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講座6 『不思議いっぱい!石狩川河口~河口砂嘴の地形変化を考える~』

第2回 「石狩の歴史に学ぶ過去数百年の変遷」

2014/06/23

 6月18日(木)、講座6『不思議いっぱい!石狩川河口~河口砂嘴の地形変化を考える~』の第2回「石狩の歴史に学ぶ過去数百年の変遷」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、いしかりガイドボランティアの会の石川治さん、受講者は56名でした。

 石川さんは「前回は自分の足と目で確かめたデータに基づいてお話しましたが、今回は集めた過去の資料から推測したお話になります。どれだけの資料を集められたのか、それをどれだけ読みとれたのか、甚だ歯切れの悪いお話になるかもしれませんので、その点はご了承ください」
と前置きをして本日のお話を始められました。
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 以下は、4つの時代(5000~6000年前から18世紀末まで、文化文政時代、明治時代、戦後)に分けてのお話の概要です。

1)およそ5000~6000年前(縄文海進)から18世紀末まで
・およそ1万年前に、最終氷河期が終わり温暖化し、海が進入し始めた。
・5500年前は、縄文海進の最盛期(海水面は現在よりおよそ3m高くなって、古石狩湾≪古石狩湖≫が広がる)当然、石狩川河口砂嘴はない。
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・紅葉山砂丘
6000年前に砂礫州として、手稲山地と石狩丘陵の両側から海面上に現れ、5000年前に、海退と堆積により古石狩湾が陸地化、海岸砂丘として形成された。
・花畔砂堤列
海岸線に並行に縞状に100列以上の高低のある地形。平均して、1000年に1㎞で前進。
・石狩砂丘―小樽市銭函~石狩川河口~石狩市望来まで約25㎞(石狩川河口砂嘴もその一部と考えられる)
形成された時期は?
内陸側は、主としてカシワの天然林(幅500~800m)
擦文土器の発見など考古学的見地から1500~1600年前から700~800年前。
海岸側は、ハマナスなどの砂丘草原(幅200~300m)
いつごろ形成されたかは定かではない。火山灰層の存在がみとめられないので、1739年或は1667年の樽前山大噴火以降か?
◇以上の事から、砂嘴の形成時期は
砂嘴の付け根のあたりで幅が600mであることから→1000年に1㎞説で推し量ると、砂嘴の形成は600年前から?
付け根のあたりはカシワの天然林帯外縁部と重なっている。砂丘の内陸部は擦文期(700~800年前まで)には形成されたとされる。それらから、砂嘴が形作られ始めたのは、600~800年前からと考えても良いか?
・400年ほど前から"イシカリ"が和人の歴史に登場する
17~18世紀(江戸時代中期まで)の古地図を訪ねると・・・
正保日本総図(1644≪正保元≫年):イシカリエゾ多、と書かれている。
エゾ松前日本ノ図(1669≪寛文9≫年):大湊石カラ川廣サ四百間と記述。
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元禄国絵図(1700≪元禄13≫年):"いしかり"の記載がある。
飛騨屋久兵衛石狩山伐木図(1751~1764≪宝暦年間≫年):石狩川口に、運上屋、弁財天、木場が書かれている。
これらの18世紀終わりころまでの古地図は、かなり荒唐無稽に見える。
しかし、1800年代になると、蝦夷地の地図が飛躍的に正確さを増し、砂嘴が地図上にはっきり登場する。
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2)文化、文政の頃
・1694(元禄7)年、弁天社創建。1823(文政6)年、亀鮫社堂宮新築。1856(安政3)年、弁天社、稲荷社、亀鮫社を一社に合祀、亀鮫社古宮を修復して弁天社として使用。
・松浦武四郎の日記にも、1846(弘化3)年、弁天社、鎮守妙亀法鮫大明神の記述がある。
・1817(文化末)年頃の「イシカリ川之図」には、弁天社だけが書かれているが、1846(弘化3)年の「石カリ川口之図」には妙亀法鮫社も書かれている。
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・1874(明治7)年に、弁天社の位置に石狩八幡神社を遷宮。
◇以上の事やその他の図を含めて考えると、現在の石狩八幡神社の建つ位置が、1810年代の末頃石狩川左岸河口の先端近くだった。
◇また、伊能大図をGoogle earthへ重ねてみると
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①現石狩八幡神社の位置
砂嘴の先端すれすれか、まだ砂嘴上にはなく川の中だったように読みとれる。
②石狩灯台の位置
ほとんど対岸(右岸)
③石狩川(現茨戸川)の流路がかなりズレている。
④海岸線の位置が新港の両側で明瞭な違い。
北東側は、海岸線が200~250m前進。南西側はほとんど変わらない。

3)明治の頃
・流域の開拓が進み、森林が伐採され大きな洪水が頻発、大量の土砂が石狩川から流出。
・近代的な測量技術が導入され、正確な地形図が作成された。
◇石狩川河口変遷比較平面図(明治7年~大正4年の実測結果を重ね合わせた図)をオーバーレイしてみると、流域の開拓とともに河口砂嘴の伸びは著しくなったことが分かる。
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4)戦後の頃
・石狩川河口右岸の護岸工事が本格化(水制工、導流堤)した。
・米軍、国土地理院などにより空中写真が撮影されるようになった。
◇昭和22年(米軍)、昭和36年(パシフィック航業)、昭和51年(国土地理院)の3枚の空中写真と昭和37年・国土地理院の5000分の1の国土基本図を重ねてみると・・・
昭和22年の時点で、すでに砂嘴の先端は伸びきっており、海岸線も大枠はほとんど変わっていない。
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◇砂嘴の伸長速度について長い時間スケールでみるとどうなるのだろうか?
 最後に今回イメージオーバーレイを試みたすべての地形資料について、石狩灯台を基準とする各年の砂嘴先端位置までの距離を算出し、横軸を年、縦軸を距離としたグラフに落としてみる。
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 グラフでは、明治7年から昭和22年までは、この間に生振捷水路が通水したにも関わらず各点を結んだ線がほとんど直線になっている。また昭和22年以降現在までについては、その間に河口導流堤が完成したにも関わらず変化がない。つまり、捷水路も導流堤も砂嘴の伸長速度に関しては影響を与えていない事が分かる。さらに、明治7年から昭和22年までのデータを最小二乗法を使って直線近似した傾きは23.75m/年となり、明治から大正にかけての河口変遷図にあった24m/年とほとんど一致する。(ただし、結果全体の正確さを裏付けるためには、図の青丸部分の地形資料がほしい)

まとめ―1
・文化文政以前に砂嘴の形状の資料はない。
・文化文政(1804年~1830年)の頃は、現在の八幡神社のあたりが河口の先端近くだった。
・明治以降、流域の開拓とともに河口砂嘴の伸びが著しくなった。
・昭和20年以降、砂嘴の伸長はとまった。
・現在の海岸線もその頃ほぼ確定した。

まとめ―2
・文化文政以降、砂嘴の伸長度合いについて2つの転換点があった。
ひとつは、明治の初めで、石狩川流域の開拓が一気に進んだことによるものと思われる。もうひとつは、戦後、河口右岸の護岸(水制工など)が本格化したことによると思われる。
・文化文政から明治までは、およそ10m/年、その後戦後までは、20m強/年、それ以降今日まで伸びは止まっている。

まとめ―3
・河口導流堤およびショートカットは、いずれも砂嘴の成長に大きな影響を与えたと考えられてきたが・・・
砂嘴の伸長速度に関する限り、意外にも直接的な寄与は少なかったようだ。
・治水の空白時代の昭和15年から20年にかけてのデータがあれば、さらに詳しく検証できるが、残念ながらない。

まとめ―4
・江戸時代の絵図
八幡神社から砂嘴の付け根まで約2000m。伸長速度を10m/年程度とすると200年かかる。単純に当てはめると1600年頃の慶長年代に砂嘴はやっと延び始めたのか?それであるなら、正保国絵図などの荒唐無稽に思える絵図も、もしかしたら本当の姿だったのかもしれない?

 本日は、以上のようなお話でしたが、様々な資料から砂嘴の成長を読みとると云う大変興味深いものでした。特に、河口導流堤や石狩川のショートカットが砂嘴の成長速度には影響を及ぼさず、砂嘴の伸びは昭和20年頃で止まっていると云うお話は驚きでした。

 次回の第3回は、河口を歩いて観察することになっており、石川さんが実際にGPSで調査された時のお話など聞かせて頂けると思いますので、大変楽しみです。




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