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講座10 『北の人物伝~北海道の歴史を彩った人々』

第1回 「箱館戦争 敗軍の将、輝く!『榎本武揚』」

2014/10/04

 10月3日(金)、講座10『北の人物伝~北海道の歴史を彩った人々』の第1回「箱館戦争 敗軍の将、輝く!『榎本武揚』」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、元NHK社会部記者で現在は札幌市の観光ボランティアガイドをされている望田武司さん、受講者は39人でした。

 お話の前に司会者から、望田さんが書かれた「敗軍の将、輝く 榎本武揚"生きざま"の検証」と云う本が紹介されました。

 以下は、お話の概要です。
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◇幕臣時代
・天保7(1836)年、江戸に生まれる。幼名釜次郎
・昌平黌で学んだ他、江川熟でジョン万次郎から英語を学んだ
・安政元(1854)年、19歳で目付堀織部正の小姓として蝦夷地を検分
・長崎海軍伝習所に二期生として入学
・その後5年間、オランダ留学
・幕府がオランダから買い入れた開陽丸で帰国
・32歳で結婚(妻多津・16歳)
・慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いが勃発
・徳川慶喜は徹底抗戦を呼びかけながら自身は開陽丸で江戸へ撤退し、幕閣、諸老の無策に榎本は慨嘆
・恭順のお達しに、榎本は「恭順するとは、将軍様は腰が抜けたか!」と叫んだ
◇箱館戦争
・慶應4年8月、榎本は艦隊を率いて品川沖を出航
・蝦夷地へ向かった榎本の真意
新政府への抗戦が本義ではなく、蝦夷地の開拓と警護で旧幕臣を救済し皇国のために役立てることだった。実際、英仏両国の箱館駐在領事、艦長に新政府との調停を依頼している。
・榎本の嘆願は新政府に拒否され、交戦となる
・榎本の戦い方、考え方
人口の多い箱館の混乱を避け、噴火湾の寒村から上陸。頭領を日本初の選挙で選んだ。自治組織"共和国"を作り地域を支配した。外交折衝で、箱館駐在各国領事、艦長を、局外中立、榎本心情支援の立場に置かせた。捕えた捕虜を厚遇し送り返した。負傷者は敵味方なく治療させた。所蔵する貴重な万国海律全書を、灰燼に帰すことのないよう敵軍大将に送った。これに対して、敵将の黒田了介は「何れ他日訳書を以て天下に公布致すべく候」と答え、酒5樽と肴、弾薬を贈った。
・降伏勧告
軍議では玉砕と決めたが、逃亡者も多く、榎本は自害をはかるも果たさず、降伏した。
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◇新政府の処遇方針
・黒田了介(清隆)
「榎本は、稀なる才能を持ち且つ温情のある男で、新政府のために活躍してもらうべき」と西郷隆盛、大久保利通、福沢諭吉らへ助命を働きかけた。黒田は、頭を丸めてまで奔走した。
・木戸孝允
新政府に逆らった朝敵は処刑、斬首すべき、と主張。
・福沢諭吉
「万国海律全書」の翻訳を依頼され、榎本のような専門家でなくては、と1回だけ訳しただけで断った。
・獄中からの手紙
住環境、衛生状態の悪さから一時危篤に陥ったが、その後回復。兄への手紙では、石鹸、蝋燭の製法、鶏や鴨の人工ふ卵器、じゃがいもから焼酎を作る方法、硫酸メッキの方法など様々な事を教えている。また、姉あてでは「舎密学(化学)では日本で小生に並ぶ者なく」と自負している(実際に後年、日本化学工業学会、日本電気学会、日本気象学会の会長を歴任)
・明治5年1月、特赦で出獄
◇第二の人生
・黒田が、何度も仕官を勧めたが、固辞
・仲間の誘いもあって、開拓使4等職を受諾。北海道の鉱山調査を行った(空知河石炭山は予が検査を以てはじまる、と自負)
・駐露特命全権公使(海軍中将)となる
ロシアとの領土問題処理のため。明治8年、樺太千島交換条約調印。
・その後、逓信大臣、農商務大臣、文部大臣(伊勢神宮不敬事件)、外務大臣(大津事件)、農商務大臣(足尾銅山鉱害)を歴任
問題が起きるごとに、担当大臣就任を要請され、問題処理にあたった。
・足尾銅山鉱害事件
それまで政府は民間の問題には介入せずとしていたが、榎本はお忍びで現地を視察、調査委員会を設置し、予防工事の命を下した。視察後、5日後に辞任し政界を引退した(山で始まり山で終わった仕官人生)
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・福沢諭吉「痩我慢の説」
福沢諭吉は、海軍卿、元老院議官、枢密院顧問官、伯爵となった勝海舟や複数の大臣を歴任し子爵となった榎本武揚に対して、その生きざまを批判した。
・福沢への反論
勝は、毀誉は他人の主張、我に関せずと言い、榎本は多忙に付いづれ其中愚見申し述べる、とした(結局何も言わなかった)。また、東京農業大学榎本横井研究会の稲木静恵氏は、福沢指摘の事実関係について悉く反論している。
・黒田清隆との交誼
黒田の後妻の娘(17)と榎本の長男(27)が結婚。
◇江戸っ子葬
・明治41(1908)年、永眠
亨年73。海軍葬。葬儀は、木遣りの響く中で行われ、数千人の市民が列を作った。
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◇榎本武揚低評価の背景
・歴史は常に勝ち組の立場で書かれ、旧幕府の立場から見た資料は抹殺された。
・明治政権は藩閥政治であり、その中で榎本は政治屋ではなく政治家を貫いた。
・ほとんどが推されてポストについたもので、自分の業績を自ら公表しなかった。
・福沢の痩我慢の説が、榎本評価へのマイナス作用として働いた。
◇碧血碑
 明治7(1874)年に政府が賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可したのを受け、明治8年、函館山に箱館戦争における旧幕府軍戦死者の慰霊碑として建立された。碑には「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志(明治2年実に此事有り。石を山の上に立てて悲しみの気持ちを表す)」と彫られている。 

 以上のような望田さんのお話を聴いて、榎本武揚と云う人物の人となりや考え方が大変良く分かりました。
そして望田さんが書かれた「敗軍の将、輝く 榎本武揚"生きざま"の検証」を今すぐにでも読んでみたいと思いました。
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