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講座13『講座・石狩川Ⅰ~北の大地の母なる大河』

第1回 石狩川の地誌~源流から河口まで

2011/11/21

 11月17日(木)講座13『石狩川Ⅰ~北の大地の母なる大河』の第1回『石狩川の地誌~源流から河口まで』が石狩市民図書館で開講されました。講師は「いしかり市民カレッジ」の木戸口道彰さん。参加者は42名でした。

isikari.JPG今年度の石狩川の講座は6コマあり、3コマずつの2講座に分けて、各コマ毎に講師を変えて、次のとおり行うことになりました。
講座・石狩川Ⅰ ①石狩川の地誌~源流から河口まで「流域を拓いた人びと」
        ②石狩川の地史~なぜ、ここに石狩平野があるのか
        ③石狩川の洪水史~洪水が石狩川の歴史を変えた
講座・石狩川Ⅱ ①石狩川の治水~岡崎文吉の挑戦
        ②石狩川の舟運~内陸開拓の大動脈
        ③石狩川の鮭漁~河口のまちの栄華はいずこ

石狩川はどんな川か
◆水源が裏大雪の石狩岳(1967m)にあり源流が始まるのを明治37年に確認されました。
◆長さは268㎞あり、日本で3位(1位信濃川、2位利根川)です。
かつて370㎞以上ありましたが、蛇行部分をショートカットする直線化工事により約100㎞短縮されて今の長さになりました
◆流域面積は14,330k㎡(北海道の1/6)あり日本で2位(1位利根川、3位信濃川)です。都府県で面積最大県の岩手県が15,279 k㎡、2位の福島県が13,783 k㎡ですから、石狩川の流域面積の広さがわかります。
◆支流の数はいまだに正確にはわかりませんが、2,500本とも1,600本とも言われています。「支流の支流と...」次々と数えていくと大変な数になります。主だった支流は次図のようになります。
gennryuu.jpgのサムネール画像◆中・下流域は曲流(自由蛇行)が多い氾濫と洪水の河川となっています。
石狩川の名称はアイヌ語の「イ・シカラ・ペツ」(非常に曲がりくねった川)から来ています。
日本の河川は河川勾配が急で流れの速いのが特徴で、明治時代のお雇い外国人技術者が日本の川は川でなく滝だと言ったほどです。しかし、石狩川は河口から90㎞ほどから勾配が緩やかになり大きく蛇行しながらゆったりと流れていました。
kyuu.jpg◆治水により原始河川を克服してきています。
明治43年(1910年)から、治水工事を開始、捷水路・放水路建設(ショートカット)が行われてきました

石狩川のおもな洪水
蛇行河川は水が速やかに海に流れ出ないため雪解けや大雨の時に、たちまち増水して洪水になります。被害が出て水害となるのは人が住んでいるからです。明治の入植以降、水が溢れるところを開拓して人が住んだため、繰り返し洪水による被害が起きています。
洪水回数は明治に13回、大正に13回、 昭和に40回ありました。
特に各年代の大きなものを上げると、明治31年9月石狩平野ほぼ全域が冠水、死者248人、家屋倒壊・
流失3,500戸など。大正11年8月旭川・滝川で被害大、死者117人、流失家屋 872戸、浸水家屋8,687戸、田畑38,643 ha流失。昭和56年8月石狩川中下流に被害、堤防決壊60ヵ所、氾濫面積55,800ha。石狩放水路がまだ竣工前でしたが、未掘削部分を緊急掘削して通水し危機を乗り越えました。札幌の降雨量は207mmでした。この時は札幌で豊平川の堤防決壊による地下鉄への浸水が心配されました。

石狩川の流域
石狩川流域の人口は約312万人で北海道の人口551万人の56.6%、市町村は18市27町2村があります。製造業出荷額は約1兆5,560億円(北海道の30.0%)。水稲収穫量は約43万8,000t(北海道60万1,700tの72.7%)(平成22年)で日本最大の水田地帯となっており、北海道の水田面積の約8割が石狩川流域にあります。流域の主な水稲生産都市は1位岩見沢市、2位旭川市、3位深川市、4位美唄市、5位新十津川町です。
北海道に移住した人々
北海道への開拓移民は明治以降国策として行われ、移民数は明治2年から大正11年までに56万戸204万人です。そのため北海道にいるアイヌの人口比率が急激に低下しました。北海道開拓のねらいは「農業開拓」にあったので明治30年代の移民の職業は52%が農業となっています。
移住の形態は屯田兵、士族移民、会社組織移民、宗教団体移民、団体移民、応募移民などいろいろありました。
石狩市への開拓移民の入植は明治4年から行われています。(資料参照)

屯田兵
北方の警備(ロシアの南下による)、未開地開墾、困窮士族の授産等を目的に明治7年~31年まで、全道に37兵村などに置かれました。兵員として7,337戸、39,901人が入植し開墾面積は7万5000町歩でした。石狩近郊では篠路屯田兵村に明治22年に入植していますが、泥炭質の湿地帯で野火や石狩川や発寒川の毎年の融雪期と秋の暴風雨での水害で苦難の開拓が続いたようです。
士族移民は廃藩置県により失業した士族による士族移住があり、道内の多くに藩士が集団で入植(藩名と入植地は資料参照)しました。
石狩近郊では仙台岩出山藩のシップと当別への移住があります。これらの地には仙台藩岩出山藩士(藩主は伊達邦直)が入植し、その状況は本庄陸男の小説「石狩川」に描かれ「大地の侍」として映画化されています。
仙台支藩岩出山は戊辰戦争(奥羽の戦乱)の結果「朝敵」になり、1万4,648石が59石(1/250)に減封され、家臣736戸は困窮し、北海道への移住を決意しました。朝敵のため政府からの移住費用の助成補助は一切なく自費移住でした。多くの士族移民団の中で藩主が直接視察し移住したのは岩出山藩のみです。
移住地では藩主や家臣の上意下達の命令で運営するのではなく、邑則(村の規則)を決め「第1条 邑中の事務一切衆議に決すべし。」として協議で決める共和制のように運営していたそうです。また学問を尊び「第27条 男女5歳より学校に入れて、読書、習字、数学などの業を受けるべし、(以下略)」「第29条 15歳に及びて、其の才学を撰み、本府大学に入れて有用の学術を学ばしむべし」と教育を重んじました

団体移民
数多くの団体が道内の多くに入植し開拓にあたりました(団体移民の団体名と入植地は資料参照)。晩成社が明治16年、依田勉三、鈴木銃太郎らが出資し十勝・帯広を開拓しましたので、帯広の六花亭から出ているお菓子「ひとつ鍋」と「十三戸」は、晩成社が開拓に入った時の「開拓の始めは豚と一つ鍋」と「最初の入植戸数13戸」を表わしています。
災害罹災者の団体入植
本州で起きた災害の罹災者が団体で入植しています。(団体名と入植地は資料参照)

新十津川開拓移民
皆さんの記憶に残っていると思われますが、今年9月に奈良県十津川村で記録的集中豪雨による大変な災害となり土砂崩れダムの決壊も心配されました。明治22年にも十津川郷6カ村で同様の集中豪雨による大災害が起こり、被災の2ヵ月後に罹災者のうちの600戸2,691人が北海道に移住を決めました。10月から3回に分けて渡道し中空知のトック原野に入植し新十津川村をつくりました。ました。当時はまだ市来知(三笠)と空知太(滝川)との間に道がなく、滝川の屯田兵舎でひと冬を過ごし翌年トック原野へ入植したそうです。一戸の耕作面積は5haで移住者の受け入れ地で始めての区画制でした。移住費用や家屋2年間の食料、農具、種子、農耕馬、道路、排水、用水など道庁では各種の保護のもとで行われました。
入植直後に「子弟の教育」を優先して、300人の小学生のために翌年に公立2校、私立2校の小学校を開校し、明治27年には「私立新十津川文武館」を開校して現在の中・高校教育に取り組みました。
今では北海道を代表する大水田地帯になっています。

木戸口さんは石狩川の源流から河口までの地誌を時間いっぱい説明されました。もっとお話したいことが多々あったようでしたが、内容が多くきわめて濃密な時間となり参加者は真剣に耳を傾けていました。次回からの石狩川の講座がますます楽しみになりました。

【参考資料】

石狩市の開拓移民の入植
・樽川村~明治18年、山口県から43戸
・生振村~明治4年、山形県米沢から124人、同27年、愛知県から    320人
・ 高岡~明治18年、山口県から20戸、106人、同28年、山口、徳島、富山、秋田、
新潟、青森など
・花畔村~明治4年、岩手県39戸129人、同27年石川県69戸。
・ 厚田村~明治4年以降~山形県14戸、山口県127戸、石川県42戸、兵庫県30戸、
南部団体、地名として「加賀の沢」「越後沢」「兵庫県団体」が残る。
・ 浜益村~明治5年以降、山形、新潟、秋田、青森県から多数の移民あり。
(明治5年173戸、813人→同30年836戸4,296人へ)

屯田兵 
屯田兵制度...明治4~6年、西郷隆盛~北方警備と開拓を主唱、
明治7年(1874)、黒田清隆・屯田兵を建議
屯田兵村...第1号琴似兵村(明治8年) 2号山鼻(明治8年)~士別兵村(明治32年)まで、
全道に37兵村建設、うち石狩川流域に24兵村
屯田兵入植者の多い県
① 石川県~404戸2,301人、②香川県~339戸2,005人、③福岡県~347戸1,915人、
④徳島県~329戸1,697人 ⑤和歌山県~308戸1,670人 など
明治29年に第7師団創設、同31年徴兵制が施行で、屯田兵の役割がなくなりました。  
篠路屯田兵村
・入植...明治22(1889)年7月
・入植者...徳島県(29名)、和歌山県(37)、山口県(44)、福岡県 (12)、熊本県(46)、福井県(20)、
石川県(32)、    計220戸、1,056名
・土地条件...石狩川、発寒川の洪水、泥炭質の湿地帯(野火)
・官給品...1戸分宅地5,000坪、他は屯田兵村と同様
・おもな作物...麻(新琴似製線場へ)、豆類、大麦、小麦、篠路大根(漬物大根として道内各地の鰊場へ) 燕麦(陸軍省糧秣所へ)    水田(大正初期~昭和45年ころまで)
・苦難の開拓...水害との闘い、石狩川流域の毎年の融雪期と秋の暴風雨(2週間~1カ月水没)
           泥炭地の野火(2~3週間)
・離村者...明治22年~220戸・1,056人 、 →明治37年代~72戸・ 555人        
      →昭和13年~屯田兵7人・相続者18人・分家13人  (道内37兵村の残留者、10~20%)
・やがて屯田兵は・・開拓者=屯田兵は未開地を開墾し終わったとき目的が完了。
再び新しい道へ(フロンティア精神)   それは、都市の商工業へ、さらに奥地の開拓に。
    
士族移民団
・仙台藩亘理藩士→伊達市、      ・仙台藩岩出山藩士(伊達邦直)→当別町
・仙台藩白石藩士→登別市(幌別)、札幌市白石区・仙台藩角田藩士→室蘭市
・徳島藩淡路藩士→新日高町(旧静内町)  ・会津藩士→余市町、せたな町
・尾張藩士(徳川慶勝)→八雲町(徳川農場)・山口藩士(毛利元徳)→余市町(旧大江村)
・金沢藩士→共和町、札幌市手稲区
・ 佐賀藩士→石狩市高岡(失敗)
仙台岩出山藩の移住
第1回(明治4年)~43戸161人、厚田郡シップへ入植。 第2回(〃5年)~48戸180人が当別へ
第3回(〃12年)~56戸250人 当別では、トウベツ川の支流パンケチべュナイ川に沿って、間口40間、奥行き100間ずつに土地を分割。
学問を尊ぶ...藩の学問所「有備館」~家臣の子弟に中等教育移住直後、 「有備館」の学頭・鮎田如牛が塾開設、資生館、札幌農学校、青山官園、函館・札幌師範などへ進学、藩主の長男・伊達基理(もとよし)は東大へ

団体移民
・ 開進社~明治12年、岩倉具視、岩橋徹輔ら出資、乙部、長万部、岩内、手稲など
を開拓
・ 赤心社~明治15年、鈴木清、沢茂吉ら出資、日高、西舎、荻伏(浦河町)などを
開拓
・ 晩成社~明治16年、依田勉三、鈴木銃太郎ら出資、十勝・帯広を開拓
・ 北越殖民社~明治19年、新潟からの開拓団、野幌、江別太を開拓。       
明治23年には千歳川中流域、浦臼に入植。

宗教団体移民
 ・法華宗団体、天理教団体、金光教団体、本願寺団体、キリスト教団体などが全道各地に入植

災害罹災者の団体入植
 ・十津川団体~明治22年、奈良県十津川村の水害、新十津川町
 ・愛知団体~明治24年、濃尾大地震災害、石狩市生振(明治27)、愛別町(明治28年)
 ・山梨団体~明治40年、大水害、倶知安町(明治41年)
 ・群馬団体~明治43年、大水害、真狩村、喜茂別村、京極町(明治44年)
 ・栃木団体~明治49年、足尾銅山公害で移住→佐呂間町
・関東大震災~大正12年、道東各地 

新十津川開拓移民
・明治22年(1889)8月19日~紀伊半島南部で集中豪雨
・十津川郷6ヵ村~168人死亡、全壊流出家屋426戸、水田50%、畑20%埋没の大被害
・母村の郷社「玉置神社」を分祀。~今も残る「十津川郷の共同体の分身」意識。
・300人の小学生のために、翌年公立2校、私立小学校2校を開校。
 入植直後に「子弟の教育」を優先。
・明治27年、母村にあった「文武館」を模して「私立新十津川文武館」を開校し、現在の中・高校教育に取り組む。(当時、北海道の開拓村では異例)
・明治30年代から一般移民が入り、内地の多様な文化が定着。
・今では、北海道を代表する「大水田地帯」へ


 




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