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講座10 『北の人物伝~北海道の歴史を彩った人々』

第2回 「クローズアップ『黒田清隆』」

2014/10/13

 10月10日(金)、講座10『北の人物伝~北海道の歴史を彩った人々』の第2回「クローズアップ『黒田清隆』」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、元NHK社会部記者で現在は札幌市の観光ボランティアガイドをされている望田武司さん、受講者は38人でした。

 望田さんは「みなさんこんにちは、第2回は黒田清隆のお話です。黒田の生活史は、明治維新までと開拓使時代それから中央政界の時代の3つに分けられますが、今日は主に北海道に関係の深い開拓使時代についてお話します」と言ってお話を始められました。
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以下はそのお話の概要です。

◇明治政府が北海道開拓10カ年計画に国家予算の1年分ものお金をつぎ込む程力を入れたのはどうしてなのか
・江戸時代の文化3年~4年にかけて露寇事件(ロシアによる樺太、利尻、択捉島襲撃)が起きてロシアの侵入が脅威となり、幕府は蝦夷地を直轄地とし、間宮林蔵、最上徳内、近藤重蔵、松浦武四郎などに蝦夷地の情勢を探らせた。
・ペリー(米)やプチャーチン(露)来航(1853年)の翌年幕府は蝦夷視察団を派遣した
・明治天皇の御下問書でも新政府が早急に果たすべき重要事案3つのうちの1つが蝦夷地開拓だった
※北海道開拓が重要視された背景には、ロシア侵入の脅威があった。

◇開拓使の設置
明治政府は、北海道開拓のために中央省と同格で独自の開拓使を設置した。また樺太開拓使も設置し黒田清隆を責任者としたが、樺太を視察した黒田は、北海道を重視すべきと建言して認められ、間もなく樺太開拓使は廃止された。

◇歴代開拓使長官
・鍋島直正(明治2年7月~同年8月)、東久世道禧(明治2年~4年10月)、黒田清隆(8年2月~15年1月)、西郷従道(~15年2月)
黒田は、次官だった明治3年から数えると13年間、北海道開発に携わり、北海道の生みの親と言っても過言ではない。
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◇黒田清隆の業績
・アメリカ視察でグラント大統領に人材の派遣を要請、農務長官だったホーレス・ケプロンを開拓使顧問として招聘した
大通り10丁目にある、黒田とケプロンの像は、開道100年の昭和43年に、その功績を顕彰して建てられた。
・度量が広く、意見や立場の違う人物でも、能力があれば登用した
箱館戦争で降伏した榎本武揚の助命に奔走しその後登用した。榎本と行動を共にした、大鳥圭介、荒井郁之助、林薫、山内堤雲らもその後大臣など要職に就いて活躍した。
榎本の他にも長岡藩士・森源三(札幌農学校校長、桑園開拓)、庄内藩士・松本十郎(根室判官、札幌大判官)などを登用した。
行き所の定まらなかった会津降伏人たちに住む地(余市・黒川町―町名は黒田の黒とリーダー・宗川熊四郎の川を合わせたもの)を与え、ケプロンが持ち込んだりんごの苗木(緋の衣として成功)を提供した。
・開拓使海外派遣留学制度を設けた―教育、特に女子教育に力を尽くした
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・札幌学校女学校を開設(1年弱で廃校)
・札幌農学校の開設
クラークを招き教頭とする。
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※黒田が教育に大変力を入れたことは、あまり知られていない。

◇妻・清の死亡にまつわる疑惑
・団々珍聞
清夫人の死は、病死ではなく黒田による斬殺であると、面白可笑しく書いた。
・民間雑誌(福沢諭吉主宰)
病死に間違いなし、との記事。
・郵便報知新聞(薩州閥と親交)
殺害説を否定。
・東京日日新聞
長州閥系の新聞でありながら、この件には沈黙。
・大久保利通
黒田を擁護したが、暗殺される。
・黒木百子
清の妹で、黒田の養女となった。黒田を憎むどころか敬愛し、黒田家存続のために息子を養子に出した。
・井黒弥太郎「追跡:黒田清隆夫人の死」(昭和61年)
病死としている。
・「青雲の果て」の著者の奥田静夫氏
福沢の医師の話、百子の養父への想い、言い訳しない薩摩男子、などから推しはかって殺害説を否定している。
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◇官有物払下げ事件
・明治15年、開拓使は廃止されることとなった
・官有物払下げ
開拓使10年間で1400万円を注ぎこんだ官有物(船舶、農場、倉庫、製缶、養蚕、ビール、ラッコ猟など時価3000万円)を五代友厚(薩摩出身)の関西貿易会社に38万円、30年賦、無利子で払い下げるとした。
一度は認められたが、批判が多く、大隈重信の単独奏上により天皇裁可が取り消しとなった。黒田は失脚し大隈参議も辞任した(明治14年の政変、これ以来、自由民権運動が高まった)

◇開拓使長官後の黒田
・明治21年、第2代内閣総理大臣
・明治22年、明治憲法発布
・明治28年、枢密院議長
・明治33年、死去 
榎本武揚が葬儀委員長を務め、内村鑑三が弔辞を読んだ。

 本日は以上のようなお話でしたが、あまり知られていない黒田清隆の教育者としての一面、特に女子教育にも力を入れことなどがクローズアップされて大変興味深いものでした。お話を聴いた受講者からもたくさんのコメントが寄せられましたので、その一部をご紹介します。

「今回は参加して本当に良かったです。色々な面で勉強になりました」
「榎本武揚、黒田清隆、二人の活躍が北海道の基礎を作った事、始めてくわしく知る事ができました。北海道に住みながら勉強不足が恥ずかしい限り」
「榎本武揚、黒田清隆共にこれまでは一部しか知らなかった。明治政府、北海道開発に大きく関わって来た事を知りました」
「良く理解できました。歴史にますます興味がわきました」
「色々と巾ひろい教養が見に付き大変良かったと思う」
「大変楽しく勉強になりました」
「北の人物伝はとても参考になった。今後も北海道に関係する人物について現代までに及ぶ人々を解説してほしい。いしかり市民カレッジの名物講座に育ててほしい」
「北の人物伝は毎回大変期待し何時も満足しています。ありがとうございます」




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