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主催講座6 「石狩歴史散歩」

第2回 「『厚田』地区の碑と歴史の痕跡を訪ねて」

2016/07/27

7月23日(土)講座6「石狩歴史散歩」の第2回「『厚田』地区の碑と歴史の痕跡を訪ねて」を行いました。講師は石狩市郷土研究会会長で場所請負人村山家子孫の村山耀一さん、受講者は27名でした。

好天の中公民館を9時出発。車中で村山さんの説明に耳を傾け、現地で碑に触れ、時代を映す風景を感じとる午前3時間午後2時間の歴史散歩でした。以下に講座の概要を紹介します。

厚田の歩みと碑について
 石狩市厚田区は、平成17年浜益と共に石狩市に合併した。石狩も浜益も厚田も似たような歴史を持っている。
江戸時代蝦夷地は松前藩が支配する中で、石狩13場所は藩主の直領地であり、石狩・厚田・浜益は重要な藩主の収入の場であった。当時松前藩では米がつくれなかったので、海岸や大きな川の支流に住んでいたアイヌとの交易によって収入を得ていた。「あつた」の名前が地図に載るのは元禄13年(1700)で、14年には増毛場所から分離して厚田場所が生まれる。この頃から重要な商い場となっていったと思われる。そこを請負ったのが初代村山伝兵衛であった。その村山家と関わりのある阿部屋武兵衛の墓碑が今回訪ねる古潭の墓地にある。
厚田にある碑は、幕末から明治にかけてのものが多い。安政5年(1858)初めて厚田に和人が住んで冬を越したと記録にある。次第に和人が移り住み明治にかけてニシン漁が栄えた。その証としての碑が残されている。
明治に入り北海道開拓使が置かれ、北海道開拓のために本州各県から北海道各地に開拓民として団体で移住するようになる。厚田には、明治4年(1873)仙台藩伊達邦直家臣160余名が聚富に入ったのをはじめとして明治28年までの間、各県の団体が移住し原野の開拓が行われる。
聚富
◇「伊達邦直主従北海道移住の地」碑
 所在地 厚田区聚富新開地
この碑は、邦直より4代目の伊達寿之氏(前当別町長)が平成8年に建立したもので、「シップ開拓場の記」(左)碑に邦直主従の聚富入植から当別再移住の経緯が記されている。
 
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◇開拓之碑
 厚田区聚富638番地3
聚富地区の開拓は明治初期に始まったが、知津狩川を挟んで海岸沿いの広い平地だが土質(砂地)が悪く開発が遅れた。戦後昭和28年に聚富開拓農業協同組合が設立され、排水灌漑施設客土農道等の工事が進められた。
 
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◇手水鉢(兵庫団体連中)碑
 厚田区聚富117番地  建立 大正4年9月
兵庫団体が入ってきた場所である証がこの小さな手水鉢である。団体八幡神社があったが聚富神社に合祀された。
 
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◇馬頭観世音(兵庫団体と銘記)
 
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◇聚富地区の地図(聚富開村百年記念誌)
 
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◇聚富小中学校 厚田区聚富256番地
 
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◇三基の記念碑    聚富神社境内
・開村三拾年記念碑(右) 建立 大正13年(1924)
・開村八十年 碑 (中) 建立 昭和49年(1974)
・聚富開村百年之碑(左) 建立 平成6年(1994)
 
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◇聚富神社
明治41年創立、その後白津狩神社、団体八幡神社、堀頭熊神神社、白津狩日本石油拓地地鎮を合祀。
 
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望来神社境内   厚田区望来
 
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◇平和祈念碑 建立 平成4年(1992)
昭和20年(1945)7月15日、突如来襲した米軍機の反復攻撃を受け、11名の尊い生命が失われた。その内7名は幼い子供たちであった。死没者の慰霊とこの悲劇を繰り返すことのない平和な社会の創造を祈念する碑である。
 
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古潭地区
◇阿部屋武兵衛墓碑
 厚田区古潭1番地(古潭墓地)
武兵衛という名にアツタ場所請負人の屋号阿部屋を冠していることから村山家関係者である。墓碑にある天明4年(1784)は武兵衛(釋法音)の没年と考えられる。
 
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◇龍澤寺代々和尚の墓碑
六角柱の五面に碑文(五人の和尚名)が刻まれている。龍澤寺初代住職萩原泰能は、幕臣荒井金助に誘われて厚田場所古潭にて一寺を開基。後に神道の教導職となり神官の試験に合格、郷社八幡神社社掌となり厚田他六ケ村社々司を兼ねる。
 
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◇西国、観音像十四基
昭和5年(1930)嶺泊・古潭・小谷周辺の人々によって、昭和天皇即位を祝った御大典記念に三十三観音が建立された。最初、道幅の狭い旧国道沿いに安置されたが、昭和27年からの国道231号新設工事のさい各所に移設された。33基の内14基が古潭墓地に移された。
 
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元古潭小中学校跡
 厚田区古潭31
◇元古潭小中学校校舎
明治9年古潭教習所が開設、同17年古潭小学校として独立。昭和20年7月15日米艦載機グラマンの爆撃で校舎や住宅を全焼。平成2年3月古潭小中学校閉校、望来小・望来中に統合。
 
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◇記念碑三基
・古潭小学校創立九十周年記念顕彰碑(左)昭和40年(1965)
・古潭小学校百年碑(右)昭和50年(1975)
・古潭小中学校閉校記念碑(中央奥)平成2年(1990)
 〈題字〉山鳥のこだまと潮の音の 友愛の郷
 
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古潭港付近
 ◇弁財船投錨地 碑
安政5年(1858)、ここ古潭の地に和人が初めて越年してから漁場開拓が始まった。当時は陸上交通手段がなかったため、弁財船(北前船)が、本州と北海道を結ぶ唯一の交通手段であり、幕末から明治末期にかけて物流・文化交流など北海道沿岸開拓に大きく貢献した。古潭神社の見える押琴の入江は天然の良港として弁財船が停泊し、運上屋もおかれた。
 
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◇厚田村発祥之地碑
運上屋が置かれたアツタ場所の拠点であったヲショロコツ(押琴)・古潭地区に明治3年1月、開拓使厚田出張所が古潭村に設置され行政の中心地となった。
 
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◇古潭八幡神社
創立は明治5年(1872)とあるが、参道の石段脇に江戸年号が彫られた手水鉢、狛犬、灯篭など奉納物が残る。これはヲショロコツ運上屋の弁天社所蔵物と言われ、手水鉢に彫字の「辨天社」の文字が証する。明治5年開拓使による官社制度の実施に応じて一郡一宗政策で地域神社の統廃合が進んだことによる。
 
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◇手水鉢
 
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◇三面山龍澤寺
文久元年(1861)創立。函館の高龍寺の末寺。初代住職萩原泰能が寺の基礎をつくった。最初は古潭墓地の所にあったが明治5年風雪のため大破。同7年、開拓使厚田郡出張所官宅の土地を払下げられる。その後弁天社の龍の彫刻を施した向拝を本堂に使用する。初代住職萩原泰能は僧職の傍ら公共のために尽くし、明治20年神職に就き、厚田神社神主となる。
 
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厚田公園 「道の駅」予定地
厚田公園には沢山の碑があるが、今日は碑ではなくこの景色の見納めということで案内させていただく。現在、厚田複合施設「道の駅」建設準備が進められており、厚田資料館も解体中である。道の駅完成後は、厚田公園も大きく変貌することになると思われるリニューアルされた姿を是非見に来ていただきたい。
 
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◇厚田海水浴場
高台の駐車場から眺めた湾の様子。かつてニシン漁が盛んであった頃は、大漁船が着岸した。陸揚げされたニシンは、女衆がモッコを担いで坂を登り、今の公園広場辺りの干場へ運び作業場で処理を行った。
 
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◇厚田神社   厚田区1番地
嘉永元年(1848)、ニシン漁が盛んな時に建立された。明治20年に萩原泰能龍釋寺住職を辞し神官となる。ポイントとなる碑は三つ。
・豊漁記念碑
明治24年、ニシン五万石の大漁を記念して建てられた。五万石は37,500トンで、金額にして約375億円の生産高となる。
・撃剣道場 直心館之碑
明治25年、直心影流剣士牧田重勝によって撃剣道場直心館が開設された。重勝は白河藩士(福島県)で、明治11年を西南事件に巡査を率いて鹿児島に出張。同14年北海道集治監の看守となる。同22年厚田に招かれ、同43年まで若者に剣術を指導した。厚田がニシンで潤い、多くの文化や風習が本州から入ってきたことが窺われる。
・石段・石畳一式
厚田の大富豪佐藤松太郎、ヨシ子ご夫婦が石段を献納した。
 
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厚田小学校校庭
◇開校百十年記念像のぞみ  建立 昭和62年(1987)
 
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◇厚田小学校正門
昭和12年11月竣工  (昭和11年10月北海道幸行記念)
 
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◇厚田尋常高等小学校改築記念碑
この碑は佐藤松太郎と関係がある。佐藤松太郎は巨漢(体重40貫)の漁業家で「やま丸(屋号)の布袋さん」と称された。松太郎は厚田小学校改築に当たり一万三百円寄附するなど、教育や村のために資金を提供した。道会議員にもなり、漁業長者番付表では東の横綱の地位を占めていた。大正7年(1918)小樽の別邸にてスペイン風邪で他界(55歳)した。
 
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◇開茫有楽館の蔵(厚田小学校脇東側)
佐藤辨蔵が建てた別荘「有楽館」跡に残る倉庫1棟。辨蔵は安政4年(1855)厚田に転住。駅逓、郵便局、厚田・古潭の寺子屋、教育所の開設、剣道場、消防組織の結成など村づくりのために貢献した、厚田を代表する人物の一人である。
 
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別狩 自然山正眼寺境内
◇佐藤松太郎墓碑
佐藤家の墓碑は大きな台座の上に三基あるが、納骨されているのは中央の「佐藤家の墓」のみと言われている。松太郎の功績にふさわしい立派な墓碑である。
 
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◇自然山正眼寺
曹洞宗寺院で文久2年(1862)創立。明治初期までは別苅村唯一の寺院として宗教的需要を支えた。同寺には、明治41年付で俳句結社正風会会員の俳句が額に入れられて本堂に飾られていて、鰊で栄えていた当時の厚田村の文化の高さが偲ばれる。
 
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◇佐藤家仏壇
佐藤松太郎家で使われていた仏壇が安置されている。
 
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望来 厚田油田跡
 厚田区字知津狩(旧知津狩川河口付近道路沿い)
 
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◇油田跡
今でも重油が湧き出していて、重油の匂いが漂っている。
 
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◇石油噴出している様子
油溜まりの中にぷくぷくと噴出している様子が見られる。
 
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聚富 牛馬頭観世音等四基
厚田区聚富15番地(旧知津狩川河口付近道路沿い)
旧道沿いすぐ脇の山側小高い場所に、草に覆われていた。村山さん持参の鎌で草を刈ってやっと姿を見ることが出来た。牛馬頭観世音(右)昭和11年(1936)、上部に牛馬の彫刻あり。馬頭観世音(左)昭和4年(1929)。壺型手水鉢(左右下)昭和31年(1956)
 
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今日訪問した厚田地区には、沢山の碑や社寺等歴史的建造物がありました。しっかり管理され、長く見守られ語り継がれるだろう碑。一方で、路傍で自然に朽ち果て記憶から消えてしまいそうな碑もありました。講師の村山さんは、いずれも歴史を物語っている大事な資料であり宝物である、とおっしゃいます。今回受講された皆さんも、その思いを共有し、貴重な遺産を受け継ぎ、守り、後世に伝えることの大切さを学んだことと思います。
厚田総合センターでの昼食休憩1時間を含めて長時間の講座でしたが、最後まで熱く語って下さった講師の村山さん、運転手さん、受講者の皆さんに感謝しつつ午後3時前に無事終了しました。

受講者から寄せられた感想ご意見を要約して紹介します。(紙面の都合で文体、文言を一部変更しています)
厚田の開拓の歴史、5人の名誉村民はじめ多くの方々の力が結集し素晴らしい村造りに力を注いだことを改めて知った。当時の村の繁栄は目を見張るものであったと想像します。名跡が多く歴史の重さを感じます。貴重な名板が傷つけられ残念に感じた。歴史散歩は4年前から参加しているが、今日は厚田の歴史を更に深く理解できた。石狩市在住者として貴重な資料を大切に保存している。フイルドワークの良さを実感している。村山先生のお話を伺い、昔からの人々の歩み、苦労が胸に迫ってくると共に時代の流れの中で生きた人々の思いを感じる。埋もれてしまいそうな歴史を蘇らせてくれる碑を回って、その碑を調査して下さる方々がいればこそと感謝。最後の牛馬頭観音も印象的でした。その他、参加して大変良かった、後世に繋ぐためにも継続していただきたい、など沢山のご意見をいただいた。また、次年度希望する講座について幾つかのご提言もいただきましたので参考にさせていただきます。ありがとうございました。




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