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主催講座主催講座12「日本酒を知ろう!~石狩から道産酒を考える~」

第1回「北海道の酒造家と酒造史資料」

2017/11/08

10月25日(水)主催講座12「日本酒を知ろう!~石狩から道産酒を考える~」の第1回「北海道の酒造家と酒造史資料」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は元札幌国税局職員で税理士の加藤良巳さん、受講者は41名でした。
加藤さんは、「経歴の紹介にあった『酒類業指導調整官』とはどんな仕事か」についてお話しされ、本題に入られました。以下その概要を紹介します。
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◇酒類業指導調整官とは
札幌国税局で昭和55年に新設された。酒は統制価格であったが、昭和54年代から自由化され価格の乱れが出てきた。そのため過渡期の業界の指導・調整をするために設けられたポストである。税金屋でありながら税金屋でない仕事をした。
◇酒造りの免許制度と酒税の始まり
・建長4年(1252)、鎌倉幕府執権北条時頼の時に禁酒令を出す。鎌倉民家の酒壺を調べると37,274壺(約5,500石)に達した。この時に醸造を制限して冥加金を課して許可した。これが免許の原型と思われる。
・酒税は、後醍醐天皇の時に寺院修復のために洛中洛外から税をとったようだが、正式には足利義満の時代に壺200文を取ったのが始まりと言われている。
◇現在の北海道清酒業界の現況
・自家製造者12軒。北の誉酒造が無くなって、平成29年10月に上川大雪酒造が出来て現在12軒になった。
二世古(倶知安)、田中(小樽)、小林(栗山)、金滴(新十津川)、国稀(増毛)、男山(旭川)、高砂(旭川)、大雪の蔵(旭川)、福司(釧路)、碓氷(根室)、上川大雪(上川)、日本清酒(札幌)
・戦後北海道にどの程度酒屋があったか
終戦後56場の酒屋があった。昭和42年に米の自由化が行われ、41場43,473キロ。平成20年4,903キロ、ほぼ88%減少。
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◇江戸時代に北海道の酒屋はどの位あったか
・残っている一番古い記録
天和年間(1681~1683年)に初代関川與左衛門が越後の国関川郷から松前城下に移住して、ほどなく江差姥神に移住、山二関川屋の暖簾で酒造屋を営む。それ以前に松前城下を形成しているので、その頃から酒屋はできていたと推測される。
・享保2年(1717)の記録「松前蝦夷記幕府巡見使編」(大岡越前忠相が江戸町奉行の頃)によると、松前町酒造屋4軒2百斛(石)位、西在郷江指村酒造屋4軒右同断、とある。
・松前藩での酒の消費量
享保4年(1719)の記録によると、松前藩が輸入した酒は2斗樽で8千樽~1万樽の間、1樽につき金3分納付申立る。このことから2千石~3千石の酒が消費されていると推測できる。
・関川家で発見された古文書
寛延2年(1749)江差村に6軒酒造屋があった。コメが不足しているので3軒に削減。残った3軒も1年に2軒が交代で造ることにする誓約書。
6軒の酒造屋の名前は、大阪屋善兵衛、厚谷七右衛門、村上弥惣兵衛、関川平四郎、阿部九右衛門、鈴鹿長右衛門。このうち、関川、厚谷、鈴鹿の3軒が残った。
函館には、宝暦12年(1762)に大阪七兵衛門が松前藩より酒造許可を得ている。
◇清酒の起源
「酒屋の主人にひどい仕打ちを受けた店員が頭にきて酒樽に灰をぶちまけた。翌朝酒樽を見ると良く澄んだ酒が出来ていた」これが清酒の起源という江戸時代の俗説。
・秀吉はどんな酒を飲んでいたか
「近年、灰を入れて酒を造っているところがあるけれども、太閤様にはそのような失礼をしてはいけない。最も上澄みの良いところを献上しなさい」という古文書が残っている。太閤様は「諸白」(澄酒)を呑んでいたようだ。
太閤秀吉死後1年後の慶長4年(1599)に10石の酒樽ができ、現在の三段仕込みが可能になり、清酒が造られるようになった。秀吉は残念ながら清酒を呑んだことはない。
◇松前藩でどの位の酒が造られたか
天明8年(1788)、幕府は元禄調高以来初の株改め、再び酒造統制を強化する。翌年松前藩でも株改めが行われ正式に把握された。
・松前藩の酒造家は約1000石
唐津内町茂兵衛100石、川原町傅次郎100石、唐津内町治兵衛70石、小松前町金蔵95石、唐津内町萬右衛門90石、枝ゲ崎町七左衛門80石、唐津内町重蔵90石、江差中歌町宇左衛門105石、上野町文七85石、津花町半四郎46石2斗、箱館宇右衛門80石、甚五兵衛、吉郎兵衛廃業。
寛延2年の江差の酒造家3軒の名は見えず、40年の間にすべて交代している。
・文化3年(1806)、米が沢山採れて「勝手造り令」が出され、酒造業が飛躍的に発展する。この時に復活した人もいる。
・天保3年(1832)、飢饉の時に株改めが行われ、株高と酒造米高を調整するために新規株が公布され「辰年御免株」と呼ばれた。
・安政6年(1859)には、松前の酒造家は2軒のみとなった。
鑑札高95石泊川町時蔵、90石鹿谷萬右衛門
・幕末には、天明8年の酒造家はすべて姿を消している。松前に1軒、江差に1軒、大野村に1軒、箱館に川崎吉兵衛。その他、釧路1、八雲1,様似2の記録がある。
・石狩では、安政2年、石狩勤番所に土人飲用酒税係が設けられ大橋作左衛門が杜氏となって酒造りに従事した。これは土人用の酒で、勤番所役人は松前から運ばれた酒を飲んでいたと思われる。
・清酒の銘柄によく使われる「正宗」の由来
天保年間に摂津の酒造家の山村太郎左衛門という人が、瑞光寺の住職を訪ねた時に、経典に書かれていた「臨済正宗」という文字を見て思いついたとされている。「正宗」は「清酒」に通じることから、「薪水」という銘柄を「櫻正宗」に変えた。この「櫻正宗」が語源となって「○○正宗」という名が広まったとされている。
・「下り酒」とは
元禄年間に酒は京や灘から馬によって2斗樽で運ばれていた。やがて船で運ばれるようになる。灘から江戸へ下って来るということで「下り酒」と言われた。江戸の「登り酒」は京へ「下らない」といわれてあまり人気がなかった。樽も4斗樽に変わる。
◇明治以降の酒造屋の変遷
・明治初年(1868)から明治20年(1887)まで
箱館に道庁が出来て経済は松前から箱館に移った。明治2年札幌に都市建設が始まり、人口も増加し酒屋も変遷が激しい。人の流れも松前から箱館、後志、石狩と移るにともなって酒屋もこの地方を中心として盛んになる。当時の石狩地方の酒屋はめざましいものがあり、明治20年までには北海道で101件の酒屋があったが、明治20年には廃業などで53軒に減少。
明治20年までに創業して現在も創業しているのは、栗山の小林酒造、増毛の国稀酒造、根室の碓氷酒造の3軒のみである。
・酒造量については、札幌、函館、根室に県庁所在地が置かれ統計がとられている。明治6年791石、明治9年3800石、以降3千石~4千石程の酒(清酒・濁酒)が造られている。
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1年(1888)から明治30(1897)年まで
北海道の人口が増加するとともに酒造家も増加している。明治21年から明治30年までに163軒開業して99軒廃業。明治31年117軒営業しているが明治42年までには55軒廃業。このように変遷の激しい業界であったことがわかる。
明治26年(1894)の北海道実業人名録中の酒類製造業者120軒、明治38(1905)年北海道酒類製造業者名簿では21人に減少している。
北海道の人口は、明治6年から明治30年まで人口が7倍に増加しているので、酒も需要があったと思われる。
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・明治31年(1898)から明治42(1909)年まで
この頃には函館本線が旭川まで全通し、旭川に陸軍第7師団ができた。更に炭鉱開発などにより、海岸線と旭川を中心とした内陸地方に酒屋が増加している。また、専業酒屋の増加、大規模化も進み、数は淘汰されるが1軒当たりの製造石数は伸びている。
旭川、上川の酒造家は昭和の時代まで残っている。農家の大規模化、師団司令部、戦後は自衛隊第2師団の配置など根強い需要があった。
北海道で100年続いた酒屋は6軒(男山・高砂・大雪の蔵・国稀・金滴・小林)
間もなく100年の酒屋は、田中酒造、福司
昭和以降の酒屋は、二世古・日本清酒・上川大雪(2017年)
*国税局は現在、新規免許を与えていない。上川大雪は、上川の道の駅に三重県の酒屋が移転したことになっている。
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・大正時代(1912~1926)
規模が大きくなり、相当の資本が無ければ新規参入は困難である。新規開業は3分の1程度で、大きなものは大きくなり、小さなものは生き残れない時代であった。
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・昭和2年(1927)から昭和20年(1945)まで
酒の自由化された時代で、9年までは本州酒屋の売り込みが激しく、北海道の酒屋は本州の酒屋に押されて厳しい時代であった。
自主規制を行い景気は良かったが増石はしなかった。
昭和11年(1936)戦時臨時特別税制定、統制経済、原料米の割当減。
酒税は、昭和13年(1938)までは造石税と言って酒を造った時に査定し年4回納税。昭和13年からは造石税と庫出税を併用したため酒税は上がった。昭和20年頃の酒税は半分が税であった。
・3倍醸造酒をご存知ですか
清酒を原料にしてアルコールとブドウ糖、水あめ、酸味料(乳酸)などを入れて味を調え15度に薄めると3倍に増量される。酒造米の配給制度がなくなる昭和40年頃まで清酒の主流であった。
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現在は、日本酒の製造方法の違いによって純米酒、本醸造酒、吟醸酒など名称がつけられている。
◇昭和21年(1946)から平成24年(2012)まで
・北海道の企業合同
昭和18年(1943)の企業整備令による企業合同が行われ、北海道に88者 98工場あったものを17者32工場に縮減された。戦後転廃業者からの要望を受け昭和22年復活措置が実施された。
第1次復活(昭和22年~26年)24者24工場 
第2次復活(昭和27年~31年) 8者 8工場
昭和30年代末~42年にかけては業界の経営が悪化。国税庁の指導の下に近代化の名のもとに企業の整理を行う。企業係長の時、今後20年後の北海道の酒屋適正数を国税庁の計算式に当てはめると14場が残るだろうと計算した。確かに14場が残ったが、決して楽ではない経営状況であった。
・原因は何か
生販三層(生産者―卸―小売)ということが指導の原則であった。そのために酒屋は卸売りに頼っていた傾向がある。
北酒販=北海道の酒屋が資本を出して作った酒屋。自分の酒を北酒販に卸して販売を任せた。販売活動は全て北酒販がすればよいという風潮があった。
北酒連=小売業者の連合会が資本を出して作った酒屋。北海道の酒は手に入らないため本州の酒を主に取り扱った。
この2大メーカの争いがあって、本州の酒屋から見放され、足をもがれていった。そのことが北海道の酒屋の衰退につながったと考えている。今は北酒販も北酒連もなくなって本州の業者が担っている。
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今回の講座は、加藤さんが企業係長の時に上司に「北海道の酒屋を知っているか」と言われたことから始めた研究の成果をまとめた著書「北海道の酒造家と酒造史資料」をもとに丁寧にお話ししてくださいました。

受講者の感想ご意見を要約して紹介します。
「石狩カレッジならではのユニークな企画、歴史の流れの中で酒と人間のつながりを興味深くお話しいただきました。講師の先生石狩在住でこのような研究家がいらっしゃることはびっくり。神代から人間は酒を必要としていたのですね。お酒にまつわる珍しいお話、豊かな深い見識、まだまだ持っている方だと思った」「北海道の酒の始まりは1681年の江差で記録されている。350年以上前の事であり開道150年に比べるとずいぶん古い記録である。酒は良くもあり悪くもあり人の歴史と共に歩いている。改めて歴史を見ると米の産地を中心に全道に広がっていることがわかる。少しでも酒に関する歴史、酒造の苦労を勉強したい」「酒造業は小規模業者がほとんどで開廃を繰り返していたことが分かった。北酒販と北酒連の違いが分かった」「北海道の酒造家の歴史と主な商品名及び道内外の売上比率なども知りたかった。温暖化の気象変化と生産者の努力により道内でも上質な米が出来ている。今後に於ける道産酒の展望も期待できるのでは」「著書を基に詳しい資料を配布して頂き感謝します。2~3回目もよろしくお願いします」「秀吉が三段仕込みの酒を飲んでいたか?興味があった」「説明内容と資料の対比が解かりづらかった。三倍酒の話はよく飲んでいたので懐かしかった」「本日はありがとうございました。酒好きで飲むばかり。酒屋の歴史や酒税の話は面白く拝聴した。酒の味もよりおいしくなるであろうと思う」




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