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主催講座16 『明治初年の文化政策とアイヌ』

2016/02/09

 平成28年1月27日(水)講座16『明治初年の文化政策とアイヌ』の第1回「石狩アイヌ 志村弥十郎のこと」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師はアイヌ文化史の専門家である北海道大学アイヌ・先住民族研究センター客員教授の佐々木利和さん、受講者は55名でした。
 
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 佐々木さんが志村弥十郎について調査研究することになったきっかけは、手元に石狩アイヌの資料があったこと、および2020年に白老に国立のアイヌ文化博物館(仮称)が建設されることなどであると話されました。以下に佐々木さんのお話しの概要を紹介致します。
 
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 志村弥十郎については資料があまりなく人物像を知ることは非常に難しいが、「北海道土人志村弥十郎」との標題がついた2枚の古い写真があり、これが手掛かりとなって少しずつ明らかになってきた。これらの写真は湿板(しっぱん)写真で13.5×9.0㌢㍍の鶏卵紙にプリントされ、「明治4年展覧会(実際は明治5<1872>年の博覧会のこと)写真帳」に貼り込まれたものである。
 
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 古い写真を見る前に、アイヌ文化および博覧会について考えてみよう。アイヌの人々は日本の文化とは違った文化をもつ人達で、「アイヌ民族はいない」という札幌市会議員の発言や明治初期の小学唱歌「ほたるの光」から少し考えてみる。前者については「民族」というものに関する考え、また後者については歌詞の4番に注目して見てみる。その歌詞には「千島のおくも おきなわも やしまのうちの まもりなり...」とあり、「千島のおくもおきなわも、」は大日本帝国の第一次版図拡大の状況を示している。

 博覧会というものについては、明治元年に太政官制が設置、太政官に大学(大学本部、東校、南校)が置かれ、明治3年に大学南校物産局が置かれて招魂社(現在の靖国神社)で小規模な物産会が開催された。明治6(1873)年にウィーン万国博覧会の開催が決定して日本に招請状が届いたことから、明治5年太政官に博覧会事務局が設置された。明治5年3月10日に文部省博物局(明治4年に太政官制の改編で文部省が設置され、博物局が置かれた)が湯島聖堂で博覧会を開催した。志村弥十郎の名が出てきたのは、この博覧会でのことである。
 湯島聖堂で開催された博覧会の出品は古器旧物、各地の物産および動植物などであったが、志村弥十郎は北海道産ヒグマの世話人(畜養人)としてこの時に雇用されたものと思われる。ただ、明治6年5月13日付博覧会事務局より開拓使宛には「北海道土人6名へ手当給与の件」が出されており、志村を含む6人が雇用されたのかもしれない。また、明治7年3月4日には博覧会事務局より開拓使宛には「御使御雇エゾ人/古河某/又一」に熊檻の柵の修理を依頼する書状を出されている。古河某/又一とは札幌アイヌの古河伊吾と琴似又一のことである。

 さて、志村弥十郎という人はどのような人か?明治35年4月に発行された「少年世界 定期増刊」に大澤天仙による「上野動物園」という記事があり、そこには「北海道石狩国徳平(トクビラあるいはトクヒラ)のアイヌ、後に志村弥十郎と名乗ったシャンゲといふのが一緒に従い来て...」という記載がある。その記載が正しいかどうか判らないが、松浦武四郎の「手控 巳 第三番」には「安政3(1856)年イシカリ之内トクヒタには」という記述があり、ひとつの家族構成が示されている。その中に「弟 シャンケ 三十才」という記載があり、確証はないが年令的には問題がないようである。

 志村弥十郎の古写真の分析から様々なことが伺い知れる。弥十郎の着物やはきものは東京国立博物館の所蔵品中に確認でき、手にしている武器なども存在は確認できるが(博覧会事務局引き継ぎ品として)、資料の確定は困難である。博覧会の写真帳に貼り込まれた写真とは別に一枚ものの写真もあり、両者の構図などはよく似ているが、背景を含めて若干異なるところもある。弥十郎の着物(襟が右前か左前かを含めて)、着物の紋様、陣羽織(黒いニワトリの羽根からできている)、脚絆および手にしている弓などの分析から様々なことが想像できる。

 志村弥十郎資料の評価としては、使用者(作成者は弥十郎の家族)、作成年(明治5年前)および地域(北海道石狩のトクビラ?)などがわかり、アイヌ文化、とりわけ石狩地方アイヌ資料の基準資料として非常に貴重である。これらは年代がわかる日本最古の資料群であり、これに類するものでは鳥居龍蔵の千島アイヌコレクションしかない。
 
 撮影者は横山松三郎である可能性が高く(横山は博覧会に出品された名古屋城金鯱も撮影している)、アイヌの人々を写したものでは日本最古のものであり、文化財としての評価は非常に高い。被写体が志村弥十郎であることには疑いないが、それが徳平のシャンケであるかは問題であり、今後さらなる検討が必要である。

 最後に質問を受けられました。「アイヌには年令や年代、季節的な概念があったか?」という質問には「年の概念など全てがあり、暦もあった」との回答がありました。また、「石狩の徳平というのは今のどこか?」との質問に対しては、石狩郷土研究会会長で市民カレッジスタッフの村山さんが佐々木さんに代わって答えられました。それによると、石狩町史上巻に掲載されているアイヌの地名では現在の本町弁天社付近に「徳平」という地名が記されているが、郷土研究会の井口さんの調査によれば運上屋から手稲側18町(約1800㍍)のところ、すなわち厚田方向に向かって石狩河口橋を渡る手前左側のグラウンド付近ではないかとのことでした。

 受講者にとっては「志村弥十郎」という始めて聞く名であったが、古い2枚の写真からアイヌの文化史や石狩の歴史などが明らかにされていく様子を聞くことができ、大変興味深い講座であった。




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