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講座15『石狩川Ⅱ~北の大地の母なる大河』

第3回「石狩川の鮭漁~河口のまちの栄華はいずこ」

2012/03/11

 3月8日(木)講座15『石狩川Ⅱ~北の大地の母なる大河』の第3回「石狩川の鮭漁~河口のまちの栄華はいずこ」を石狩市民図書館で行いました。講師は、石狩市郷土研究会顧問の田中實さん、受講者は47名でした。

 
15-3-3.JPG  田中さんは冒頭に「石狩川の漁業史についてはこれまで何度か発表したことがありますので、今回は、"詩歌で綴る石狩サケ漁業盛衰史"という少し違った角度からお話をしたいと思います」と言って講座を始められました。

 最初に紹介されたのは、石狩浜に画廊を開いた渋井一夫の詩でした。
「石狩の秋/恋する9月/もうサケの王様がやってくる」

 
15-3-21.JPG  そして、明治時代のサケ地曳網漁の様子が写真で紹介された後、河岸の海産商の家に生まれ育った田中さんの体験談と、当時の"サケマス漁舟漕音頭"の録音を聞きました。

15-3-6.JPG明治以前
・慶長年間(1596~1614)に松前藩石狩場所区画が設定された。
・元禄元(1688)年、徳川光圀派遣の快風丸が石狩を訪れ、生サケ100本を米1斗(15キロ)で交換した。
・第一次幕府直轄時代の文化3(1806)年には、幕府目付の遠山金四郎影晋(講談で有名な遠山金四郎の父)が石狩を巡視(この時金四郎が作った漢詩の詩吟を録音で聞きました)。
「宿かりにくれば鮭なりいそがしきまぜかえしたる石狩のさと」文化5(1808)年に石狩を訪れた幕府目付斉藤治左衛門の"西蝦夷日記"より。
・文化4(1821)年の石狩13場所の運上金は約3千両に達した(場所請負人は村山家)。
・第二次幕府直轄時代の安政5(1858)年には松浦武四郎が石狩に来て(4回目)「札幌に府を置きなば石狩は不日にして大坂の繁昌を得べく~」と記した。
明治時代
「淋しとはおもわざりけり石狩の鮭とる浦の秋の夕べは」明治9年に石狩を巡視した山縣有朋の歌。
・明治10(1877)年、開拓使石狩缶詰所は50尾の鮭で缶詰を製造(日本での洋式缶詰の始まり)。
・明治12年、石狩郡鮭漁獲高が194万5千尾の最高記録を挙げる。
・尚古社による俳句活動が盛んになる(尚古集、北海道俳句界の先導的役割を果たす)
「音に聞く名も大網や鮭の漁」尚古社員・田中北眠(大網は小字名で海面サケ漁があった)
「廓まで届くや鮭の網曳声」尚古社社員作
「鮭下げたハイカラ行くや船場町」尚古社社員作
大正時代から昭和20年まで
・大正時代以降は、石狩川中上流部の開発による川の水質汚染などで漁獲高は衰退していった。
大正元年―11万5千尾、昭和元年―8万4千尾、昭和15年―5万6千尾
「そのかみに栄えし町の石狩はものひそけきに行きもとほろふ」斉藤茂吉
昭和20年以降

15-3-19.JPG・戦争中の農業や工鉱業の増産に伴う処理水のたれ流しや、戦後の食糧増産による流域泥炭地帯の造田、炭鉱やパルプ工場の盛況、人口流入などによる複合汚染により、かっての清流は黄濁の流れとなりサケの漁獲量はさらに減退した。
・漁獲量の減退に反して、かって漁夫がぶつ切りのサケにあり合せの野菜と塩または味噌を入れて食べたサケ鍋などのサケ料理は、戦後の乏しい食生活では食欲をそそる秋の味覚として好まれるようになり、バスを連ねて河口のサケ魚場を見学し、十数軒のサケ料理店に入り込む観光客が年ごとに増加した。

15-3-20.JPG「もろ聲にて水面をいでし網の中鮭らあえなく鈎にさされぬ」田辺杜詩花
「漁期を了へしこの砂浜に塗装する磯舟ありて匂ひこもれり」吹田晋平
「岸に寄る波さわだてばだみ声が川にひろがり鮭のはねる見ゆ」大山行子
「石狩川の汚染度年年高くなりて鮭がのぼらずとする説もある」相良義重
・昭和36年、道漁連と石狩漁協組合の共同経営で石狩養豚センターが開設した。
「網引きて鮭一つ入らぬ終日の労働も今日思い沁むもの」吉田正俊
「石狩の川口に獲るる鮭の数新聞すらも今は伝えず」相良義重
・昭和37年(サケの漁獲高1万3500尾)、石狩、厚田、浜益、江別、小樽(銭函北区)の5漁協組合員約千人による石狩川汚水被害防止漁民総決起大会が石狩小学校で開催された(道内で最初の水産関係公害闘争)。
・昭和40年(漁獲高4600尾)、石狩川汚水被害対策本部と道漁民同盟は道開発局と北海道に対して漁業補償額41億1535万5000円を要求した。
「鮭獲れず曳網も舟も仕舞なる川ただひろくにぶく日暮れぬ」村田豊雄
「報われぬ漁なき日日もみずからの体臭として海を信じき」宮田益子
「鮭の群のぼらずなりし石狩川ヘリーボートは間なく行きかふ」宮田新一
・昭和43年、石狩町開基300年開町100年記念事業の一つとして石狩灯台付近の砂浜に「鮭供養之碑」が建立された。
「灯台まで歩み来れば砂浜の上建てる碑のあり鮭供養の碑」吹田晋平
・昭和45年、河口のサケ地曳網漁業が閉じられ(アイヌだけは許可された)、翌年の「石狩さけまつり」は中止となった。
・昭和49年には、漁獲高が520尾となった。
昭和51年以降
・昭和51年(1万1740尾)から鮭の漁獲高は徐々に回復し、昭和59年には、24万3750尾を記録した。
「北国の母なる川の流れ今鮭もどり来しと石狩川に」矢野チヨ
「群れなして川に逆らひのぼりゆく魚のあはれに人は耐え来つ」島田修二
・鮭の漁獲高の増加の原因は
水質保全法、工業排水規制法による工場排水処理施設の設置と都市の下水道施設整備による放流汚水に浄化。
大規模河川工事の減少と砂利採取の規制強化。
水田休耕政策による農業排水の減少。
炭鉱閉山による炭塵や洗浄汚水の流失減。
サケ・マス北洋漁業の漁獲量規制強化。
200カイリ水域設定。
サケ孵化と放流技術の向上及び道沿岸海区別サケ漁獲量指示。
などである。
・その後も漁獲高は順調に回復して、平成7年度は、64万1809尾となった(その後は厚田、浜益との合併により旧石狩町だけの統計はなし)。

15-3-11.JPG最後に、往時サケ漁で栄えた石狩本町地区について
本町地区が今のようにさびれた(現在在学小学生は1人)のは
渡船がなくなった。
石狩河口橋が本町地区を通らないで架設された。
役場が移転した。
などが直接的原因であるが、土地柄の鷹揚な気質も災いしているのではないか、と云うことでした。

 今回のお話は、石狩のサケ漁の盛衰を詩歌を通して辿って、往時のサケ漁の華やいだざわめきやサケの獲れない時の溜息までが伝わってくるような臨場感のあるものでした。

 受講生からも

「鮭漁業全盛期の石狩の繁栄が分かりやすく具体的に表示され、昔なつかしい石狩町の歴史が大変勉強になりました」
「漁師がなぜ養豚を営むようになったのかが良く分かった。石狩川上流の廃液に早めに対処していれば良かったと思った。河口橋の位置決めのいきさつは以前お聞きしたが、再び本町地区が栄えるには、時代村でも造るしかないのでは」
「いつも豊富な資料と貴重なお話をいただいてありがとうございました。田中實さん個人のサケにまつわる話しも面白かった」

など等のコメントが寄せられました。





 

 



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