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講座4 「田中實さんが語る~石狩の歴史再発見」

第2回 「はまなすが守った石狩浜のアメリカ軍演習場計画」

2011/06/30

 6月29日(水)講座4 「田中實さんが語る~石狩の歴史再発見」の第2回「はまなすが守った石狩浜のアメリカ軍演習場計画」を花川北コミュニティセンターで行いました。講師は、石狩市郷土研究会顧問 田中實さん、受講者は39名でした。

 田中さんは冒頭「今日はこれまでどこにも発表していない、本にも載せていない事をお話します」と言われ、昭和27年2月の日米行政協定調印(米軍駐留の条件を規定、日米安全保障条約に基づくとして国会承認の手続きを踏まず)当時の、世界情勢からお話を始められました。
また「ちょっと、おまけのお話もします」ともつけ加えられました(一体、どんなお話でしょう?)

251kopi.JPG 当時は、昭和25年から28年までの朝鮮戦争の最中で、東西冷戦のただなかにあり、ソ連が流した機雷が危険で青函連絡船も夜は運休するような状態だった。

 昭和27年に、対日平和条約(48カ国が調印、ソ連、チェコ、ポーランドの3国は拒否、それ以降これまで日ソ間には平和条約が結ばれず、これが北方領土問題につながっている)が発効。

 昭和27年2月の日米行政協定により、占領中の接収地が継続使用となり、さらに米軍の要請によりあらたな基地接収が行われたが、これが北海道における米駐留軍基地問題の発端となった。

 米駐留軍への無期限提供地として真駒内、千歳などが決定され、演習地として接収される農地は、道内の対象47,000haのうち18,400ha(石狩花畔訓練場を含む)が27年の日米合同委員会で諒解がついた。

 昭和28年からの接収については、各地で基地反対闘争がより組織的激烈化したが、石狩では反対の動きは町主体で行われ、政治運動は起きなかった。
 
 ○石狩花畔訓練場接収問題の経過

・昭和27年4月、上京中の道農地部長に対して日米合同委員会予備作業班陸上演習場分科委員会から接収の指示があった(具体的動きの始まり)

・同年4月末、石狩町長、農協組合長、漁協組合長が道農地部長室に集められ接収の説明を受け、内容調査書の提出を求められた。石狩町は5月に図面と調査書を送付。

・同年5月、日米合同委員会陸上演習場分科委員会ではアメリカ側が「ハマナス並びに防風林に損傷を与えない、漁業に支障を与えない」条件を受諾して、接収に関する討議は一応終了した(注1.米国側文書)

・同年7月、日米合同委員会で地区決定したが、石狩地区については、石狩町長の「花畔地区については、米軍が当初要求した地区と異なり且つ石狩地区においても拡大決定している」との申し出により道農地部長は現地調査をし確認の上、農地局に異議申し立てした。

・同年12月、石狩町長から「演習地撤廃理由書」(注2)が各方面に提出された。道農地部長は石狩町長と協議の上、知事意見書(注3)を農地局長に提出した。さらに、渉外課を通じ、真駒内師団に花畔地区の変更申し入れをした。

・昭和28年1月、米軍第一騎兵師団司令部から北海道渉外課長宛てに「石狩地域の調査について立ち入り許可」の申し出があった。
これは、戦車を使用して地勢調査を行うための立ち入り許可を求めたもの。

・同年1月末、米軍立ち入り許可についての文書が北海道渉外課長から石狩町長宛てに出された。

・同年5月、石狩町長から調達局へ「石狩町花畔地区演習地に関する陳情書」(注4)が出された。

・同年6月、石狩町長からの陳情書を受けて、札幌調達局は外務省国際協力局長に対して日米合同委員会に提議を依頼する文書(注5)を出した。

256kopi.JPG (注1)米国側文書
・石狩花畔訓練場は歩兵、車両、装甲車の演習場として使用するが実弾は使用しない。
・恒久、半恒久施設を建設しない。
・現存する住居、農耕地には正当な考慮を払う。
・現存する立木を移動、破壊しない。
・日本側の道路交通を妨げない。

 (注2)演習地撤廃理由書(昭和27年12月5日)
海岸地区については、漁家世帯数、網数など、花畔地区については、農家戸数、耕地面積など、を具体的にあげ、漁民、農家にとってこの地が欠くべからざるものとし、もし全面的な撤廃が無理な場合は、紅葉山砂丘地(M地区)への変更を願い出ている。

 (注3)知事意見書(昭和27年12月12日)―石狩花畔訓練場の接収除外を要望する石狩町の理由書に対する意見書
「石狩海岸地区について」―決定地区全部の除外は不適当としているが、演習地の後背には土地改良中のものを含めて水田2,450町歩があり、その為の灌漑溝が使用できなくなることを憂慮し、海岸一帯の貧困な水産資源に支障を与えないよう願っている。また、米軍が当初予定地より図面拡張した地については、除外を求めている。
「花畔地区について」―石狩町が申し立てている地域(M地区)への変更が妥当なことを述べている。

255-1.JPG (注4)石狩町花畔地区演習地に関する陳情書
海岸地区については、陳情の結果、第一騎兵師団より沖合十哩(マイル)は使用する可能性があるが海浜地は使用しない旨回答を得たので漁業計画を進めていることを強調している。
花畔地区については、ほとんどが農地であるので三角点付近(M地区)のみが適地であることを訴えている。
やむを得ず両地区を使用する場合は、海岸地区については魚場を除く海岸と砂丘を、花畔地区については三角点付近とするよう請願。
また、使用条件として、海浜では4月から12月までの漁期に支障の出ないこと、砂丘では砂防、風防の役目を果たしているハマナスや防風林が損耗することがないよう、花畔地区では営農に支障がないよう求めている。

 (注5)札幌調達局から外務省国際協力局長への文書
石狩町の陳情内容を全面的に認めて、陳情は、妥当で同情すべき、としている。

 以上が、石狩花畔訓練場接収問題の経過ですが、田中さんは、あいだ間に、様々なエピソード(新琴似4番通りが広いのは、戦時中本土決戦のため、丘珠から戦闘機を運んで南防風林に隠すために広げられた結果であること、紅南小学校地の確保の事、岩野正隆著の本の事など)を披露しながら、丁寧に説明されました。

 そして、冒頭予告された、おまけの話が、また大変興味深いものでした。

 太平洋戦争は、8月15日に終戦を迎えたのですが、終戦後、カムチャッカ南端の島にソ連軍が侵攻してきた時、九七式中戦車40台を保有していた日本軍は、それを迎え討ち、3日間の戦闘で27台の被害を受けながらもソ連軍を押し戻した。3日後に東京より停戦命令が下ったが、日本の被害が370人だったのに対してソ連の被害は3,000人だったとのこと。

type97_3.jpg 最後に、田中さんは、お話した以降の文書については、今のところ見つかっていないが、これからもあきらめずに探し続けます、と結ばれました。

 受講生からも

「紅葉山の演習地や麻生花川道、石狩浜のことなど身近なお話を大変興味深く拝聴いたしました」

「駐留軍の演習地として検討され調査、討議、現況をみて地元の反対運動等が効を奏して演習地域よりはずされた事について、当時の役場、農協、漁協の長及び関係者が協力して反対の姿勢を貫いた努力は大変立派な行為として賞賛いたします」

「田中先生の資料は良く整理されており、一般の市民にわかりやすく解説してくれるので大変良い。頭の中には石狩の歴史が数限りなくつまっている事に対して、大変な人だと思います。何かの機会に一つの事柄について詳しいお話が聞きたいと願っています。独特の話法が又よろしいです」

「田中さんが持っているあふれるような歴史内容が貴重な資料を裏付けさせながら、わかりやすく話され、本当に釘づけされたように聞き入ってしまいました」

 等などのコメントが寄せられました。

 石狩花畔訓練場の接収を回避した石狩町の粘り強い働きがよく理解できた講座でした。

 

 




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