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主催講座5「石狩歴史散歩~生振地区・浜益地区~」

第2回「浜益地区の碑と開拓の歴史を訪ねて」

2019/08/04

 7月28日(土)、講座5「石狩歴史散歩~生振地区・浜益地区~」第2回「浜益地区の碑と開拓の歴史を訪ねて」を行いました。講師は、1回目同様村山耀一さん、受講者は41名でした。
 午前9時、公民館を出発したバスは最初の見学地である雄冬地区をめざしましたが、昨夜来の雨で国道の幌より先が通行止めとのハプニング。そのため急遽内容を変更しましたが、地元の方のご協力を頂いて内容の濃い学習をすることが出来ました。以下、その概要を紹介します。
◇はじめに、浜益までの車中で資料の解説
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〇浜益地区の歩みについて
・平成17年、厚田と共に石狩市に編入。
・ハママシケ場所
松前藩時代の宝永3年(1706)マシケ場所が設置され、アイヌとの交易を行なったことが歴史の最初といわれている。
・天明5年(1785)マシケ場所を二つに分離し、南部の雄冬岬からビシャンベツ(毘砂別)までをハママシケ場所とした。
・幕末、ロシアの南下政策から蝦夷地を防備するために東北各藩を割当、荘内藩はハママシケに陣屋を置く。戊辰戦争の勃発によって撤退する。
〇資料について
・航空写真による地形と浜益市街地の形成について
・国道231号の厚田区・浜益区の覆道とトンネルの変遷
・荘内藩陣屋周辺絵地図による浜益の地形と位置関係
・主な地名と語源
・浜マシケ場所の範囲を現す海岸絵図(安政年間)と現在の比較等
・浜益の小学校の推移
・川下から見える(黄金山・摺鉢山)について
・石狩のあゆみ(主に浜益地区の碑を中心に)
・雄冬地区・千代志別地区の碑について

◇幌
〇幌稲荷神社
・創立 明治18年(1885)
社殿までの階段35段。増毛山道への入り口に建つ。
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〇幌稲荷神社から望む幌灯台
眼下に幌市街を望み、正面遠くの高台に見える小さな塔は幌灯台。
昭和61年(1986)10月をもって廃止された雄冬岬灯台に変わって設置されたもの。幌集落の国道231号沿いの海側に建っている。灯塔の色は白地に紅横帯2本塗りで船舶からは目立つ指標になっている。
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〇増毛山道入口
幕末期にロシアの脅威に備え、江戸幕府は西蝦夷地における陸路の整備を計画し、山道の掘削を進めた。安政4年(1857)マシケ・ハママシケ両場所請負人であった二代伊達林右衛門が自費1500両を投じて開削。浜益区幌~増毛町大別狩間28キロを結ぶ山道である。ニシン景気に沸いた明治後期には呉服商人らが行き交う貴重な陸路であったが、駅逓の廃止や国道231号の開通とともに廃れた。
*増毛山道保存会会長の渡辺千秋さんが急遽駆付け現在の参道の様子などについて説明して下さいました。ありがとうございました。
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〇朋友共学の地碑(車窓より)
浜益北部小・幌中学校跡地
北部小学校は平成11年4月1日、中央小学校・黄金小学校と統合、浜益小学校として発足。黄金小学校校舎を使用。
幌中学校は平成11年4月1日浜益中学校へ統合。
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◇浜益
〇あいのモニュメント
平成19年(2007)8月10日(ハートの日)に建立。
デザインは藤女子大学の学生が担当した。ハートと四葉のクローバーがモチーフになり、アーチ越しに「愛冠(あいかっぷ)岬を望むことができる。台座には、Lave(愛)・Luck(幸運)・Hope(希望)・Faith(信頼)の文字が英語で刻まれている。ハート形アーチ部分には、「ここから、はじまる」という言葉が8か国語で刻まれている。
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〇はまます郷土資料館(旧白鳥番屋)
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館内の説明は、浜益郷土研究会会長の佐藤睦さんが詳しく説明してくださいました。沖上げ音頭やソーラン節の掛け声について、その由来など臨場感たっぷりに解説してくださいました。
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この番屋の創設者、白鳥栄作(山形県酒田の人)は安永3年(1856)浜益に来て運上屋より下請負を得てニシン漁場の経営を始めた(その後小樽高島の漁場支配人となる)。
元治元年(1864)甥の白鳥浅吉が引き継ぎ、明治32年(1899)この番屋を新築した。
二代目白鳥源作は、大正時代には蒸気機関巻き上げ機を導入、ウインチで鰊漁の改善を行った。鰊漁が栄えたのは、沖を寒流が通っていて良い漁場がったから。鰊粕は関西方面に送った。
・建て網(定置網)の模型
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・鰊を網から枠船に移すときに使うタモ網
直径7尺(約2.12m、柄18尺(5.45m)
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・「沖揚げ音頭(ソーラン節)」
鰊場の作業唄で、船漕ぎ、網起こし、沖揚げなど船頭を中心に調子を整え、力を合わせて水揚げ作業を行うときの労働歌である。
「ヤサエンエンヤーァサーァノ ドッコイショ ハードッコイショ」
ヤサとは、ヤサ(ヤシャ)鉤という木製の鉤のことで、タモ網を引き揚げるときに補佐するもの。
・展示写真  鰊沖揚げモッコ背負い風景
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・やん衆たちの寝泊まりする場所
番屋では若い人たちが2階の畳1枚に2人が寝泊まりした。
番屋では掟(決まり)があり、けんかやいざこざはなかった。
明り取りの空窓の枠には、庄内陣屋の木材が使われている。
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・ニシン粕(干鰯)
大釜で茹でた鰊を入れ、テコの原理で締め上げる圧搾機。関西方面に出荷した。
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午前の部終了。コミュニティーセンター「きらり」をお借りして昼食・休憩。佐藤睦さんは、昼食中も熱心にお話をしてくださいました。
〇浜益村百年碑
建立は昭和46年(1971)9月、題字は北海道知事堂垣内尚弘書
裏面碑文要約「浜益はマシケイと呼びマシ(鴎)ケイ(成る)の意で宝暦3年(1706)松前藩の益毛場所として開け天明年間浜益毛とよばれる 明治2年浜益と改名明治5年(1872)戸長役場が創設されてから百年を讃え決意を新たにする」
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〇にしん街道 標柱
当初は、松前江差の発想で建てられた。小樽白鳥番屋の所、厚田の道の駅の所にもあり、日本海沿いの留萌から稚内まで新たな観光ルートとして、また鰊の歴史を知る上で重要な役割を果たしている。
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〇岡島洞窟遺跡
元は海岸に面する自然の洞窟であった。明治2年(1936)国道開削の際大部分が破壊された。考古学的には重要な洞窟ですが保存状態はあまりよくない。オホーツク文化と擦文文化の接点のあたりにある。出土した土器、石器、人骨などを調べることによって浜益の地位的重要性がわかり、大事にしなければならない場所だと思う。
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〇郷社浜益神社
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〇天龍山 大心寺
旧浜益村(茂生)の日本海を望む高台に位置する浄土宗寺院。
本寺は、安政6年(1859)幕府が荘内藩へハママシケ場所の支配を命じたことからかかわる。翌万延元年(1860)荘内藩酒井左ヱ門尉が浜益川下村に陣屋を設置支配することになり、酒井家菩提寺の大督寺より丈円隆が赴き、川下村に創建した。文久2年(1862)天龍山護国院大心寺となった。明治24年(1891)現在地に移転。
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・三十三体観音
明治16年(1883)茂生村(現大心寺)から川下村(旧大心寺跡)にかけて33体観音の石像が建っていた。その後山道は荒れ石仏も人目に触れることがなくなったため、前住職が境内の裏山道に移設した。
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・白鳥家墓碑
白鳥浅吉が建立した白鳥家のお墓
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・初めて本堂の中へ
ご住職が法要で出張中のため寺庭(住職婦人の呼称)が代わって説明してくださいました。
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・寺庭さんの説明
法然上人が開かれた浄土宗の大心寺、本尊は阿弥陀如来、立像は珍しい。
川下の荘内藩の陣屋跡に小さなお堂が建って酒田浄徳寺から初代が住まわれ、すべての経費は藩から支給されていた。
開基は万延元年(1860)。
この本堂は,明治24・5年建築当時のまま手を加えていない。
本堂正面上部の額「大心寺」の文字は藩主酒井左ヱ門尉忠篤の揮毫である。
*額「大心寺」の文字の脇に酒井忠篤と署名あり
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阿弥陀如来像
大津の歴史博物館学芸員の方が来て調査していただいて分かったこと。
阿弥陀如来立像は檜の寄木造り、漆塗り金箔塗で江戸中期の作であり、阿弥陀如来像の両脇に控える脇侍も江戸中期のものと言っていただいた。
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西国33観音が山道に祀ってあり、毎年9月18日「山かけ」を行っていたが手が回らないため10年程行われていない。

◇川下
〇地蔵堂
大心寺が最初に祠を建てた場所であり、この辺りに大心寺があった。33体観音の建てられた小道もこの辺りから山を通って現在の大心寺へ続いていたと思われる。
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〇馬頭観音菩
川下と茂生の間は険しい崖沿いに道があった。当時馬はニシンや物資輸送に使われていたが、崖から落ちることもあったという。
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〇荘内藩士墓石 二基】
文久元年(1860)最初の蝦夷地越冬は無事過ぎたが、密林の伐採や原野開墾の無理がかかり、過労が原因で3年目の冬に最初の犠牲者が出た。文久3年1月士分譜代の高橋亀六、7月足軽中間の由蔵の二人が病没。菩提寺大心寺に葬られた。
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◇川下地区 
〇村社八幡神社 碑
荘内陣営の鎮護として文久2年(1862)荘内より祭神遷宮の祭礼を行った。庄内陣屋引揚げ後、部落では大手門外に建築遷宮を行った。明治8年村社に昇格。
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・二つの社殿
後の社殿が川下八幡神社。昭和40年、国道231号線工事の関りで、沢谷家番屋敷地にあった社殿を手前に移築した。
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・鳥海山・湯殿山・羽黒山 碑
陣屋内にあったものを移築。故郷への思いを強く抱き、三山の名を碑に刻み祀ったものと考えられる。
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〇ハママシケ陣屋跡
数年前までは、うっそうとした森や草に覆われていて何見えなかった。現在は陣屋保存会や浜益の方々が草を刈り木を切って見渡せるようになった。道を作って看板(説明板)も設置され一回り出来るように整備が進められている。
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・荘内藩陣屋研究会副会長佐藤睦さんによる説明と案内
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万延元年(1860)2代総奉行酒井玄蕃了明が赴任し、警備、開拓の本陣をこの場所に設けた。
この門は急遽設置したものだが、3年前静岡市郷土資料館で番屋絵図が発見され内容がわかった。
門の傍に番所があり、足軽が門番をしていた。
左側の高い所(石垣)には徒目付、足軽目付の長屋があった。
笹を刈ったおかげで、城の様子が見えてきた。
陣屋の特徴は山城で、高さによって身分がわかる。
物頭長屋:足軽を統率する。松本十郎と父戸田文之助が活躍。
郷夫長屋:賄い、手伝い
兵具庫蔵・兵糧蔵
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・石橋
当時のままの橋。重要な交差点であった。今後整備したい。
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・元締め長屋 兵糧蔵
元締め長屋:20人ぐらい働いていた。4場所全部の金銭の出し入れを全てここで行っていた。4場所とは、ハママシケ陣屋と3つの脇陣屋{ルルモッペ(留萌)・トママエ(苫前)・テシホ(天塩)}
兵糧蔵:藩士の食糧を備蓄する蔵。他に味噌蔵、醤油蔵など10棟ほどあった。
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・奉行所跡
南向きに14・5軒の建物があった。ハママシケ陣屋は脇陣屋を統括する陣屋(元陣屋)で、奉行は藩の命令を伝える実務を担当する。総奉行は中老酒井玄蕃で総指揮を執った。
長屋の裏に井戸の跡が残っていて今でも水が溜まっている。
先ほど見た川下神社もここにあった。
石垣(野頭ら積)・庭師が20数名入っている。神社もあった。
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・石垣
周囲の壁は石垣で「野面積み」という。庭師が20数名入っていて陣屋内を整備していた。
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残念ながら、この先は昨夜の雨で水が付き、御家中長屋、合薬庫蔵跡などは見学できないため引き返す。
・荘内藩千両堀 
陣屋内の建材や物資は酒田から弁財船で運び陸揚げのために、黄金川(現浜益川)から陣屋下まで水路(約435m)が掘られた。その費用が金千両を要したことから「千両堀」と称され現在も残っている。
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◇柏木
〇浜益小学校校庭
現浜益小学校校舎は、元黄金小学校校舎であった。歴史の中で統廃合を繰り返し、平成11年(1999)中央小、北部小と統合し浜益小学校となった。
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・開校百年記念碑 (写真右)
建立 平成6年(1994)黄金小学校の開校百年記念して建てられた。
・二妙薦福之碑 (写真左)
建立 明治33年(1900)9月
元黄金小学校開校5年目の明治33年(1900)2月6日、子ども達が登校中に突如暴風雪になり7人の女子がとばされた。3人は自力で家に戻ったが、4名の子どもが返ってこなかった。村人総出で捜索の結果、2人は死亡し、残る2人は8時間後偶然穴に落ちて気を失っているところを助けられた。
家族や村人は悲しみ、2人の霊を慰めるために慰霊碑を校庭に建立した。
〇校庭から望む黄金山
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 以上で、浜益地区の碑と歴史を訪ねる講座は終了です。往路は雲に隠れていた黄金山も顔を見せ、別れを惜しんでいるようでした。

 最後に、受講者の感想を幾つかを紹介します。
「陣屋跡を整備されたご苦労に感謝です。やっと全体のイメージがつかめた気がします。何度来ても新しい発見があり感謝です」「花川に住んで長いのに浜益の事はほとんど知りませんでした。浜益開拓の歴史のお話をたくさんお聞きして、多くの人達が関わってできた町であることに関心を持ちました」「ものすごいボリュームで内容も深く大満足。資料の充実ぶりも言うことなし。村山先生の解説、大学の講義を受けているようでした。浜益の佐藤さんの熱のこもったお話、沖揚げ音頭も見事でした」「充実いた1日に感謝!素晴らしい講座でした。ていねいな資料、わかりやすい解説、朝からびっしりありがとうございました」「私のルーツは山形県の事もあり大心寺とハママシケ陣屋跡の訪問は大変嬉しく思いました」「断片的な知識や記憶がつながった。白鳥番屋は興味深いもの懐かしいものが沢山有った。小3年の頃まで我でも鰊を取っていた。番屋へ移動する両親と妹弟。私は親戚に預けられ小学校へ通ったことを思い出した」「大心寺の阿弥陀如来像が素晴らしく見応えがありました。ハママシケ陣屋は山の中へ良く建てられたと感心しました。村山先生、佐藤さんの説明は大変くわしく勉強になりました」「ハママシケ陣屋跡はよかった。規模想像以上に大きく、叉、整備が進んだら来てみたい」「白鳥番屋の訪問は3度目ですが、来るたびに整備され見やすくなっている。沖揚げ音頭のさわりを聞けて印象的でした」




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