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講座4 「『北海道遺産を巡る旅』~次世代に引き継ぎたい北海道の宝物~」

第1回 「札幌市内の北海道遺産を訪ねて」

2015/06/24

 平成27年6月18日(木)に講座4「『北海道遺産を巡る旅』~世代に引き継ぎたい北海道の宝物~」の第1回「札幌市内の北海道遺産を訪ねて」を行いました。43名の受講者が参加して琴似屯田兵屋や北海道大学第二農場、清華亭、苗穂地区工場群などの北海道遺産を訪ね、私たちの周りには普段気づかないが大きな歴史・文化・生活・産業的価値をもつ宝物が多くあることを改めて知りました。天候に恵まれ、まことに心豊かな1日を過ごすことができました。

 8時30分バスで公民館を出発、琴似屯田兵屋に向かう車中において今回講座のスタッフで元高校長の木戸口道彰さんから北海道遺産や屯田兵などについて詳しい説明を受けた。北海道遺産とは、豊かな自然はもちろん、北海道に生きた人びとの歴史や文化、生活、産業など有形・無形の財産の中から道民参加によって選ばれたもので、次の世代に引き継ぎたい北海道の大切な宝物である。平成13年10月に第1回選定分25件、平成16年10月に第2回選定分27件が決まり、合計52件の北海道遺産が誕生した。今回は4件の北海道遺産を訪ねた。
 屯田兵については、札幌市内に琴似屯田兵村(明治8~9年に240戸・1,142人が入植、北海道最初の屯田兵村)、新琴似屯田兵村(明治20~21年に220戸・1,012人が入植)、篠路屯田兵村(明治22年に220戸・1,056人が入植)および山鼻屯田兵村(明治9年に240戸・1,114人が入植)の4カ所の屯田兵村が設置されていた。バスは篠路屯田兵村があった場所、篠路屯田開拓顕彰広場、新琴似屯田兵中隊本部跡(新琴似神社の中)などを通り、創成川、麻生町、新川、八軒、二十四軒、琴似駅などの地名の由来や地形などについても説明を受けながら、北海道遺産である琴似屯田兵村兵屋跡に到着した。
 琴似屯田兵屋では、琴似屯田子孫会事務局長の永峰貴さんが屯田兵の制服を着て出迎えていただいた。永峰さんの祖父は屯田兵であり、ご自身も屯田兵屋で暮らした経験があるので、屯田兵の暮らしぶりなどについて約30分間大変説得性のある説明をしていただいた。
 それによると、琴似屯田兵村は明治8(1875)年5月に屯田兵198人と家族965人が第一陣として琴似に入植したのが始まりで、兵屋数は発寒兵屋を含めて240戸であった。住居である兵屋は一戸当たり150坪(約495㎡)の敷地に区画され、それぞれ17坪半(約58㎡)の家が建てられていた。当時の区画を示す境界線の一部は今も残されており、区画133号の清野専次郎宅の兵屋が復元されて今回実際に見学することができた。内部は暗くて狭く、大変寒かったようであるが、明治初期の住宅としては水準以上のものであったとのこと。屯田兵はこの兵屋に住み、一戸当たり5千坪(約16,500㎡)の未開地を開墾しつつ、必要時には兵士となって北海道を守る役割を果たした。
27,4,1,1.jpg写真2 琴似屯田兵屋において.JPG
 次に、国の重要文化財であり北海道遺産でもある北海道大学第二農場(札幌農学校第二農場)を見学した。第二農場は耐震改修工事のため2年前から閉館されていたが6月14日に一般公開が再開されたもので、今回は非常にタイミング良く見学することができた。第二農場で講師の角幸博北海道大学名誉教授と合流し、角先生から北大構内の歴史的建造物、清華亭および旧永山武四郎邸などについて、ご専門の建築史の観点から大変興味深い解説をしていただいた。
写真3 角幸博先生(北大第二農場にて).JPG
 第二農場はクラーク博士の構想によって一戸の酪農家をイメージした畜舎と関連施設を並べ、北海道最初の畜産経営の実践農場として明治9(1876)年に開設された。その建築史上の価値が認められ、昭和44(1969)年に現存する9棟が国の重要文化財に指定され、さらに平成13(2001)年には北海道遺産にも登録された。見学したのは以下の建物である。
・事務所(明治43年建築)~入口右手
・製乳所(明治44年建築)~レンガ造りで、牛乳を市販乳やバター、チーズに加工する施設。製造室、洗い場、氷室と冷蔵室の3室に分かれている。窓枠上部中央のキーストーンが特徴である。
・釜場(明治43年建築)~石造りで、外壁は札幌軟石と思われる。ジャガイモなどを煮込んで豚などの家畜用餌を作る施設である。
・牧牛舎(明治42年建築)~乳牛専用の大きな畜舎で、1階に大きな切妻屋根を載せた腰の低い左右対称の外観は中札内美術館「北の大地美術館」のモデルとなっている。中央廊下の左右両側に10頭ずつ飼育する対頭式牛床の形式をとっており、右側部分は餌槽と通路、外周壁がれんが造りで、左側部分は木製の餌槽とコンクリートの通路となっている。飼育環境の影響や作業効率などを比較試験したようである。乳牛の健康と臭い除去のための換気設備もあり、畜舎の背後には札幌軟石でできた石造サイロ(容量195㎡)も併設されている。
・模範家畜房(モデルバーン;明治10年建築)~クラーク博士が学長を務めるマサチューセッツ農家大学の家畜房を手本に構想したもので、札幌農学校で最初に建てられた模範家畜房である。内部は産室、追込所(対尾式牛床)、子牛育成室および馬房に区分されている。古い農機具なども展示されている。
・穀物庫(コーンバーン;明治10年建築)~高床式で、トウモロコシなどの飼料穀物や種子を保管する建物である。外壁板を3段に分け、縦と横に張った簀の子状壁を使用し、トウモロコシを自然通風しながら貯蔵できる仕組みとなっている。
写真4 第二農場牧牛舎.JPG写真5 第二農場モデルバーン.JPG写真6 モデルバーン内部.JPG写真7 モデルバーン内に展示されている古い農機具.JPG写真8 第二農場穀物庫.JPG
 第二農場を出て北大正門から再入構し、次のような歴史的建造物を見学した。
・古河講堂(明治42年建設、国登録有形文化財)~古河財閥が国に献金した100万円の一部で建設した。当初は林学教室として使われたが、現在は文学研究科の研究室として利用されている。アメリカ伝来の下見板をまとった、アメリカン・ヴィクトリアン様式の建築で、フランス伝来のマンサード屋根など様々な建築様式の組合わせが特徴である。玄関ポーチ左右の円柱上の鈴蘭風の装飾や玄関内部扉腰板の「林」の文字意匠なども特徴である。
・旧昆虫学及養蚕学教室(明治34年建設、国登録有形文化財)~札幌農学校の校舎群が開校当初の位置(現在の時計台付近)から現キャンパスに移転した時建てられた校舎の中で現存する最古の建物である。現在はトタン屋根であるが竣工当初は瓦葺きの屋根であり、当時の北海道に瓦の文化があったことを示している。
・旧北海道帝国大学農学部昆虫学標本室(昭和2年建築)~わが国の昆虫学の基礎を築いた札幌農学校の松村松年教授が長年陳情の末、ようやく実現した不燃構造の標本室である。外壁は石造りである。
・旧札幌農学校図書館読書室・書庫(明治35年建築、国登録有形文化財)~建築後60年以上、中央図書館として使用されていた。
・農学部本館(昭和10~11年建設)~明治36年に建設された札幌農学校以来の木造校舎が老朽化したため、昭和10~11年に鉄筋コンクリート造に改修された。竣工間もない昭和11年の陸軍特別大演習では大本営として使用され、3階は天皇の御座所、寝室、食堂などに利用された。
写真9 古河講堂.JPG写真10 旧昆虫学及養蚕学教室.JPG写真11 旧札幌農学校図書館.JPG
 北大中央ローンやクラーク会館で昼食を取った後、徒歩で清華亭に向かった。清華亭は、札幌最初の都市公園である偕楽園内に貴賓接待所として明治13年に建てられ、翌年の明治天皇行幸の際には休憩所として使用された。この建物の特徴は、全体に洋風の造りの中で至るところに和風の様式を調和させていることである。明治時代の和洋折衷様式を示す歴史的建築物として昭和36年に札幌市有形文化財に、平成16年には北海道遺産として登録された。なお、隣接する偕楽園には至る所に泉(アイヌ語でメム)があり、当時はその自然湧水が集まって「サクシュコトニ川」という清らかな川となり北大構内の中央ローンにつながっていた。秋には鮭が上がってきたと伝えられている。
写真12 清華亭.JPG写真13 清華亭シャンデリア.JPG
 次に、北大を出て旧永山武四郎邸に向かった。旧永山武四郎邸は、第2代北海道庁長官や第七師団長を歴任し北海道開拓に尽力した永山武四郎が住む邸宅として、明治13年頃に建設された。正面玄関は洋風であり、南側の書院座敷と北側の洋風応接室を直結させた和洋折衷の造りは、明治初期の洋風住宅を示すものとして貴重である。永山武四郎が逝去後、邸宅は三菱合資会社に譲り渡され、昭和12年頃に三菱鉱業株式会社によって木造クラブが増築された。昭和60年、土地と建物は全て札幌市に寄贈され、昭和62年に北海道有形文化財に指定された。平成16年には北海道遺産としても登録されている。
写真14 旧永山武四郎邸.JPG
 北海道遺産である札幌苗穂地区の工場・記念館群の見学は、木戸口さんの説明を受けてバスの車中で行った。主な見学先は、北海道鉄道技術館(鉄道車両の製作、改造、検査修繕などを行うJR北海道苗穂工場内に設置)、福山醸造株式会社(トモエ醤油が有名)、雪印乳業史料館(昭和52年創業50周年を記念して設立)およびサッポロビール博物館(昭和62年開館、赤レンガの重厚な外観が印象的)である。この他、苗穂駅、大日本印刷、Ario札幌なども見学したが、苗穂ゆかりの歴史的人物として大友亀太郎を忘れることができない。大友は天保5(1834)年に相模国(現在の神奈川県小田原市)で生まれ、22歳で二宮尊徳に師事、25歳で幕府に召し抱えられた。函館奉行付として木古内、大野の開拓を成功に導き、その実績により石狩平野の開拓を委ねられた。大友が行った開拓の特色は、入植農家が農業だけに専念できるよう、入植前に農業用水路の開削や開墾といったインフラ整備を行ったことである。このようにして造られた用水路は拡幅されて物資運搬に用いられ、「大友堀」と呼ばれるようになった。

 その後の帰路においても、丘珠空港、モエレ沼とモエレ沼公園、福移、あいの里、JR札沼線(学園都市線)、茨戸、茨戸川などの説明を受け、午後4時頃公民館に帰着した。

 あわただしい中にも大変充実した1日であった。




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