のように支配
・1788年田園奴隷制度を撤廃し、農民開放、自作農家、農地改革を行う。
・資本によらず人格による組合運動が、デンマークの農業協同組合の根本精神になっている。
〇デンマークの協同組合→「一人一票」制
・農村ごとに屠畜協同組合、製酪協同組合が設置され、製造・販売の協同組合を通じて輸出。民主的に行われている。
・フォルケホイスコーレの教育目標
三愛主義「神を愛し、人を愛し、祖国を愛する」
第5編 1923年(大正12)9月の関東大震災
関東大震災の被害者救済のために食糧輸入関税が撤廃される。
練乳価格下落し、酪農家悲鳴→練乳会社が牛乳の買い入れを拒む
〇北海道畜牛研究会の活動
・1923年、関税撤廃で安い乳製品が輸入され、酪農受難の年となった。
・関税を元に戻すように働きかけを行う。
・1924年(大正13)に、黒澤酉蔵は道議会に初当選する。
・議会に、北海道農業の問題と推進計画を提言。牛馬百万頭計画、実学教育の提起等。
・酪農民を守るため、畜産研究会の宇都宮、黒澤、佐藤、深沢吉平等が出資金5千余円を集め、デンマークを範とする有限会社北海道製酪販売組合を設立。
・1926年に町村単位の連合組織に変えて、保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)を設立、牛乳を買い取り、加工する組合事業を始める。⇒昭和25年に雪印乳業になる。
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第6編 デンマークのフォルケホイスコーレを「範」とする農業青年教育の育成
1933年(昭和8)黒澤酉蔵は、酪農の普及には多くの知識、技能が必要として、酪連の臨時総会で、「社団法人北海道酪農義塾」の設置を決議。⇒後の酪農学園の設立である。
〇酪農義塾のスタート
農民は勉強しなければならないとして、18歳の新鋭たちを集め、全寮制で、実学を1年間たたき上げ、全道へ帰して、北海道の酪農を発展させようとした。
・農民道五則
①農民は誠そのものたれ   
②農民は天地の経論に従え
③農民は土地を愛せ
④農民は勤労を尊び倹約を守れ
⑤農民は協力一致せよ
・健土健民:酪農義塾、酪農学園のモットー
黒澤酉蔵は、農業、畜産の正しい在り方と発展の方向を示している。「健康な土」を作ることが、人間が健康に生きるという課題に深く結びつくとしている。
・適地適作:有畜混合農業―家畜なければ農業なしー
黒澤酉蔵は、全道各地を回り、酪農業の素晴らしさを訴える。
循環農法
1.作物は天地と人の努力丹精によって出来る。
2.糞尿(堆肥)は地力を増進する。
3.作物の力で土地肥し、土地の力で作物を増進するように循環的に生産 を増進させる。
〇野幌機農学校の設立
西野幌農場は町村敬貴氏(昭和3 年頃、石狩樽川から江別対雁に移転)の紹介
・1942年(昭和17)に、江別町西野幌に160haを学校用地として購入して開校。酪農義塾の教育方針を踏襲し、全寮制教育による実学教育を教育方針とした。教官を農場長として生活を共にさせ、晴耕雨読で学び、実力ある農民魂を磨き上げ、腕のある指導者を養成することを目的とした。 
・「兵農一致、皇道農業」なる精神
明治維新後、天皇中心の皇道精神が国策であり、我が国特有の天地の大道であった。黒澤酉蔵もこれを信じ、兵農一致を基軸に、事業家、政治家、教育者として推進協力する立場であった。

第7編 再び政界へ
1940年(昭和15)近衛内閣、日独伊三国同盟を結び、緊迫の国際政局の中、大政翼賛会を作る。
・1941年(昭和16)12月8日 真珠湾攻撃
・1942年(昭和17) 衆議院議員に当選
・1944年(昭和19)11月 B29による東京大空襲
 戦災者の北海道帰農案(拓北農兵隊) 石狩川流域
・1945年(昭和20) 終戦
・1951年(昭和26) 北海道知事選に立候補落選

第8編 敗戦と新日本建設の教育方針
・1945年(昭和20)8月15日、ポツダム宣言受諾で終戦
 文部省:「新日本建設の教育方針」を発表
・1946年(昭和21)9月1日 黒澤酉蔵は理事会に教育の指導理念を、キリスト教の聖書に置く方針を提案し、決定される。
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〇酪農学園の学園史(概略)
・1933年 北海道農義塾
・1942年 野幌機農学校
・1946年 聖書に基づく教育方針に
・1948年 野幌機農高等学校
・1949年 酪農学園大学部設置(各種学校)
・1950年 酪農学園大学短期大学設置
・1958年 酪農学園女子高等学校開校→三愛女子高校
・1960年 酪農学園大学開校
・1991年 統合とわの森三愛高等学校

当初はお金もなかったために、学生と職員が共に働き校舎を建設する。
このようにして、黒澤酉蔵の教育の歴史が刻まれていくことになる。
・建学の精神
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・現在の江別にある全風景
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・原点にあるモットー
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〇受講者からの感想をいくつか紹介します
「黒澤酉蔵は酪農学園の創立者、北海道酪農の先駆者として知られているが、その伝記はよく知らなかった。今日の講座でその生涯を知った。三愛精神、健土健民、建学の精神、誠に立派である。人間は苦労しなくてはだめです。精神が立派である。『北海道酪農の原点は黒澤にあり』と私は思った。本当に酪農の神様的存在と云った方が適切である」「私の祖父(明治18年生)の時代を思い出しながら勉強させていただきました」「とても理解しやすいお話しでした。満足感で一杯です。昔の先人達、志だけでなく行動に深い思いを持ちました。そしていつの世も母は偉大かつ強しですね。ありがとうございました」「大変有意義な分かりやすい講座で大満足!楽しく学べました。(色々な意味で・・)黒澤酉蔵は自分自身に近い人物と感じます。近い歴史上(志の高い)人と・・・とわの森三愛高校、酪農学園―は大変身近でー」「黒澤酉蔵さんのことは知りませんでしたが、村山先生の講義に引き込まれました。日本の農業がデンマークより159年もおくれていたとは。毎日飲んでいる牛乳ですが、『知行合一』の精神で受け継がれているのですね。時間が短く残念でした」「話にユーモアもあり面白く聞きました。今まで知らなかった人にスポット当てて新しい知識を吸収するのは楽しくうれしいです」「酪農学園創立者黒澤酉蔵の酪農に対する行動力のすばらしさを知ることができた。大変有意義な講座内容でした」




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