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主催講座16「おもしろ石狩大百科~いしかり人物語」

第2回「『前半/佐藤松太郎~厚田が生んだ大網元・明治の実業家』『後半/子母澤寛~厚田が生んだ昭和の時代小説家』」

2017/02/24

 平成29年2月19日(日)主催講座16『おもしろ石狩大百科~いしかり人物語』の第2回を花川北コミュニティセンターで行いました。今回もいしかり市民カレッジのスタッフ(運営委員)が講師となって、厚田が生んだ2人の人物を取り上げ、40分ずつ講座を担当しました。前半は山田治己氏、後半は木戸口道彰氏がそれぞれ講師を務めました。
受講者は62名でした。以下にお話の概要を紹介します。

前半テーマ/佐藤松太郎~厚田が生んだ大網元・明治の実業家
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◇佐藤松太郎の人物像
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佐藤松太郎は、厚田の四大巨聖(子母澤寛、戸田城聖、吉葉山、佐藤松太郎)の一人と呼ばれている。なぜ厚田にこのような有名人が誕生しているのかについて、後ほど私見を述べたいと思う。松山善三の小説「厚田村」という本があります。この本の主人公「セツ」は松太郎の娘をモデルにしていて、「セツ」に字を教えたのが戸田城聖であるとか言われている。松山善三はかなり史実に基づいて書かれているので読んでみてください。
松太郎は、身長159㎝で体重が42貫(157㎏)。当時の横綱常陸山、今の横綱白鵬が190㎝158㎏で同じぐらい。大変な肥満体であった。外出時自分で歩くのが大変なので、縁台に乗ったりカゴに乗ったりしていたので大名のようであったという。
 佐藤家の屋号は「ヤママル」という。小樽の運河沿いにある倉庫群の半分以上は佐藤松太郎の倉庫であった。いまだにこの屋号が刻まれた倉庫が残っている。松太郎没後一時期小樽の倉庫株式会社が所有していたが現在は小樽市が管理していて、運河と共に倉庫も観光に活用されている。
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◇明治2年の厚田村
佐藤松太郎は1863(文久3)年、厚田・安瀬(やそすけ)16番地で誕生した。両親は、陸奥国(岩手県)の人で、江差に渡り漁業を営み明治維新前厚田に移住して漁業をしていた。
1869(明治2)年には、北海道開拓使(7月)が置かれ、蝦夷地を北海道に改名(8月)された。当時の厚田村は定住35戸、男女150人、出稼ぎ人1,000人、多い時には2,000人いたといわれる。当時の札幌は未開の原野に定住3戸というから、厚田漁場がいかに栄えていたかがわかる。その理由としては、ニシン漁場として発展したこと、厚田は海も陸路も使えたので小樽との交流が盛んであったことから小樽の文化が入ってきたことも考えられる。
◇漁業家としての活躍
松太郎はほとんど文字が読めなかったといわれるが、家業の漁師を継いだ。この人の凄さは、漁具や漁船や海の天気などの勉強をして、天才的な記憶力や直観力を持っていたといわれる。例えば、ニシンが来るのを予想できた。当時、石狩から厚田、浜益に99か所あった漁場のほとんどを所有する大網元の親方になっていた。その頃、東北から雇った漁夫やアイヌの人を含めると2,000人にもなった。また、年中300人ほどの漁夫を雇っていた。松太郎は、ニシン漁の他にマスやサケ漁も行っていた。さらに自分の船を持って小樽や積丹、カラフトにまで広大な漁場を持っていたといわれる。1918(大正7)年の漁業家番付〈北海道百番附け〉では横綱の地位にあり、全道屈指の高額納税者となっていた。
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◇実業家としての活動
1896(明治29)年に小樽(北浜町)に合名会社(佐藤商会)を設立。貨物船11隻を所有し、最初は海産物を扱い、カラフト、カムチャッカへ進出。ニシン粕、カズノコ、干しアワビ、昆布などの海産物を京都や瀬戸内方面へ積み出す。さらに米相場や穀物相場を手広く行って儲け、大漁業家から実業家として活躍した。
1904(明治37)年に母の隠居所を50,000円(当時の100万円が今の1億円)で建築した。現在も戸田旅館として残っている。
◇松太郎の社会貢献≪功績≫
1907(明治40)年、道会議員に当選(1期務める)
逸話の1つ:北海道庁を旭川に移転する、という話があった時、意見を問われ、即座に「いいでしょう。後で札幌に俺が建ててやる」と言ったという。人となりを垣間見るエピソードである。
1904(明治37)年、厚田尋常高等小学校校舎落成,発足文教所建設に当たって巨額の寄付を行い地域に貢献している。「厚田の有志ヤママルの佐藤松太郎が13,000円を寄付」(北海道庁資料「開拓使事業報告」より)
かつては、松太郎の命日には厚田小学校の全児童が、教師に引率されてお墓にお参りをしていた。
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厚田に電燈を引く・・・札幌から厚田までの電信柱の費用を負担。
戸田旅館は厚田の街に重厚な趣を残している。神社等への寄進も行なっている。1918(大正7)年の金満家番附け〈北海道百番附け〉で関脇の地位になっている。
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◇松太郎の死去
1918〈大正7〉年11月25日、小樽でスペイン風邪にかかり57歳で亡くなる。厚田の人々には「ヤママルの布袋さん」と呼ばれて大変親しまれていた。松太郎は、生前に自分のお墓を建てていたという文書もあるが、ちょっと疑問がある。
厚田正眼寺の境内に、敷地30坪、総御影石の立派なお墓が3基建っている。日本中でこのような大きなお墓は少ない。真ん中が佐藤家の墓、左側は松太郎と奥様が祀られている。共に大正12年の建立。右側が大正6年建立のお墓で天保年間とか明治2年の名前が見えるので、親族(親)のお墓ではないか。松太郎が造ったとすれば右側の親族のお墓ではないだろうか。
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財産について考えてみると、当時日本一の財閥三井財閥の資産は4億円。ヤママル佐藤は、7千万~8千万円(現在の70億~80億)といわれる。当時の庶民には気の遠くなる額を松太郎は1代で築いたのである。残念なことに後継者が育たず、松太郎の死後20年もたたぬ間に財産はゼロになってしまった。しかし厚田にとって外すことのできない人物であった。

後半テーマ/子母澤 寛~厚田が生んだ昭和の時代小説家
子母澤寛は、どんな人物でどんな作品を作ってきたのか、その作品の誕生にはどのような背景があったのかなどについてお話しします。
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厚田からは全国的に活躍した人が生まれている。
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◇梅谷松太郎・・・
子母澤寛は明治25(1982)年、厚田に生まれた。本名は梅谷(うめたに)松太郎。代表的な作品「新選組始末記」「勝海舟」はNHKの大河ドラマになる。「座頭市」は31シリーズの映画になった。昭和37(1962)年、菊池寛賞を受賞している。子母澤寛の異父弟が三岸好太郎です。子母澤寛は誕生のことについて、自叙伝『雪解けの道』(1936年)にこのように書かれている。「私の父というのは本当の父ではありません。わたしが入学のときは、もう六十過ぎで、胡麻塩で眉毛が長く延びた小柄な人でした。私の実母が私を生んで、これを藁の上から、自分の縁続きになっているところへ貰ってもらって、そのまま自分は村を離れて終わったのです。だから私は、私の祖父母の実子として届けられ、生みの親のお乳というものは一滴も飲まずに終わった。」
梅谷松太郎は、三岸石(いし)という母親と東京からの流れ者伊平との間に生まれた。母親は松太郎を生んで間もなく橘岩松と札幌に移ってしまう。そこで祖父の梅谷十次郎の子どもとして育てられる。だから自分の父親をまったく知らない。
◇祖父、梅谷十次郎・・・
祖父は梅谷十次郎といって、厚田の網元をしていた。旅館の経営や女郎屋などもやっていた。十次郎は幕府の御家人で、慶応4(明治元)年、彰義隊に加わって上野戦争で戦うが瞬く間に負け東北に逃れる。榎本武揚軍に入って函館戦争に参加するがここでも敗れ政府軍の捕虜になる。新政府は北海道開拓に従事させるために札幌に移送。そこで開拓に従事する傍ら石狩に移り、最終的に厚田に流れてくる。そして網元や旅館の経営をしていた。同時に御家人7人が厚田に流れている。上野から函館戦争までの様子を書いたのが、子母澤寛の『蝦夷物語』であり、厚田での様子を書いたのが『厚田日記』である。厚田の自然などの様子を書いた『南へ向いた丘』とともに厚田三部作といわれる。
◇子母澤寛と三岸好太郎・・・
「子母澤寛は三岸好太郎より11歳年長である。生後間もなく分かれた母の石と橘岩松との間にもうけたのが好太郎だった。子母澤寛は北海中学当時、札幌の実母のもとで過ごしたことがあり、好太郎とその頃からふかいつながりがあった。破滅型の天才であった三岸好太郎の資質を理解すると同時に、生涯をとおして親身になって世話を焼き、好太郎が昭和9年7月、名古屋で急逝したときも、最初にかけつけたのは子母澤寛だった。子母澤寛は黒いしみになった吐血の跡をみて、好太郎の短い生涯との苦闘を思いやったに違いない。」尾崎秀樹「子母澤寛―人と文学」中央公論社(1977年)
三岸好太郎についてふれる。夭折の画家。札幌一中(現札幌南高)に入る。さっぱり勉強しないで北大農学部前の庭でいつも本を読んでいた。この頃、美術教師林竹冶郎の指導を受け美術に目覚め、東京に出て独学で絵の勉強をする。「兄及ビ彼ノ長女」という8号ほどの油彩画は、第2回春陽会展で第1位入賞したデビュー作である。当時日本洋画家の第一人者であった岸田劉生がこの絵を絶賛したそうである。
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◇函館大火によって・・・
子母澤寛は、厚田小学校を成績トップで卒業して、陸軍地方幼年学校を受験するも片方の耳が悪いために落ちてしまい、函館町立商業学校(現函館商業高校)に進学する。ところが明治40年8月25日、函館大火があり学校も下宿も焼けてしまう。武士の商法で生活に窮していた祖父松谷十次郎は、大切に持っていた金時計を90円で質に入れて子母澤寛をやっと函館商業に入れたが、半年後の大火ですべてを失ってしまった。そこで、小樽商業(現北照高校)に転校し、間もなく札幌の北海中学(現北海高校)に入りなおす。
◇祖父、十次郎の死・・・
明治44(1911)年、19歳のとき北海中学を卒業して上京するが、その3月18日、十次郎が亡くなり全くの孤独になる。この様子を、自叙伝的な作品『曲り角人生』(1974年)という作品に書いている。
◇家族のこと・・・
子母澤寛には5人の子どもがいる。長女てるよ、次女さゆり、長男龍一、二男弘二、三男第伍。お孫さんが7人。平成29年1月31日の北海道新聞に「子母澤寛の遺品、書籍寄贈」という記事が載っている。寄贈した人は東京に住んでおられる宮川さん(72歳)という方で、子母澤寛の長女てるよさんの子どもです。現在は孫、曾孫さんの代となっていることである。
◇そして、再び東京へ・・・
明治大学法学部卒業後、東京で仕事がないため北海道に帰って来る。釧路の小さな新聞社や札幌の木材会社などに勤めるが生活が苦しく、大正7(1918)年、26歳のとき再び上京。読売新聞に入社するが生活は苦しく、アルバイトで赤本に文章を書いたりしていた。その当時の生活困窮の様子が『2丁目の角の物語』(1974年)という作品に書かれている。
「厚田日記」は子母澤寛の厚田三部作の1つと言われている。寛の死後昭和49年に子母澤寛文学碑が造られ、厚田中学校向いに設置されていたが昭和53年に厚田公園に移設された。
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◇作家、子母澤寛として・・・
昭和3(1929)年から作家として筆名を子母澤寛となった。東京大森の子母澤という地名と作家菊池寛の「寛」をとっている。そして次々と作品を発表するようになる。特に昭和10年から16年頃までは1日に原稿用紙60枚から70枚の原稿を書いた。ひと月に400枚ぐらい書くということで、当時としては最も発表する作品の多い作家となっていく。「新撰組始末記」に始まり最期の作品、昭和41年の「行きゆきて峠あり」まで多くの作品を残した。
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石狩市民図書館には子母澤寛の作品が沢山あるので機会があればお読みください。
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※新聞記事、2016年12月1日
厚田にある子母澤寛の会が「彰義隊秘聞」という作品の原稿250枚ほどが札幌の古書店から出てきたものを、CDにして活字化したという内容。まだ見出されていない原稿があるかもしれない。
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◇子母澤寛の存在の意味
木原直彦氏は北海道文学館館長や札幌文庫の編集をされた方で、下記のような言葉を残している。
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このように子母澤寛は、弱者、敗残者など庶民の眼から見た歴史を作品として残した作家である。石狩図書館蔵書に色々な作品がありますので機会がありましたらお読みください。

受講者からいただいた前半、後半を通した感想の中から幾つかを抜粋して紹介します。
・厚田からなぜ偉大な人物が輩出したのか、その疑問について考え得るお話を今回の講座で聞くことが出来た。非常に面白い講座だった。
・佐藤松太郎のお墓をスライドで見て、右側の墓は松太郎の建てた親族(父母)の墓であろうとの話の中で、どんなに息子が偉くなっても親よりも大きな墓を建ててはいけないという話を聞いたことを思い出した。松太郎と妻の墓は少し低くなっていることがうかがえる。松太郎が遺言したのではと思い、人柄が偲ばれる。
・市民のレッジのスタッフが講師というスタイルは大変誇らしい。いしかり市民カレッジの質の高さの源と感じる。
・いずれ機会があれば、浅知識ではありますが私も講座発表の講師の経験を踏んでみたいと思っている。
・近年は関心の高い講座が続き感謝している。特に今講座の石狩人物語は、カレッジスタッフの方が研究され、詳細な講演がなされ、又一段といしかりの歴史を彩った人物を理解できた。
・石狩の歴史人物殆んど知識が無くとても興味深く拝聴した。ぜひパートⅡ、Ⅲの企画をお願いしたい。
 




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