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主催講座9「続々 北海道150年物語~開拓に大きく貢献した人々~」

第2回「さらば・・蝦夷地 松本十郎」

2018/09/28

 9月22日(土)主催講座9「続々・北海道150年物語~開拓に大きく貢献した人々~」の第2回「さらば・・蝦夷地 松本十郎」を花川北コミュニティーセンターで行いました。講師はノンフィクション作家の北国諒星さん。受講者は43人でした。
 北国さんはまず、「タイトルは、『さらば・・蝦夷地 松本十郎伝』としました。これは著書と同じです。これに沿ってお話していきます」と始められました。 

 以下その概要を紹介します。
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プロローグ
明治9年(1876)7月15日午前10時ごろ、開拓使の官船玄武丸が函館から小樽に向かって出航。開拓使長官黒田清隆が座乗していた。それを密かに望遠鏡片手に見送る男がいた。松本十郎である。
翌日の箱館は明治天皇の初の行幸に沸いていた。随行は、東久世侍従長・大久保俊通内務卿・木戸孝允内閣顧問ら。御召艦明治丸と随伴艦。
その翌日午後7時ごろ、松本十郎がひっそりと庚午丸で箱館港を発ち、故郷庄内へ帰るべく、船川港(秋田県)に向かった。2度と北海道には戻ることはないかと万感の思いであった。
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1 庄内藩とえぞ地警備
庄内藩と会津藩は幕府の支柱であった。
・庄内藩は譜代名門、徳川将軍家と同祖の家柄で三河以来の直参。徳川四天王の一人酒井忠次がルーツ。石高13.8万石、のち17万石格となった。
・松本十郎は、戸田惣十郎と称した。天保10年(1839)庄内藩城下鶴岡(山形県)で、父戸田文之助の長男として生まれる。父は藩の二百石取り物頭(中級の藩士)。幼・青年期は小柄ながらたくましく成長、田宮流居合術を学ぶ。藩校致道館に入り25歳で「舎生」、藩の「近習」になる。19歳で結婚。
2 初めてのえぞ地
幕府、蝦夷地警備を強化。奥羽各藩に北海道の分割支配「警備と開拓」を命令。
・庄内藩は、浜益・留萌・苫前・天売焼尻を支配。厚田~歌棄(岩内・小樽)の海岸線の警備担当。蝦夷地総奉行以下数百人の藩士、農夫、職人らを派遣。
・浜益に「本陣屋」、苫前に「脇陣屋」、留萌と天塩に「仮の出張陣屋」を置いた。藩内から移民を募り連れて来る。
・惣十郎は、父文之助が蝦夷地物頭兼目付として文久3年(1863)蝦夷地に赴任することとなり、惣十郎も同行する。
・最初の赴任地は苫前。ここでは目付の金井右馬之助から柔術を学ぶなど比較的平穏な日々を過ごしていたようであった。
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〇1年後、親子は浜益の本陣屋に移る。この頃の蝦夷地総奉行は酒井玄蕃(了明)。名門、藩内公武合体派の首領。
・浜益では、玄蕃を中心にまとまり、惣十郎の父文之助も人望が厚く任務に励んだ。惣十郎もアイヌの人々と親しみ、彼らの「アッシ」と呼ばれる木の皮の繊維で織った普段着を着用していた。
*ここで北国さんは、ハママシケ陣屋の復元に対する強い想いと期待を熱く語られました。
・「荘内藩ハママシケ陣屋跡は"未来の宝"」だ と思っている。
・函館五稜郭以北の道内陣屋遺跡としては、非常に貴重な存在である。是非早期に復元整備されることを望む。
・論者が最近、道内のマスコミに早期の復元整備方を投稿するも効果なし。これらマスコミを含めた道内各方面の関心・認知度が著しく低い。
・現在、地元の「荘内藩陣屋研究会」の方々の努力で陣屋跡に小道が開かれ、一周できるようになったが、本格的な復元整備には、国、道をはじめ、官民挙げての財政的支援が必要だ。
・早期に復元整備され、将来国道231号を通る人たちが必ず立ち寄るような、歴史・文化振興の一大拠点となることを期待したい。
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3 庄内戊辰戦争
・惣十郎が北海道にいる間に、東北で戦争が始まった。藩内では、佐幕派(積極論)と公武合体派(慎重論)が争っていた。 
・慶応元年(1865)惣十郎親子が、嵐の前の庄内・鶴岡へ帰任、致道館へ戻る。
・翌年、惣十郎は軍制改革で殺手組隊伍長となり、江戸市中警護に従事する傍ら幕府の学問所昌平黌に通い諸藩の藩士と交流。やがて力量を発揮し、江戸城に詰め、藩を代表して意見を述べるなど活躍。
〇丁卯の大獄と薩摩藩邸焼き討ち
・慶応3年(1867)藩の進路を巡る対立が頂点に、結局、松平権十郎・菅実秀派が勝利、酒井右京、大山庄太夫らを断罪して藩論を統一。
10月、将軍徳川慶喜「大政奉還」、薩長など討幕運動激化
・12月、庄内藩は、薩摩藩邸焼き討ち、惣十郎も参戦。
〇戊辰戦争へ突入
・慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まる。
敗軍の将慶喜は、上野寛永寺で謹慎。
・3月、庄内藩以下、江戸を引き払い帰藩。
・4月、新政府の奥羽征討軍が庄内へ進軍。庄内藩、三方へ藩兵を派遣「清川口の戦い」起きる。
・惣十郎、偵察の役目の後参戦。正規軍・農兵が敵を撃退。その後、惣十郎は、奥羽越列藩同盟各藩の間を密使として奔走。
総じて庄内藩は精強であったが、列藩同盟の瓦解などにより孤立し、明治元年(1868)9月降伏。
〇転封阻止運動と惣十郎の改名
庄内藩は突然、岩城国若松に転封するよう命を受ける。
惣十郎は、その取り下げを陳情・画策するため京都行きを命じられる。賊軍庄内藩士では支障があるため、庄内藩酒井家の血縁である「若狭国小浜藩主酒井家の家臣」として行動することとする。
・翌2年(1869)小浜藩主から勧められ、松本十郎と改名し、庄内藩公用人として上洛。
・6月には、磐城国平(いわき市)への転封命令を受けるなど目まぐるしい展開となる。庄内藩は、熱心な転封阻止運動を展開し工作を続けた。
・7月、新政府は70万両(後に40万両免除)の献金を条件に酒井家の庄内復帰を認める。このようにして運動は実を結んだ。
・このような寛大な処置は、西郷隆盛、黒田清隆、特に西郷の配慮があったと伝えられ、西郷は庄内の地で崇敬される特別な存在となった。
・十郎はこの間、時折り黒田清隆と接触し、親しい関係を築いた。この縁が、後に開拓使入りをする直接の契機となった。
4 開拓使へ―黒田清隆の誘い
・明治2年(1869)5月、箱館戦争が終結。
・8月、藩の上司田辺儀兵衛に呼び出され、新しくできた開拓使に出仕するよう勧められ、応諾。これは、黒田清隆が強く推薦し裏で手を回していた。
・黒田清隆という人物
根っからの武人(軍人)気質・・・多くを語らない、誤解も多い。維新後、外務大丞⇒兵部大丞⇒開拓次官・長官へ
・松本十郎は、8月17日東京で開拓使判官の辞令を受ける。
現地赴任前、黒田清隆も十郎を励ます。宮中で開拓3神の祭典、明治天皇、開拓使を激励。 
〇開拓使本庁内での論争
開拓使では赴任を前に、基本方針をまとめるために議論を行った。
・松浦武四郎は、場所請負人制度を廃止して役人の自捌きを提案、議論が沸騰。
・松本十郎は、場所請負人制度廃止には賛成、自捌きには過去の失敗から慎重論を展開。
・結果、東久世長官が「各地の事情や便宜を考え、各判官(の判断)に委任したい」と議論を終えた。
〇東京府移民受け入れに抵抗
明治2年9月、太政官より開拓使に対し、東京府からの移民300人を根室・宗谷・樺太へ各100人ずつ移すよう命令が出されたが、十郎は反対。島義勇判官の了解のもと、直接東京府知事に会って交渉したが、押し切られた。

5 再びえぞ地
現地赴任前、黒田清隆も十郎を励ます。宮中で開拓三神の祭典が行われ、明治天皇開拓使一行を激励。
・明治2年9月3日品川沖から、傭船ヤンシー号が岡本監輔開拓判官らと募集移民400人を乗せ樺太に向け出発。
・9月21日、傭船テールス号が、東久世長官、十郎らを乗せ、品川沖を離れ、25日函館(この年9月「箱館」を改称)に着く。
・松本十郎の赴任地は根室。10月2日130人が根室港に入港。
太政官命で連れて来た東京府移民は徒食するばかりで、漁業や農耕の能力もなかった。翌年、彼らの大部分を札幌周辺に移送することになる。
「単身矮屋に風雪の褥を冒す」→主席判官島義勇への報告。
〇根室3郡の東京府移管に抵抗
・明治3年9月、突如、根室・花咲・野付の3郡が東京府に移管されるという事件が起きた。十郎は納得せず、東久世長官に抗議した。
・事件は黒田清隆が函館に立ち寄り、十郎に「何とかする」と確約し解決、帰任。黒田は、開拓使次官(樺太専務)になっていた。→政治力を発揮、3郡は開拓使直轄に戻る。
6 漁場開拓に活路 
松本十郎は、漁業に期待をかけた。当時根室の漁場は、藤野家が独占していたが、自由に漁場参加できるようにした。
・明治2年9月、場所請負人制度は廃止されたが、10月「漁場持」に変更するが当分、従前通りの漁場経営を認める方針を決定⇒完全廃止は明治9年9月
〇近江商人藤野家
根室、宗谷、利尻、国後、斜里を請負う豪商。
〇新興豪商柳田藤吉
天保8年(1837)盛岡に生まれ、長崎、大坂など各港町を見て歩き、函館に来て「柳屋」を開いた。函館開港とともに異人仲買い(外国人との貿易)を行い、成功を収めた。
・明治2年(1869)根室参入を決断、3年十郎の承認を得る。
・英国人ブラキストンの融資を受け、移民を募って、8艘の船に500人の大船団で根室に乗り込んだ。最初藤野家の嫌がらせを受けるが、開拓使を動かして上陸。多くの苦難を乗り越えて事業を拡大する。
・十郎は、藤吉と直接会い、図太さやブラキストンの資金提供などを重視して、参入を認めた。
〇十郎は、庶民目線に徹し、アイヌの人々を含めて優しく接し、自らも質素な生活をした。また、イギリス艦シルビア号から灯台の設計図を入手し設置した。
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7 黒田次官と岩村大判官の対決
明治3年(1870)1月、筆頭判官であった島義勇が罷免されて、後任に岩村通俊が就任し大判官となり全道のトップになる。
・明治5年、札幌会議で黒田長官と激突する。当時黒田は長官代理で多忙で現地にはなかなか来られなかった。開拓予算を巡る問題で怒り、岩村を罷免し、後任に松本十郎を据えようと説得する。結果的に十郎は応諾し札幌に赴任する。岩村は、やめる前に全道を巡回する。
・明治6年、黒田は十郎を大判官に抜擢。
8 大判官として
岩村を送る十郎の言葉「今日君を見送る私も、いつ君のようになるかもしれない。人間万事塞翁が馬だ」
・十郎は札幌に赴任し、質素な生活をする。アッシを羽織り馬で管内巡回。美泉定山に出会い激励などエピソードがある。
〇明治7年1月、白亜の殿堂といわれる開拓使の本庁舎竣功。この時が彼の絶頂期であったと思われる。
・事務の合理化・健全財政、役人の削減などに取組む。留萌支庁廃止、経理帳簿を明確化、移民募集中断など。
・明治7年の樽前山噴火等天災等、一時景気冷え込むが徐々に効果現れる。引き継いだ47万円の赤字も解消。
〇屯田兵創設と大山重の逸話
明治6年黒田が建議を行い屯田憲兵事務総理となり、屯田兵例則を定める。初代屯田事務局長には大山重が就任。明治8年、十郎は留萌で大山と飲み明かす。
大山重の異色の経歴。福井県出身、坂本龍馬のもと亀山社中・海援隊で活躍。旧姓渡辺剛八。
〇佐賀の乱勃発
明治7年(1874)2月、先輩島義勇が佐賀の乱で挙兵、新政府軍1万7千人動員。原因の1つに岩村通俊の弟岩村高俊(佐賀県権令)との口論。島義勇は失敗して処刑。
〇桑園開拓と松宮長貴の刃
明治8年4月、札幌・函館の近郊に桑園造成を計画。
郷里庄内(酒田)に熟練者200人派遣要請(庄内では松ケ岡開墾場造成の実績)。札幌へ156人、函館(大野)へ67人の派遣決定。
・指揮官松宮長貴(十郎が江戸在勤中の元上司)。6月に到着、黒田長官と出迎え、開墾スタート後、十郎の官邸に松宮を滞在させる。
松宮は十郎を殺そうとする重大事件を起こすが、罰せず庄内に送り返す。
・明治8年、東京仮学校(農学校)および女学校を移転
お雇い外国人ライマンと広瀬常に恋愛事件などが起こり、十郎が調所広丈校長を責める(のち廃校)
・十郎の生活は質素、えぞ鹿の肉は好む。官邸には草花を多く作り分け与える。地元の人は、"御花屋敷"とか"松本判官のお花畑"と噂した。
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9 樺太アイヌの移住
明治8年5月、「樺太・千島交換条約」で樺太アイヌは日露どちらにつくか自由に→南部の樺太アイヌ107戸・850人余が函館丸で北海道移住→彼らは宗谷移住を希望。
・黒田長官らは対雁(江別市)移住を強制。十郎、代表らと面会、説得を図るが不調→彼らの希望をかなえるよう黒田長官に上申、却下される→彼らは強硬、樺太帰還も示唆。
・のちに判明した裏の証言...黒田側にも意外な事情
宗谷の地元のアイヌが樺太アイヌの宗谷定住に反対、当局に陳情。
〇十郎、全道を巡回し、石狩で辞任を決意、長官の黒田宛て上書を執筆
「・・聖天子(天皇)の命令が重く閣下の命令が軽いということが明らかですから、閣下の命令を受けられない・・条約で、両国の土民がどちらの国に移り住もうと、希望どおりの地に住まわせ・・云々と布告されています」「・・聖天子閣下の条約を履行することもできないのでは、樺太移民の約束に背きます。・・移民842人をこのような艱難な状態にしていることは、不肖十郎の面目なく・・心に恥じますので、ここに私は辞表を太政官に届けます・・   十郎再拝」   
札幌へ帰庁しても、性格を知る周囲の人たちは引き止めず。
・別れの宴で十郎は友人の問いに答え「勅任官の身で辞職したゆえ、再び官職に就くことは聖天子様を欺くようなもの。故郷庄内に帰って畑を耕し農業をして、一生を終えることが私の願いだよ」
〇さらば・・えぞ地!
にぎわう函館の町に着き、杉浦誠判官(函館担当)と会い懇談、午後7時の船川行き便・庚午丸で、ひっそりと函館を去る(冒頭で記述) 
・十郎は、このとき38歳、鶴岡で6反の畑を耕し、〝蓑笠翁"の日々を過ごした。
・後日談、
明治17年、北千島・占守島の北千島アイヌ97人中4人を択捉島、93人を色丹島へ強制移住

10 庄内と西南戦争
・明治10年(1877)2月西郷隆盛が1万5千人の兵を率いて熊本城を攻め、新政府側は谷千城が防戦。
・新政府は、元庄内藩士たちも一緒に参戦するのではないかと恐れる。指導者は十郎らをマークし密偵を派遣し調査。黒田清隆自ら手紙で関係しないよう要請。
・十郎は忽然と庄内を去って中央に行き、庄内が巻き添えにならないように工作する。大久保利通は十郎の身の上を心配、士官を勧めるが辞退して郷里へ帰る。
・結果、西郷の自決で幕を閉じる。庄内藩も危機を脱する。
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11 晩年の十郎
十郎は、また鶴岡に籠って畑を耕し、質素な暮らしを続けた。
大正5年(1916)11月27日、晴耕雨読の生活に終わりを告げる。享年77歳であった。民主的、近代的でありながら、意外に古風で実直な人であったと思う。

以上

〇受講者から頂いた感想の一部を抜粋して紹介します。
「松本十郎の多彩な人生を知る。名前は知っていたが今講座で、その一生で荘内藩そして開拓使時代とその素性を勉強した。人生の浮き沈みの中で、運もあり実力もあり立派な人格者である。江戸、明治、大正をいき抜き、特に開拓使時代の活躍は、我々も十分に理解できる。その他歴史事項も非常に参考になった」「講師の先生も話していましたが大変興味ある歴史の一時代、魅力ある人物の一人松本十郎についてお話を聞く機会を持てたことは大変うれしく思いました。機会を見つけて北前船や移民史等を読んでみたい」「講師、奥田静夫氏を迎えて講演をされ、皆様方静かに傾聴していました。とても詳しく分かりやすいご説明があり、満足していたようです。いしかりカレッジ運営委員の皆さまいつもご苦労様、感謝申し上げます」「歴史は当時の勝者による美化された事例が多いが、場所請負人制度、アイヌ民族への同和政策や居住権、物資の略奪等、表面化されていない史実が多いと思う。アイヌ民族の生活や生態についても知りたい」「ハママシケ陣屋跡の整備を早期に実現したいですね」「一生懸命耳を傾けていたが良く理解できないところもあり残念でした。幸い良い資料をいただきましたので参考になります。ありがとうございました。本も読んでみたい」




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