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講座12 北の人物伝Ⅱ~「北海道の歴史を彩った人々」

第1回 「小林多喜二~プロレタリア文学『蟹工船』を読む」

2014/01/24

 1月21日(火)講座12 北の人物伝Ⅱ~「北海道の歴史を彩った人々」の第1回 「小林多喜二~プロレタリア文学『蟹工船』を読む」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、公益財団法人北海道文学館学芸員の喜多 香織さん、受講者は54名でした。

 最初に「皆さん、こんにちは。北海道立文学館は、文学専門の博物館です。26万点の資料を収蔵していますが、そのうち1000点ほど常設展示しています。その中でも一番の目玉が、今日お話しする小林多喜二の「故里の顔」と云う自筆原稿です。近くにおいでの折りにはぜひお立ち寄り下さい」と、文学館の紹介がありました。
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 それから本論に入り、小林多喜二の生い立ちについてのお話がありました。

・小林多喜二は、明治36年、父末松、母セキの6人兄弟の次男として秋田で生まれた。祖父多吉郎の頃は裕福な家だったが、伯父の事業の失敗により没落。その後一家は、小樽で再起、成功した伯父を頼り小樽へ移転した(多喜二4歳)。
・伯父のパン工場に住み込みで働きながら小樽商業学校に通い、また伯父の援助で小樽高等商業学校で学んだ。
文芸誌への投稿するなど文学活動に取り組むと同時に絵画にも親しんだ。映画好きでもあった。
多喜二の絵
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 小樽高商の同窓には高浜年尾(高浜虚子の長男)1級下には、伊藤整がいる。
・大正13年(21歳)北海道拓殖銀行に就職。
島田正策、蒔田栄一らと同人雑誌「クラルテ」を創刊。
田口タキと知り合う。
・大正15年(23歳)
葉山嘉樹の「淫売婦」に感銘を受ける。田口タキを自宅に住まわせるが、7ヶ月後にタキは家出。結局、結婚はしなかった。
矛盾を抱えた自己に苦悩した。
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・昭和2年(24歳)
社会科学の勉強を始める。
・昭和3年(25歳)
労働農民党の山本懸蔵の東倶知安方面の演説に参加。ナップ(全日本無産者芸術連盟)が結成され、その機関紙「戦旗」が創刊されると、伊藤信二、風間六三らとナップ小樽支部を結成。
3.15事件を題材とした「一九二八年三月十五日」を書く(戦旗11・12月号)
「蟹工船」起稿(10月末)。
・昭和4年(26歳)
「蟹工船」を「戦旗」5・6月号に掲載。単行本は9月。「蟹工船」は、原稿用紙約200枚の作品で6カ月で書かれた。
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 この後、小説「蟹工船」のあらすじが紹介されました。

舞台 函館から北洋に出向する「蟹工船」・博光丸
登場人物 300~400人の船員たち、監督(浅川)、船長、日本海軍、ロシア人、雑夫、漁夫、船員(水夫、火夫)

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 このように無残な結果にはなるが、小説は、「今度は、首謀者が分からないようにして、もう一度ストライキを起こそう」と船員たちが話し合う、希望を持った形で終わっている。

 あらすじの紹介の後は、この作品での多喜二のねらいについてのお話がありました。

昭和4年3月31日 蔵原惟人への書簡のまとめ―手塚英孝解題より『小林多喜二全集』2(1993年新日本出版社)
①労働者の「集団(グループ)」を主人公にして描こうとした。
「一九二八年三月十五日」が各個人の性格、心理を主眼として書かれているのに対して、「蟹工船」には特定の主人公がいない。
②プロレタリア芸術大衆化のために、とくに労働者に共感がもたれるような形式上の努力をした。
味方だと思った駆逐艦に欺かれるどんでん返しなど山場がある構成になっている。また、冒頭は映画の手法が使われている。
③「蟹工船」と云う特殊な労働形態を描こうとした。植民地、未開地における原始的な搾取の典型。
「蟹工船」と云う場を通して、未組織労働者の問題、国際関係、軍事関係、経済関係を描こうとしている。

 「蟹工船」の反響などについて。

・単行本は、35,000部発行された。
・中国語、ロシア語、英語で翻訳され世界各国で読まれた。戦後は、チェコ、ポーランド、ベトナムなど6カ国語で翻訳されている。
・蔵原惟人の評
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・新築地劇団が土方与志演出で上演したが、原作とはかけ離れタイトルも変えられた。昭和28年、山村聡監督により映画化。
・献上品の缶詰についてのくだりがもとで、多喜二は昭和4年に小樽警察署に召喚された。
・2000年代に蟹工船ブームが起きた。
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 多喜二は、どうして蟹工船の詳しい実情を知ることができたのか?

・取材には、1年半くらい費やした。
・新聞のスクラップをして、実際に起こった事件などを参考にした。
・小樽高商時代の友人に頼み、函館で実際に船に乗りこんで取材した。
・海上生活者新聞の編集をしていた関係で、海員から話を聞く事が出来た。

 その後の多喜二の生活

・昭和4年(26歳)
拓銀を解雇される(依願退職の形)
・昭和5年(27歳)
上京。治安維持法で逮捕、投獄される。
・昭和6年(28歳)
杉並区馬橋に一戸を借り、母セキ、弟三吾と住む。日本共産党に入党。
・昭和7年(29歳)
奈良に崇拝する志賀直哉を訪ねる。伊藤ふじ子と結婚。
・昭和8年(30歳)
2月20日特高に逮捕され、拷問によりその日に死去。
デスマスクは、小樽文学館にある。
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母セキは、「また、あの2月がやってきた」と云う想いのこもった手紙を残している。
このセキに焦点をあてた、三浦綾子の「母」と云う小説には、母の言葉で語られる多喜二像が描かれている。

 最後に、日本共産党所蔵の「蟹工船」の原稿帖や日本近代文学館所蔵の原稿などのDVDが披露されて、本日のお話は終了しました。
日本近代文学館所蔵の原稿
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 多喜二の生い立ちからその死までがよくわかると共に「蟹工船」と云う小説の意義も理解できた大変面白いお話でした。

 




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