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講座2 「北の人物伝Ⅰ~北海道の歴史を彩った人々~」

第3回 「札幌が育んだ新渡戸稲造の精神」

2015/05/20

 5月15日(金)講座2「北の人物伝1~北海道の歴史を彩った人々~」の第3回「札幌が育んだ新渡戸稲造の精神」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、北海道大学名誉教授 藤田正一さんで、受講者は60名でした。

 最初に司会者から、藤田先生は北大の北の方にある遠友学舎の建物で遠友夜学校を主催されていること、また現在は北大の名誉教授ですが、北大の副学長や総合博物館の館長もされてきたとの紹介がありました。
 藤田先生も、司会の紹介からでは少し堅苦しいと思われてはと、学生時代は応援団長をされていたことやアメリカ留学時には、真夜中に寮の中で『都ぞど弥生』を大声で歌い、ジャパニーズ・オペラという名前がついたとのエピソードも話されました。
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 講義は、テキストに沿って進められました。以下に、お話しの概要を記します。
◇このひとだれ? 
 本日は『札幌が育んだ新渡戸稲造の精神』ということでお話しをしたい。
 新渡戸稲造は、5千円札になった時に「この人だれ」という人が多かった。新渡戸稲造という字も読めないほどであった。世界的に有名なこの人が日本では忘れられていた。1984年(昭和59)11月1日にこのお札ができ、2007年(昭和19)第1次安倍内閣のときに終わりになった。

 新渡戸稲造は、戦前・戦後を通じ、国際舞台で最も活躍し、世界からも最も敬愛された日本人であった。新渡戸稲造は札幌農学校を出ているので農学博士であったが、法学博士でもあった。農学博士でありながら日本三大英文家(新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心)の一人であった。また、新渡戸稲造は武士道でも有名であった。新渡戸稲造は『武士道』の著者であった。

 新渡戸稲造は、国際連盟事務次長で国際知的協力委員会を作った。そこでオーランド紛争にも調停案をまとめて裁定『新渡戸裁定』した。そして台湾の製糖業に貢献している。札幌農学校の出身者が多く行き台湾の発展に貢献している。

 教育の面でも新渡戸稲造は、札幌農学校、京大、東大の教授をしており、第一高等学校校長、東京女子大学長もやっておられる。
 これだけ非常に多岐にわたる活躍をされた人であるにもかかわらず、1984年に新渡戸先生の肖像が載った5千円札が出てきたときに「この人だれ」。何故忘れられていたのか。高校の教科書の索引を繰って見ても載っていない。そう言うことも後で触れたい。

◇新渡戸稲造の業績の一部を見てみよう
・武士道
 もう少し新渡戸先生の業績を見てみたい。
 まず武士道です。新渡戸先生が『武士道』を表したのは非常に若いとき1899年(明治32)であった。身体をこわしアメリカで療養中に書いたのが『武士道』で英語で執筆され、それが日本語に訳された。日本文化を詳しく書いているが、西洋文明に通じており内容は非常に多彩で世界の文化、価値観とかが盛り込まれて書かれている。

 アメリカの当時の大統領ルーズベルも読んで深く感動し、「最高の道徳書である」として、数十冊を購入し知人や家族に配ったという。1905年(明治38年)には、明治天皇が新渡戸稲造を宮中に呼び謁見。新渡戸稲造は、英文の『武士道』を献上している。

・国際貢献
 新渡戸先生は、1920年から1926年までの7年間国際連盟事務次長の役割を努めた。新渡戸先生は、事務総長ドラモンド卿の片腕として活躍しており「国際連盟の輝ける星」として各国から敬愛を集めた。

 新渡戸先生はここで2つの役割を果たした。
 一つは、人類の精神的、知的諸問題を討議する国際知的協力委員会の創設である。現在のUNESCOの前進である。もう一つは、オーランド紛争における調停案をまとめた「新渡戸裁定」である。
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・夜学校の設立
 このような活躍をされた新渡戸先生がまだ有名になる前に、貧しい者のために夜学校、札幌遠友夜学校を設立した。そして札幌農学校の生徒達が無償で先生役を務めた。
 貧しくて学校に行けなかった子供たちが、この学校を愛し、昼間の労働の後、「裸足で走って学校に行った」「生徒と教師がこの学校で白熱を発し合った」と記録に残っている。
 このように、学校に行きたくてしょうがない、先生も喜んで学校に行く、このような教育の原点というものが札幌にあった。

◇札幌遠友夜学校
1 遠友夜学校の設立
 新渡戸稲造が、明治27年(1894)に設立した札幌遠友夜学校(1894~1944)。校舎はキリスト教会が持っていた伝導のための古屋と土地を購入した。先生を雇い入れるお金がなかったので北大生がボランティアで教壇に立った。教科書は北大生達が工面したお金で購入し、無料で生徒達に与えた。
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2 遠友夜学校の特色
 遠友夜学校の特色は、当時の夜学校勧誘のビラに示されている。
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 遠友夜学校における北大生の献身は、1894年(明治27)から1944年(昭和19)までの50年間続いた。500人の北大生が先生を務め、5000人の生徒がここで教育を受け、約1000人が卒業している。
 この学校の校是は、リンカーに学べであった。新渡戸稲造が尊敬するリンカーンの言葉を新渡戸先生が筆で書き飾ってあった。

 その後、札幌遠友夜学校の記念室が、1964年(昭和39)夜学校の跡地に開設された札幌市の若者活動センターの施設内に開設された。資料室内には、新渡戸先生が宮部金吾へ宛てた手紙の若き日の夢が飾ってあった。
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 札幌遠友夜学校の由来・目的・目指す教育などは、新渡戸稲造が40年後の1931年(昭和6)に夜学校に訪れたときの講演記録に残っている。
 夜学校の教師達がどんな気持ちで教えて教えていたか。当時夜学校の学生教師であった石塚北大名誉教授に記録されている「そこには、教わる者よりも数冊の書を多く学んだ教師と、昼間の疲れも忘れて机に向かう生徒がいるにすぎない。しかるに、教師も生徒も、共に夜学校へ夜学校へと引かれるものは、何か。これ、夜学校に・・・」。

3 札幌遠友夜学校の終焉
 昭和17年(1942)、遠友夜学校生徒に軍事教練を課すように要求があった。しかし、遠友夜学校は、昭和19年の閉校まで軍事教練を課していない。
 「軍事教練を課さない学校は存在に値する学校ではない」として軍の怒りを買うことになるが、遠友夜学校は平和主義を貫いて昭和19年閉校となる。
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 遠友夜学校の閉校にあたって残した言葉がある。

蝦名賢造 元北大予科教授
 「新渡戸稲造夫妻の札幌に残した最も美しい、高貴な遺産の一粒は、このささやかな札幌遠友夜学校であった。・・・」

松井愈 元北大教授で夜学校の廃校に立ち会った一人
 「昭和19年3月6日、新渡戸先生の筆太の横額"学問より実行"がかかげられてある講堂で行われたこの年の卒業式は、同時に遠友そのものの閉校式でありながらあまりにもささやかな寂しいものだった。・・・」

 2014年札幌遠友夜学校は創立120年を迎えた。この記念すべき年に札幌市が行ったことは、この記念室を閉じ、資料を手放すことだった。全ての資料は北大へ移してしまった。

◇新渡戸稲造の人格形成と札幌
 新渡戸先生の根本的思想がどのよう形成されたか、また最も重要な影響は何か。
新渡戸構造は盛岡で武士の子として生まれ、1877年(明治10)15歳の時に札幌農学校に入った。そして明治14年迄の4年間の青年期を札幌で過ごした。

 札幌農学校は入学と同時に新たな精神が紹介された。その精神はクラーク博士が札幌の地にもたらしたものであった。この精神の基で彼らは教育された。札幌農学校との出会い、教育をなくして、新渡戸稲造はなかった。

 新渡戸稲造の人格は札幌に負う所が大きい。次のような言葉に残されている。
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 内村鑑三も「札幌において私どもを薫陶してくれました最良の教師は人なる教師には非ずして、生けるそのままの天然でありました」と述べている。

 このように、北海道の自然が彼らを育んだは確かであろう。しかし、振り返って彼らの歩みを見ると、彼らが、武士道と言う土台の上に、一つの精神の流れの影響を受けながら自己を確立して行ったことが分かる。

 クラーク博士の精神は、札幌農学校、新渡戸稲造、そして新渡戸稲造の弟子達と受け継がれていった。
 この札幌農学校について、矢野原・元東大総長の1952年(昭和22)の言葉がある。
「日本の大学教育に二つの大きな中心があって、一つは東京大学で一つは札幌農学校でありました。この二つの学校が日本の教育における国家主義と民主主義をという二大思想の源流を作ったものである」

◇Boys,be ambitious
 クラーク先生が来て札幌農学校にもたらしたのがBoys,be ambitious。この北大の解釈が、1915年(大正4)サンフランシスコ万博に配布した『北大略史』(英文)に載っている。 
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 当時の青年の生き様は"立身出世"であった。クラーク博士はそうではない、知識、正義、社会への奉仕、人格の完成を大志の目標としなさい、と人生の生き様を示した。

 同時にクラーク先生が言ったのが、Be Gentlemen !。
クラーク先生が札幌農学校に来たときに、学校から"こんな校則で如何でしょうか"と示されたときに、クラーク先生は「こんな校則で人間がつくれるのか。 Be Gentlemen! この一言で十分だ」と言ったといわれている。

 クラーク先生は、札幌農学校にわずか8ヶ月しかいなかった。それがどうしてこれだけの影響を与えたのか。それは、各人の個性によるのは無論だが、クラーク先生が連れてきた4人の米国人教師による所が大きい。この4人の教師は全部クラーク先生の教え子であり、クラーク先生の精神がたたき込まれていた。

 こういう教師がいたからこそ、2期生以降にも人材を出している。
 2期生の宮部琴弥の言葉「新渡戸は申すまでもなく、内村、宮部、廣井、南、岩崎氏などいずれも錚々たるものである。各自の個性によるのは無論だが、米国人教師の薫化があずかっていると自分は思う」と述べている。廣井は、小樽運河を築いた人である。

 キリスト教もクラーク先生が布教した。一期生と二期生のほとんどが卒業後も信仰を継続している。

 クラーク先生とその弟子達の残した精神は、(以下に主なもの)
  ・アメリカの独立宣言の精神 自由、自主独立、博愛、平等
  ・弱者の側に立つ利他の精神(奴隷解放の為に出兵)
  ・社会的階層に関わらず教育は必要(平等、機会均等)
  ・Be ambitious:私利私欲のない大志 
  ・Be Gentlemen:自立した確固たる個、責任感
  ・キリスト教
これらが新渡戸ら札幌農学校の生徒たちを襲った価値観でであった。
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 以上が本日の講義の概要ですが、新渡戸稲造の残したものや時代背景、そして今に到る遠友学舎について、分かりやすく話していただきました。

 藤田先生の話に聞き入っているうちに、あっと言う間にお話しは終わりました。受講者はもっと聞きたかったとの感じを持たれたようです。寄せられた感想の中にも、
「時間が足りず残念でした。もう少し聞きたかったので、後期注の講座を楽しみにしています」
「分かりやすくまとめて聞きました。後期の先生の講座も期待しています」
とありました。

注 カレッジ講座11 第2回『北の人物伝Ⅱ ウイリアム・スミス・クラーク』
  9月24日 講師:藤田正一 氏




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