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主催講座9 「おもしろ、いしかり大百科」

第1回 「道路を通して石狩の発展のお話」

2015/09/06

 8月27日(木)、主催講座9「おもしろ、いしかり大百科」第1回「道路を通して、石狩の発展のお話」を花川北コミニュティセンターで行いました。講師は石狩市郷土研究会顧問の田中 實さん。受講者は46名でした。
田中さんは、「私はパソコンやインターネットは使えないので、お配りした資料の原稿は全部手書きです。書き物をするのは、夜の9時から午前2時半頃まで。朝は10時半頃におはようございますという不自然な生活を何十年も続けています。従ってこの資料は、真夜中の仕事でできたものです。」と、ユゥモアを交えて話し始め、受講者を引き込みました。
また、本講座の「石狩の道路」について、本来であれば合併から10年経過しているので、厚田区・浜益区についても触れなければならないが、現地調査が十分でなく現在勉強中であり、今回は除外する旨説明されました。
以下、講義の概要を掲載します。
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資料「石狩市の道路」(厚田区・浜益区は除く)について
石狩を中心に、札幌、銭函、手稲、新琴似、当別、厚田方面に行く、各幹線道路について、どのように先人の方々がご苦労されて作られ、どのように利用されてきたかということを石狩町史にまとめたものである。

地図資料「現在の石狩市(旧石狩市)の幹線道路」
(「くらしの便利帳2010」石狩市)
 数ある石狩町の道路の中で、車が走り人が通る主な道路が表されている。
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表「石狩市都市計画道路」         
都市計画により秩序ある町づくりを進める中で造られた主な幹線道路が48路線ある。
その内で幅が21m以上のものを表にまとめた。一番広い道路は幅55mである。一番狭いものは幅18mで、植民区画による道路である。
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表「石狩市域関係所管別道路内容」
石狩から広域的に繋がる道路は、国道(国の管理)2本、道々(北海道が管理)が7本ある。石狩市内をどれだけ延長があるかを示している。この表は昭和61年(1986)のものであるので、現在は新設道や拡張工事などで変更されている。
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 道路というものは、車や人が利用するものである。利用しなければ道路は整備されない。石狩市の特徴としては、鮭を中心とする漁業の町から、明治の中頃開拓民が本州・四国から入り、農業の町(穀倉の町)に変わった。石狩の各地域に入ってくると、人が歩き生産物を運び、資材を運んで来るための道路が必要となり整備された。
戦後、昭和38年頃から石狩に自然を生かした港を造ろうという構想があり、地方自治法により、10年間先を見越した開発計画を立て、町民の意見を聴き議会で議決をして目標に向かって町づくりを進めることになった。
その後、10年毎の改訂を経て今日に至る。第1回の原案作成は田中さん自身が関わり事務的な責任者でもあった。
 昭和38年頃から米も余り、食生活の変化(パン食)などもあり、米作だけに頼っていては先行き不安である。農業も多角化的、計画的に進めるとともに、農業以外にもいろいろなものを取り入れた町づくりをしなければならない時代が来つつあった。

町づくりの四つの柱
①港湾都市 
石狩は、北海道の中心都市札幌(行政の中心)、北海道一の小樽港(商業港)がすぐ傍にあるという環境を生かして、苫小牧のように砂地を掘り込んだ新しいタイプの港を造ることにした。人工的に造った港の第1号は茨城県鹿島である。それを真似たのが苫小牧であり、それに自信を得て造ったのが石狩湾新港である。漁業資源や海を汚すことなく自然を残すことができた優れた港となった。
②食糧基地
米作だけでなく、蔬菜や花などを栽培して、人口が増える札幌に供給するバランスをとって食糧基地としての役割を担おう。
③住宅団地
石狩は砂地が多く地盤も固いし、空気もよい。増えてくる人口を計画的に引き受けて住宅団地の町にしよう。
④観光の町
川・海・鮭(鮭料理)など恵まれた自然環境を生かした観光の町にしよう。

それによって現在の花川南のような北海道一の300万坪(酪農と水田の跡地)の団地を内外緑地(新札幌団地)が造ったのが昭和40年からである。
昭和46年に石狩湾新港を決定して計画を立てたところ、港で働く人も含めて3万人が入ってくるだろうと予測。北海道と札幌市が株主である北海道住宅供給公社が花川北(今の花川北団地)にきた。232万坪すべてが水田の跡地である。非常に大きな変化である。
さらに古い街並みも整理して新しい町にしようと土地区画整備事業でできたのが現在の市役所や市民図書館がある地域である。
 都市計画を推進するために、北海道各地から若い優秀な人材を職員として採用し、多くの方の頭脳をお借りして現在の石狩市がある。
 一番新しいのは緑苑台である。ここは加賀の殿様(前田農場)の土地であったが、青森の大地主が買い、住友・三菱が出資して緑苑台団地を造った。
 
人口が増えると道路が増える
図 石狩市地区別人口統計表
 八幡町のトーメン団地、一流の商社が開発。昭和31年から平成18年までどのように石狩町の人口が変わってきたか、人口が増えてくると道路が増えてくる。極端な例としては、資料にある中生振地区(現在の図書館の川向)は、今から45年前、昭和31年(1956)には1,053人住んでいたが、平成18年(2006)には483人に減ってしまった。凄い減少である。人口が減ると道路も整備されずゆき届かなくなる。
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 図 年別各道路の数と道路の延長
大正12年には石狩には5里16町しかなかった。石狩から札幌に行く道路1本しかなかった。石狩町議会で認めた距離はわずか12里、50キロ足らずであった。あとは私道を自分達で作った。どんどん増えて一番新しいのが平成18年に国道が2本入っている。これが92kmある。北海道が管理する道路が7本あり、延長が42km。石狩市が整備し除雪する道路が1,444本あり、その延長が740㎞である。
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地図に見る道路の移り変わり(図1~図4)
地図を見ると、明治から現在まで道路がどのように増えてきたか、詳しく見るとその状況がよく理解できる。
市役所から石狩に行く道路も、茨戸から図書館のところを通ってくる道路
も、今の国道でなくて石狩川の川沿いにあった。今でも各所に古い時代の道路が残っている。古い道路を訪ねて歩くのも面白いのではないだろうか。
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辞書に見る道路
 ところで、道路とは何か。法律には定義がある。
小学辞典には、「道とは、人や馬がゆききする所」と書いてある。
専門的な辞書になると「道とは、徒歩、自転車、自動車などによる人と物との移動を確保するための交通施設」となる。
道路についての熟語を調べてみると「陸路・道路・水路・空路・航路・表道・裏道・間道・車道・歩道・自転車道・並木道・木道・水道・散歩道・坑道・山道・登り道・下り道、路地・小路」など沢山の道がある。

道路の種類
道路法による道路(国土交通省):自動車道を支える道路
港湾法による道路(国土交通省):人工道路、海に臨む道路
森林開発公団法による道路(農林水産省):スーパー林道
土地改良法による道路(農林水産省):広域農道
・石狩~北生振~当別~月形へ
・望来~正利冠~五の沢~高~高岡当別高岡へ(ゴルフ道とも呼んでいる)
自然公園法による道路:知床の道路 
道路運送法に基づく道路:高速道路
このように役所が縦割りでさまざまな道路を造っている。これが日本の道路である。
「道路法」で云う4つの種類
・高速自動車道:北海道に2本ある。①小樽~札幌西 ②苫小牧~北広島
・一般国道:石狩には2本ある。①国道337号 ②国道231号
・道道:7本
・市道:1400本程

石狩市の道路
・今の道路は土を盛り上げて造るというイメージだが、昔は高い所を削って低い所を埋めて造った(開鑿)。
・道路法では「国道337号線」と線はつけないで「国道337号」という。道道や市道には線をつける。(道路法施行令)

1.札幌方面への道路(写真資料=読売新聞)
(1)石狩―茨戸―札幌方面の道路
 昔の石狩街道は、篠路から元町を通って斜め道路に出る。明治になって創成川を掘削してから新しい石狩街道になった。その前の石狩街道というのは、当別から石狩に来る道を云っていた。
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(2)花畔市街―札幌手稲区方面の道路
 今の手稲石狩線で、花畔から軽川(手稲)まで。この区間は大半が泥炭地で、春秋の季節にはぬかるみが多く人馬の通行に困難を極めた。その修繕のために、村費で負担し切れず、寄付金を募り道庁に嘆願し、村民総出で協力した(花畔村村民契約證=明治26年)。
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エピソード①
 有島武郎が札幌農学校の予科に入り、道路ができて4年後、仲間と共に札幌から石狩に来た時の記録。
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エピソード②
 小説家子母澤寛が少年時代の話
 子母澤寛は祖父(梅谷十次郎)と厚田に住んでいた。厚田の学校に通って勉強し、明治40年に函館の商業学校に合格した。ところが「4月12日までに通知書をもって学校に来なさい」という通知が届いたのは4月の10日であった。急遽夜中に支度をして、祖父と二人で望来から海沿いの雪解け道を馬車で石狩に向かった。20キロある。渡船で本町に渡り、おじいさんの友達である遊郭の親分の所で休憩。どうしても11日まで函館に行かなければならない。しかし、石狩―花畔―輕川(手稲)までは道路が水浸しで、車どころか人さえ歩くことは困難である。親方から出してもらった若い衆2人の助けを借りて、膝までつかる泥濘を歩き、なんとか夕方までに輕川に着いた。
そして、札幌薄野の遊廓「高砂楼」の養女となっている娘(子母澤寛の
母親・三岸好太郎の母親)のところで、腕時計を質に入れて50円を借り函館に向かった。
(詳しくは、下沢寛全集「曲り角人生」市民図書館蔵)
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エピソード③
 町村敬貴(町村農場の創業者)さんの話
 町村敬貴さんがアメリカから帰ってきて、大正の初めに町村牧場を開いた。東京から来る母親と自分の嫁さんを、事務所(南線小学校辺りまで連れて来るのに馬車で輕川まで迎えに行った。ところが、道道路泥濘で、新川を超えてからは馬車が揺れて腸がちぎれる位揺れて乗っていられない。とうとう2人は、白足袋を脱いで私達は歩きますと言って、着物の裾を端折って泥道の中をお嫁さんと二人で歩いてきた。
(この話は、敬貴さんの本に詳しく書いてある)

(3)花川地区から新琴似方面の道路
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開発と石狩
 花川北の住宅団地は、住みよい住宅環境を守ることを重点に考え、他所の人が車で通り抜けできないように造った。しかし、後でいろいろと問題となってきた。
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2.当別方面の道路
 北海道百年史、今の道道、聚富川の河口に上陸記念碑がある。伊達邦直は当別に土地が与えられたが道路がないので、家臣の若い侍達で高岡を通って地蔵沢から麻生神社(元町)の大おんこの木の所まで道路を造った。
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エピソード④
 伊達邦直のエピソード
道路ができて8年後(明治16年)に小松宮彰仁親王が、幌向の炭鉱を視察の帰路、当別の開墾の状況を視察。翌9月?日、石狩川の河口を巡視して札幌に向かうことになった。伊達邦直が案内して山越えで高岡を通り、渡船を渡って、今の資料館がある所の江尻家に宿泊。江尻家には伊達邦直の長女が嫁いでいる。なぜ、侍(武家)が商人と縁結びをするのか。江尻家は鮭で儲け、北前船をもつ大商家である。武家は移住してきて開墾するための資金を調達するのに都合がよい(金づるである)。一行は翌日札幌に出立した。

北に行く道路(厚田方面)
・望来の停留所(バスがひっくり返るので女子はモンペを履く)
・休憩所の燃料は泥炭。
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 田中さんは、石狩の発展と道路との関わりについて、長年の研究による豊富な資料を基に、熱心に講話をされました。受講生からもたくさんの声をいただきましたので紹介します。
受講者からの感想
・田中實氏のお話は、生字引の通り貴重なお話を聞き感動しました。道路の話は面白く勉強になりましたが、歴史の勉強も教わりたく思います。
・石狩の発展に欠かせない道路の話は非常に興味深く、深くかかわって来られた田中先生だからこそいろいろなエピソードを交えてくださり、大変勉強になりました。
・一口に道路といっても奥が深いと感じました。資料も詳しく素晴らしいものでした。
・現地を歩いてみようかなと思う内容でした。古い道路を歩いてみます。
・まだまだたくさんお話をお聞きしたいので是非機会を造ってください。




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