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まちの先生企画講座3 『波乱万丈の人生を語る』~紆余曲折の人生から得た生きる力~

第1回「中国にたった一人残されて・・・」

2010/12/08

  12月7日(火)まちの先生企画講座3『波乱万丈の人生を語る』~紆余曲折の人生から得た生きる力~ の第1回「中国にたった一人残されて・・・」が石狩市公民館で行われました。参加者25人。講師はまちの先生・渡辺みつさん、聞き手は高橋美恵子さんです。

 渡辺さんは、1930(昭和5)年生まれ、昭和16年に一家で中国に渡りますが、昭和21年帰国する両親と別れ、中国に一人残って結婚しました。その後、昭和23年に帰国。昭和56年、石狩に移住して落ち着くも、今度は脳梗塞を患います。しかし、病を乗り越え、現在は陶芸、パッチワーク、コーラスなど趣味を楽しむ充実した毎日を送っています。

 この講座では、渡辺さんのそんな紆余曲折の人生を、第1回帰国まで、第2回石狩へ移住するまで、第3回現在、と3回に分けて語って貰います。

mati3-19.JPG「私は、美幌で生まれたのですが、美幌の記憶はありません。覚えているのは、4歳の時に移った網走の呼人(よびと)村の時からです。家は農業でしたが、大変貧乏でした」

「私が小学校に上がった時、父が出征しましたが、その後、母一人では農業をやっていけず、母の実家の青森へ行きました」

「2年ほどして、中国へ渡りました。父が除隊となり、鉄道会社に勤めたからです。住んだのは、山西省太原というところです」

「最初は、四角い中国住宅に住みましたが、4軒くっついた家にトイレが1ヶ所しかなく、おちおちトイレも出来ないような所でした」

mati3-11.jpg「その後、社宅に住みましたが、これは水洗式トイレもあって立派なものでした」

「女学校(太原富士国民高等科)の頃は、勉強はあまりせず、鉄カブトをかぶって働いてばかりでした。軍服を縫ったり、カンパンつくり等が仕事でした」

「8月15日の玉音放送は、雑音ばかりで良く解りませんでした」

「終戦の翌年、帰国することになったのですが、無事に帰国出来るか、帰国しても食べていけるのか、覚束ない状況でした」

「その頃、鉄道会社の社員で国民党に組みして共産党と戦うことになった人たちがいて、女手が必要なため、隊長さんは私が残ることを希望していました。一方、両親も、無事に帰れる保証もないので、思案し、私に残るか、と聞きました。私は、これまでの生活が安定していたため、残るほうが無事だと思い、残ると答えました」

「しかし、女一人で残るのは無理なので、父は、隊長との連絡係をしていた渡辺という若い人に、私を貰ってくれるよう頼みました。渡辺のほうも、私を気に入っていて、引き受けてくれました」

「父と渡辺が話をしているのを料理屋さんの人が聞いていて、お祝いだと、早速料理を作りはじめました」

「残った日本人が集まって、お祝いしてくれましたが、自分ではなんだか分からず、実感がありませんでした」

「こうして、私は渡辺と結婚して、帰国する両親と離れてくらすことになりました、16歳でした。私は、渡辺のことを、父さんと呼びました、そんな風に思っていたのです」

「翌日、家族は日本に帰りましたが、私は悲しいとも思わず、むしろこれで生きられると安心した気持になりました」

「隊長には小さい子供さんたちがいたので、私は隊長の家族の面倒をみることになりました、翌年長女が生まれました」

「残った日本人は中国人としてくらしていたので、私も周美麗という中国名を持っていました」

「ある時、日本人が残っていると噂になり、役人が調べに来たことがあり、隣村に隠れたこともありました」

「又ある時、ドラム缶の風呂に入っていたら、月が大変きれいで、兵隊さんが楽器を弾きながら~まぼろしの~という歌(影を慕いて)を歌っていて、すごく悲しくなったことがあります」

mati3-12 (2).jpg「寝ているうちに、毛布を盗られ、市場で見つけて取り戻したこともあります」

「そして、戦いで隊長さんが戦死してしまいました。死体を持ち帰る事が出来ず、首だけ衣服に包んで届きました。衣服を染めた血を洗い落すのに3日かかりました」

「その後1948年に日本に帰ってきたのですが、中国に一人で残ってからの3年は、私にとって不思議に思える3年でした。日本人も中国人もやさしい人ばかりで、私は悪い人に会ったことがありません」

「帰国の際は、北京まで飛行機で行きました。それから、途中、可愛いから抱かせてくれという中国人に長女を渡したら、行方不明になり、連れ去られたかと青くなりましたが、あちこち見せて廻っていただけで、無事に戻ってほっとしたこともありました」

「日本へは、帆船(実際は動力)で戻ってきました。船中支給されるおかゆが、入れ物がないと貰えなかったので、長女のおむつを洗うためのバケツをきれいに洗って、それにおかゆを貰い、たらふく食べたこともありました」

「こうして、夫の故郷の松山に戻りましたが、夫は8人兄弟で、貧乏で暮らしも立ちゆきませんでした。私は、どこの馬の骨とも分からない者と言われました。そんなことで、両親のいる網走に行くことにしました。夫は最初、私を網走まで送り届ける積もりだったのかもしれませんが、そのまま一緒に残ってくれました」

mati3-17.JPG ここまでが、第1回のお話でした。

 渡辺さんは、悲惨な事も淡々と時にはユーモア交りで語られたので、受講者も、途中質問や相槌をうちながら、一体となって聞き入る感じでした。

 日本への引き揚げの話には、子供の頃やはり中国から引き揚げてきたという受講者から同調の声が上がりました。

 また、聞き役の高橋さんは、タイミング良く間の手を入れて、面白い話題を引き出してくれたのでした。

 アンケートでも

「みつさんのおおらかな人柄がとても好感がもてました。次回がとても楽しみです。高橋さんの話の引き出し方もとても良かったです」

「苦しかった過去をユーモアを交えて話してくれました、ありがとうございます」

「中国でも思っていたより恵まれた生活をされていたようで、安心しました」

 などの声が寄せられ、皆さん、渡辺さんの体験にもその話振りにも感銘を受けられたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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