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主催講座1 田中實さんが語る~「いしかりの歴史」

第1回 さけと穀倉のまちから港湾都市への「いしかりの歴史」

2013/04/27

 4月25日(木)石狩市総合福祉センター"りんくる"で、講座1 田中實さんが語る~「いしかりの歴史」の第1回 さけと穀倉のまちから港湾都市への「いしかりの歴史」を行いました。講師は、石狩市郷土研究会顧問の田中實さん、受講者は、71人でした。

 田中さんは先ず、「90分でいしかりの歴史をお話するのはとても無理なので、今日はいくつかの事柄にしぼってお話します。後は、市民図書館の2階にある資料で勉強して下さい。また、いしかり砂丘の風資料館編纂の"石狩ファイル"も参考になる資料です。」と前置きして話を始められました。
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いしかりの歴史

漁業

1)石狩川とアイヌの人達
・母なる川"石狩川"流域には多くのアイヌの人達がくらしていた。
・アイヌの人達については、従来、和人に虐げられてきた、とされているが、近年の研究では(例えば余市の例)、ゆとりのある生活をしていて、苦しい世帯は全体で助けていた、と云う事実もあることが分かってきた。

2)快風丸
・元禄元(1688)年、水戸光圀が派遣した「快風丸」については、3冊の本に、当時の石狩の事が書かれているが、この3冊は、100年間伏せられていた。また、船の製造地も書かれていない、未だに謎である。
・快風丸は、石狩で、鮭100匹で米18キロと交換しているが、当時水戸では、鮭1匹が米5.6キロと交換されていて、莫大な儲けがあったと思われる。

3)石狩場所請負人「村山伝兵衛」
・場所請負人の村山家は、最盛時6万両の利益を得たと言われている。

4)石狩缶詰所
・明治10(1877)年、開拓使により石狩に「開拓使石狩缶詰所」が作られた。

5)戦後の石狩川鮭漁業
・戦後、石狩川の鮭漁業は衰退し、昭和49(1974)年には、520匹まで落ち込んだ。
・漁獲高の低下は、工場・炭鉱の廃液流入、都市汚染水のたれ流しなど複合汚染による水質汚濁が原因。
・その後、「水質保全法」「工場排水規制法」などが制定されて、石狩川の水質も徐々に回復の兆しをみせた。

農業

1)石狩の立地条件
・石狩の農業は「砂と水との斗かい」であった。

2)砂地水田
・のちの町長・飯尾円什の呼びかけに応えて、農民は自力で電気揚水による砂地水田化工事を行い、砂地水田技術を確立していった。

3)穀倉のまち
・戦後、造田事業が行われ、昭和38(1963)年には、水田面積3,400ha、出荷数12万俵の全道的優良米生産地、種籾供給地となった。
・砂地の石狩の米は美味しい。

4)減反政策や宅地化による水田面積減少
・昭和38年―3,400ha 平成13年―739ha
・農地面積は、農家の申請に基づくので、統計事務所、町など窓口によって数字が違う。

石狩湾新港

1)新港建設については、旧樽川地区の一部を小樽市へ編入して、小樽市の了承を取り付けた。

2)港の名前についても、紛糾した。

3)昭和48(1973)年、国直轄事業として本格的港湾整備が始まり、昭和53(1978)年、石狩市(旧石狩町)と北海道・小樽市による石狩湾新港管理組合が設立された。


これからの石狩

1)花畔団地などの宅地化で、昭和60(1985)年には町予算に対する教育費が37.3%を占めたが、現在では、一人世帯、二人世帯が増えている。

2)今後は、お年寄りに対する施策が必要である。

 以上が本日の講座の概要ですが、最後に田中さんは、「石狩には、別の市町村から石狩に移住して来た人がたくさんいます。そう云う他の市町村の事例を知っている人達の頭脳と先見性をぜひお借りしたい」と云う言葉で話を結ばれました。

 いつもながらですが、詳細な資料に加えて、これまで話されたことのない新しい話題も盛り込んだ、大変興味深いお話でした。






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